『コーヒーはまだぬるい』

鈴木 優

第1話

   

   『コーヒーはまだぬるい』

            

                鈴木 優

 

 

 朝の光がカーテンの隙間から差し込む。時計の針は七時半を指していた。

 アラームはまだ鳴ってない 

 けれど、まだベッドの中で、天井の染みを、ぼんやりと見つめていた。


「今日も、何かが足りない気がする」


 そう思うのは、もう何度目だろう。

 仕事はある。友人もいる。週末には映画を観に行く予定もある。

 けれど、心のどこかに、いつも小さな空白がある。まるで、パズルの最後の一片が見つからないまま、完成を待たされているような感覚。


 キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。豆を挽く音、湯を注ぐ音、香りが立ち上る。

 けれど、飲んでみると、やっぱり少しぬるい。温度のせいじゃない。何かが、ほんの少しだけ、足りない。


 通勤電車の中、隣の人のイヤホンから漏れる音楽が耳に入る。ふと、自分のイヤホンを外してみる。音のない世界に、車輪の音と、誰かの咳払いが響く。


「俺は、何を待ってるんだろう」


 駅に着いても、答えは出ない。

 けれど、今日も歩きだす。もどかしさを抱えたまま、それでも前に進む。

 いつか、その空白が埋まる日を、どこかで信じながら。


 職場のデスクに着くと、俺は、いつものようにパソコンを立ち上げた。

 メールの未読は十七件。

どれも急ぎではない。けれど、急ぎではないことが、逆に俺を焦らせた。


「今日も、何も起きない気がする」


 そんな予感を打ち消すように、俺はマグカップを手に取った。オフィスのコーヒーは、家のよりさらに味気ない。けれど、温度だけは熱すぎるほどで、舌を少し火傷した。


「ぬるいくらいが、ちょうどいいのかも」


 思わず、独り言が漏れた。その瞬間、隣の席の後輩が顔を上げた。


「え?何か言いました?」


「いや、なんでもないよ」


 俺は少し笑って、また画面に視線を戻した。けれど、その笑顔が、俺の中の何かをほんの少し揺らした。


 昼休み、俺は珍しく外に出た。ビルの裏手にある小さな公園。ベンチに座って、コンビニで買ったサンドイッチをかじる。風が少し冷たくて、でも心地よかった。


 ふと、スマホを取り出して、メモを開いた。

 そこには、数ヶ月前に書きかけた文章の断片が残っていた。


 「何かを変えたい。でも、何を変えればいいのかがわからない」


 その一文の下に、俺は新しくこう書き足した。


 「それでも、今日の風は少し違って感じた」


 指先が止まる。けれど、心の中では、何かが少しだけ動き出した気がした


 子供達の笑い声、ベンチで寛ぐサラリーマン

 

 何をするべきかを求めない日があってもありなんだ

 普通でいられる事の幸せを知る

 

 

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『コーヒーはまだぬるい』 鈴木 優 @Katsumi1209

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