『適齢期』(仮)

志乃原七海

第1話『いつまでもわたし達の娘だから』



適齢期『仮』

第一章:門限!


私は宮前かすみ、25歳。都会の片隅で、一人暮らしをしている。と言っても、その「一人暮らし」は、どことなく実家と地続きのようだった。両親と、私より十歳年下の妹の家族。妹は、私がまだ人生の地図を描き始めたばかりの頃に、驚くべきスピードで結婚し、子供を授かり、もうすっかり実家の新しい顔になった。そうなると、私の番は、当然のごとく、両親の視線が集まる場所だった。


「かすみは、結婚しなくていいんだからね!」


そう言って父が私の頭をわしわしと撫でてくる。母も隣でニコニコと頷き、まるで私の人生において、それが最善の選択であるかのように言うのだ。


「そうそう。仕事も順調みたいだし、趣味も色々楽しんでるじゃない。私たちも、かすみが家にいてくれるだけで嬉しいんだから。寂しくないもの。」


その言葉を、私はずっと両親からの「愛情」だと信じて疑わなかった。妹が家を出て行った寂しさを埋めるように、私は両親の傍にいることが、私に求められている「親孝行」であり、そしてそれが彼らの「幸せ」なのだと。だから、私もそれを望んでいるのだと、自分に言い聞かせていた。


…はずだった。


ところが、である。いつの間にか私も25歳。気づけば30歳が目前に迫り、私の「一人暮らし」は、まるで名ばかりになっていた。両親が「結婚しなくていい」と言いながらも、なぜか私の行動には厳格な「門限」が設けられているのだ。


昨夜もそうだった。職場の飲み会。仕事のプロジェクトが一段落し、同僚たちがお疲れ様会を開いてくれたのだ。皆、楽しそうで、私もついつい浮かれてしまった。軽く一杯、のはずが、話が弾んで気がつけばもう22時を過ぎていた。


「あー、ごめんね、私もう行かないと!」


スマホの画面を慌てて確認しながら、私は席を立った。同僚たちが訝しげな顔をする。


「え、もう?まだまだこれからなのに!」

「かすみちゃん、彼氏とかできると、早く帰らなきゃいけないんだっけ?」


「いや、そうじゃなくて…」


私は言葉を濁した。本当のことを言うと、彼らはきっと驚くだろう。あるいは、同情の目を向けるかもしれない。それはそれで、少し面倒だ。


「ごめん!うち、両親が結構厳しくて…。もう、門限が早くてさ。」


私は苦笑いしながら、早々に場を後にした。残された同僚たちに「楽しんでね!」と手を振りながら、少しだけ寂しさを感じていた。楽しかったはずの時間が、両親の「門限」という名の壁に阻まれて、急に色褪せたような気がしたのだ。


タクシーに乗り込み、実家への道を辿る。この時間、まだ父と母はリビングでテレビを見ているだろうか。それとも、もう寝ているだろうか。どちらにしても、私の遅刻(彼らにとっては「門限破り」に近い)は、きっと翌朝の小言として私を待ち受けている。


タクシーの窓に映る、ぼんやりとした自分の顔を見つめながら、私は漠然とした問いを、静かに心に抱きしめていた。25歳、宮前かすみ。私の人生の「適齢期」は、どこまで「仮」なのだろうか。


第二章:落雷の予感


週末、実家へ帰省した。昼下がり、リビングで母が私に話しかけてきた。


「かすみ、前に話した〇〇さん。お父さんも私も、あの人はあなたに合ってると思うのよ。少し年上だけど、仕事も安定してるし、何よりあなたに優しそうじゃない。」


両親が私に「結婚しなくていい」と言い続けていたはずなのに、ここに来て俄然、私の縁談話が出てくるのは、一体どういう心境の変化なのだろう。


「でも、私、今は…」


「いや、無理強いはしないさ。」父がテレビから目を離さずに言った。「ただ、いつまでも、一人でぶらぶらしてるわけにもいかないだろう。私たちだって、いつまでもあんたの面倒を見ていられるわけじゃないんだ。」


そして、父は付け加えた。「それに、もう夜も遅い時間になってきた。今日の門限も近いだろう?あまり遅くまで外にいるもんじゃない。」


門限…。その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で何かがカチリと音を立てた。一人暮らしなのに、門限。両親の愛情は、常に私を「彼らの娘」という枠に引き戻そうとする。私が自分の足で歩き出したとしても、その足は、いつまで経っても両親の家の門限に縛られているような気がしたのだ。


その晩、カフェに立ち寄ったのは、門限ギリギリで実家に帰るのが億劫だったからだ。ぼんやりと窓の外の夜景を眺めていると、聞き覚えのある声がした。


「あれ、かすみさん?こんな時間にどうしたんですか?何かあったんですか?」


声の主は、以前から気になっていた男性、健一さんだった。彼は、私を見るなり、少し心配そうな顔をした。


「そうなんですか。もしよかったら、少し話しませんか?今は門限とか、気にしなくて大丈夫ですから。」


健一さんの言葉は、あまりにも自然で、私の胸に温かく響いた。「門限、気にしなくて大丈夫」。その言葉が、私の心に刺さっていた針を抜き取ってくれたような気がした。私は、彼に言われた通り、自分の「門限」について、両親の厳しさについて、そして「一人暮らし」という名ばかりの自由について、ぽつりぽつりと話し始めた。


健一さんは、ただ静かに私の話を聞いてくれた。そして、時折、相槌を打ちながら、私の目を真っ直ぐに見つめた。


「かすみさんの話を聞いていると、時間が経つのを忘れてしまいます。かすみさんの内面にあるものは、とても豊かですね。」


彼の言葉は、私という人間そのものを肯定してくれるようだった。両親の「結婚しなくていい」という言葉が、私の人生を縛る「仮定」になっていたのだとしたら、健一さんの言葉は、私を「本当の私」へと解き放つ「真実」のようだった。


第三章:門限はもうない


それから、健一さんとの逢瀬を重ねるようになった。彼といると、自然と心が軽くなる。時間は、私の意志で流れ、門限という壁も、それを気にする必要もなかった。彼が私の話を聞いてくれる時、彼の瞳に宿る真剣な光は、「あなたは私の大事な人だ」と語りかけてくるようだった。


ある日、私は決心し、両親に健一さんのことを打ち明けた。


「あのね、お父さん、お母さん。私、健一さんとお付き合いすることになったの。」


リビングの、いつもの場所。父がテレビから目を離し、母が私の顔を覗き込んだ。


「ほう。それは良いことだが、もう夜も遅いだろう。門限は守っているのか?」


父の言葉に、私は胸が痛んだ。未だに「門限」か。


「でも、私は、もう、門限を気にせずに、彼といたいんです。彼と一緒にいる時間は、私自身の時間だから。」


私の言葉は、自分でも驚くほどはっきりと口から飛び出した。そして、母が私の肩にそっと手を置いた。その手は、以前にも増して温かく、しかし、どこか寂しげだった。


「かすみ…。」


母の声が、かすかに震えていた。父も、ゆっくりと私に向き直る。その目は赤く腫れていて、私をずっと見つめていた。


「かすみ。お前は、私たちにとって、ずっと宝物だったんだ。妹も可愛いけれど、かすみは初めての娘だからな。一人で生きていくのも大変だろうと思って、結婚なんてさせずに、ずっと一緒にいてほしかったんだ。」


父の声は、かすかに震えていた。母が私の手を強く握りしめた。


「でも、そんなこと言ったら、かすみに申し訳ないよね…。私たちが、かすみを独り占めしようとしてたみたいじゃないか。」


母の目から、大粒の涙が零れ落ちた。父も、かすかに目を伏せ、涙をぬぐうような仕草をした。


「旦那さん。健一さん。」


母が、健一に向き直った。その声は、かすみへの愛情と、娘を奪われる悲しみで震えていた。


「うちの、かすみ。大事な、大事な、わたしたちの娘なんです。どうか、どうか、幸せにしてやってください。私たちの愛に、負けないくらいに、かすみを、愛してやってください。」


母は、かすみの手を解放し、震える手で健一にすがりつくように懇願した。父も、無言で健一の方を見ていた。その視線には、娘への深い愛情と、未来への不安が入り混じっていた。


その光景を見て、私の目からも、堰を切ったように涙が溢れ出した。両親の愛が、こんなにも純粋で、こんなにも強いものだったことを、改めて思い知らされた。私がずっと「門限」という名の鎖だと思っていたものは、彼らが私を失いたくないという、純粋で切ない願いだったのだ。


隣に立つ健一が、そっと私の肩を抱き寄せた。彼の温かい腕に包まれながら、私は健一に向き直った。そして、震える声で、しかしはっきりと、父と母に向かって言った。


「お父さん、お母さん。ありがとう。本当に、ありがとう。」


そして、健一に向き直り、私は彼の目を見つめた。


「健一。私、決めたよ。」


健一は、私の決意の言葉を、静かに待っていた。そして、彼は両親の顔に向き直り、まっすぐに、力強く、こう約束したのだ。


「お父さん、お母さん。かすみさんを、必ず幸せにします。あなた方の、大切で、かけがえのない、お嬢さんを。私なりに、この人生を懸けて、幸せにしてみせます。」


彼は一度言葉を切り、そして、かすみに一度、そしてご両親に一度、かすみを深く見つめてから、改めて続けた。


「あなた方の愛情に、負けないくらいに。いや、あなた方の愛情を受け継ぎ、そしてそれを超えていくくらいの愛情で、かすみを、大切にしていきます。」


健一の言葉は、力強く、そして真実だった。それは、私の心に、今まで感じたことのない、温かく、確かな光をもたらした。両親の愛も、健一の愛も、どちらも私にとってかけがえのないものだ。私の人生という物語は、彼らの愛を受けて始まり、そして彼らの愛と共に、これから新しい章へと進んでいくのだ。


私はもう、門限に縛られることもなければ、「結婚しなくていい」という仮定の上に生きることもない。私は、私自身の人生を、私の愛する人と共に、歩んでいくのだ。胸の奥から込み上げる感動と共に、私はそっと健一の胸に顔を埋めた。私の適齢期は、「仮」ではなく、確かな「本番」を迎えたのだ。


「あ、あの…」


ふと、父が声を絞り出した。私は顔を上げ、父の目を見つめた。


「かすみ。お前は、もう、私の管理下にある人間ではない。でもな…」


父は、かすかに目を伏せた。そして、母の手を握りながら、続けた。


「…いつまでも、夕飯は、家に食べに来いよ。お前がいないと、やっぱり、寂しいからな。」


母も、隣で頷いた。その目には、もう悲しみはなく、かすかな期待と温かさがあった。


「そうよ、かすみ。いつでも、遠慮なく帰ってきなさい。健一さんも、一緒にね。」


私は、その言葉を聞いて、もう一度、こみ上げる涙を止められなかった。それは、もう悲しみだけの涙ではなかった。新しい家族の形、変わらぬ両親の愛、そして私自身の人生の始まりを祝う、そんな温かい涙だった。


「はい。必ず、夕飯、食べに帰ります。」


私は、健一の手を握り直し、父と母に、力強くそう答えた。門限はもうない。でも、私の心の中には、家族と繋がる温かい約束が、確かに宿っていた。私の人生は、「適齢期仮」から、今、本物の物語へと、大きく動き出したのだ。


この決断の後、私は一人暮らしだった、都心のマンションを引き払った。実家に戻り、父と母、そして健一と共に暮らすことを選んだのだ。今までの「門限」は、確かに私を縛るものではあったけれど、その根底には両親の深い愛情があった。その愛情を、健一という新しい愛と共に、私は大切に育てていきたいと思ったからだ。


毎晩、食卓にはかすみの席が用意されている。健一も、かすみの隣で穏やかな笑顔を浮かべ、時には父や母と楽しそうに会話を交わしている。妹家族も、週末には訪れ、賑やかな声が絶えることはない。


私の人生は、もはや「適齢期『仮』」ではない。それは、愛情という名の確かな絆に支えられた、温かい「本番」の物語として、今、静かに、しかし力強く続いていく。私は、自分で選んだこの道を、健一と共に、そして変わらぬ両親の愛と共に、迷いなく歩んでいくのだ。

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『適齢期』(仮) 志乃原七海 @09093495732p

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