【番外編】湿度の高い愛


こちらは、本編『ナナのいない世界』で書かれたエピソードを元にしたお話です。

重複箇所は多々ありますが、色濃く残った記憶の中で、特に自分の好きをまとめたものになっています。




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 私はきっと、何かの膜に覆われた空間が好きなのだと思う。



 例えばそう、夜明けの灰みがかった濃くて薄い青に包まれた部屋とか。冬の凛烈りんれつな朝や雨が降る日の朝風呂とか。


 ざっくり言えば、冬と雨と霧と夜明けと水中。そしてもう触れることのできない匂いや記憶を愛しく思う。



 明け方の朝風呂は電気をつけないので、浴室は霧の中に似ている。窓から射し込む光に水の粒はキラキラと漂い、時折排水口に水の落ちる音がする。


 記憶を辿るように好きな音楽を再生すると、鼻唄と一緒にじわり、じわりとお湯に溶けていく気がした。


 つんとした寒さや、さあっと駆けては戻るような雨も。

 雨を見ているとなんだか落ち着いた気持ちになる。どこまでも続く鈍色の空と、糸のように細い雨。



「わあ、風が気持ち良いわねえ」



 そう言っていたのは入院先で面倒を見てくれた看護婦さん。手からは消毒液の匂いがして、病院の屋上には視界いっぱいに広がる空と真っ白なシーツがはためいていた。


 皆が嫌う病院の匂いは、今でも懐かしくて安心する。どんな鉄扉の先にだって、あの舞い上がりそうなシーツと青空はきっと存在しているのだ。



 それは名前のない関係だったあの人の家のように、全てはなにかの膜に覆われている。そしてタバコと夜の高速みたいな部屋の空気。全てが水に溶けていくようだった。



 たぶん、記憶は水底に沈んでる。



 青よりも深く、群青よりも濃い海で聞こえる潮と空気の弾ける音。容赦なく照りつける太陽に全てがきらきらと波打ち、視覚と聴覚は砕けそうだった。


 その寂れた海辺町に面していた祖母の家は、どろどろに煮詰まった死の匂いがする。此処ではもう誰も住んでいないし、生きてもいない。



 霧のように不確かな存在は確かに私の中で息づいているのに、膜の内側で私を呼ぶ声はもう誰も生きてはいないのだ。


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【完結】ナナのいない世界 片霧 晴 @__hal07

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