ノクティルカ・シンティランス
遠部右喬
第1話
海を眺めるのなんて随分と久しぶりだ。重たいスーツケースのタイヤを砂にとられるのに辟易しながら、自分の長い影と波打ち際を歩く。
そこかしこに立つ遊泳禁止の案内板のせいか、こんな時期なのに
そんな風に感じるのは、俺の置かれた状況のせいなのだろうか――
あいつを選んだ彼女を責めるのはお門違いだ、分かってる。正しいだけの俺の言葉に、素っ気ない行動に、傷つき疲れた彼女をあいつはずっと支え続けたんだ。あいつの言葉を彼女が受け入れたのは、ある意味仕方がなかったのかもしれない。俺は自分のことで手一杯で、きっと気付かない内に周囲を振り回してしまってたんだ……なんて、今更だな。
けど、どうして俺がプロジェクトを外されなければいけないんだ。
「アイデアの盗用なんて恥ずかしくないのか」
身に覚えの無い部長の言葉に、耳を疑った。
盗用? どうしてそうなるんだ。交渉の苦手な彼女に代わってプレゼンしてやっただけなのに。あいつと彼女の用意した資料を纏めて提出してやったのだって、俺の仕事のついでに気を利かせてやったに過ぎない。取引先との交渉にも、二人じゃ心許無いだろうから付いて行ってやったさ。俺のお膳立てでプロジェクトが成功したようなものだ。皆だって知っている筈なのに、誰も俺を弁護しようとしない。
挙句、彼女が俺をつき纏いで訴えると言い出した。
こんなことを思うのは心苦しいが……部長もあいつも、以前から俺の能力を妬んでいたのだろう。目障りな俺を排除する為に、純真な彼女を言いくるめたに違いない。話をしようにも、行き帰りも仕事中も、彼女の周りには常にあいつや他の誰かが居てそれも儘ならない。怯え切った彼女の顔――間違いない、彼女は脅されてる。
俺が助けてやらないと。
二人のアパートに押し入ってあいつを刺したのは、彼女を逃がす為だった。なのに彼女は、怖ろしい形相で俺を口汚く罵った。きっと混乱していたんだろう。だから仕方なかったんだ。俺も混乱して、手が滑っただけなんだ。買ったばかりで切れ味が良すぎたのも良くなかった。
彼女の腹に刺さった包丁を引き抜くと、手袋越しに溢れた血の生温かさを感じた。
あいつはとっくに動かなくなっていたが、その隣に彼女を残しておくのは耐えられなかった。ぐったりとした身体を背負い、コインパーキングに向かう途中で、彼女の呼吸が止まった。
気力を振り絞り、愛車の助手席に彼女を座らせ、最初で最後の口付けを交わす。そう、これは不運が重なった末の事故なんだ。俺は泣きながら、あらかじめ用意しておいたスーツケースに彼女を詰め込んだ。
――火灯し頃の色を帯び始めた砂に、赤褐色に濁った生臭い波が打ち寄せる。赤潮か。実際に見るのは初めてだ。
波打ち際の満ちつつある潮に銀色のスーツケースを横たえると、錆が溶け込んだような色合いの波が驚くほどすんなりと沖に攫って行く。
ぼんやりと見送っていると、いやにはっきりとした女の笑いが潮騒に混じった。波間を揺蕩う銀色の向こうに、いつの間にか、女が首から上だけを海面から覗かせていた。
白目がちのぎょろりとした目が此方を窺う。死んだ魚の腹のような色の肌。こけた頬。血の気の無い薄い唇。尖った顎。
醜女だ。陰気な気配が実際以上に女を醜く見せている。
それが剥き出しの上体を彼女の
女が大きく息を吸い、舌なめずりをする。
「腐り始めの肉の匂い……美味そうだ」
女の背後で大きな尾鰭が水面を叩き、黄昏をぬらりと跳ね返す。ああそうか。この女は人魚なんだ。不思議と、疑問も恐怖もなかった。
顔に張り付く髪から潮を滴らせた人魚が、スーツケースをカリカリと引っ掻く。
「私への贈り物? なら、こいつを開けて」
彼女だった身体を人魚なんかに喰われてたまるか。俺はただ、彼女と俺の悲しみを解放したいだけなんだ。
「やめろ。手を放せ」
「私が欲しいんだろう?」
「あんたのように醜い女は要らない」
人魚は歯を剥き、悍ましい顔で嗤った。
「正直だね。けど、もう夜が来る」
凪いでいた海風が、陸風に変わった。
昼の残滓が夜に呑まれ、汚らしかった赤くくすんだ海は幻想的な青い光を帯びる。
砂浜に押し寄せる波頭が岩間にぶつかる度に。
波が重なる刺激に。
熱のない光が彼女の棺と人魚に纏わりつく。これは夜光虫――赤潮の夜の姿。
闇を染める青に、人魚の蠱惑的な笑みが
「ご覧。私は醜い?」
「いいや」
「だろう。私が欲しい?」
「ああ」
欲しくて欲しくて堪らない。
ごくり。
喉が鳴る。
「じゃあ、おいで」
手招きされ、波に分け入った俺の身体が光に包まれる。光の帯は足首から脹脛、腰を越え……人魚はもう目の前だ。
水かきのある手が青い水を掬い、俺の頬に撫でつけた。吹きかけられた生臭い息に酷く興奮する。
「これを開けて……」
喜んでスーツケースから肉塊を引き摺り出す。
波音に骨を噛み砕く音が混じり、流れる血や油の刺激で夜光虫が光を増す。やがて、全てを咀嚼し終えた人魚は玲瓏とした笑みを浮かべ、
「そんなに私が欲しい? お前ごときが?」
囁きにがくがくと頷く。
寄せられた悪夢のような美貌をうっとりと眺める。首筋に冷たい手が伸ばされ、爪を立てられる甘い痛みに呻きが漏れた。
「――私、悪食なの。だから私も、醜いお前が欲しいのさ」
薄い唇が首筋に触れた感触に陶然となる。
ぶちん。
ばしゃばしゃばしゃっ。
鈍い衝撃と、液体が海を叩く音。霞み始めた視界を青白い光が覆う。海面に散るどす黒い液体に、青の朧が一際美しく輝いた。
ノクティルカ・シンティランス 遠部右喬 @SnowChildA
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