くちなしの歌

@bk117ec135md902

プロローグ

 *


 人差し指を、遠い空に伸ばす。


 その山の裾からゆっくりと縁取るようにして頂上へ上がると、向こうから吹いてくるキリキリとした北風が指先を凍らせてくる。太陽の光は段々と増えてきているのにその暖かさまでは届いてこない。

 東北の春は遠かった。山の上にはまだまだ雪が解けずに残っていて辺りの景色とは色が違うし、あそこにいたら本当に寒そうだ。


 遠い春

 万年雪

 いつになったら?


 脇に停めた自転車のかごから手帳を取り出すと、頭に浮かんだ言葉を書き留めた。シャーペンを握る手でさえも悴んで、手袋を外したのを後悔するくらい。

 そしてもう一度指を伸ばして今度は右の斜面をなだらかに下ると、何か浮かんでこないかなぁと眉を曲げてみる。

 何だろう、今の気持ちは。山の手前に広がる枯れた田んぼを見ながら、自分の心にぴたりとする言葉を探して思考を巡らせた。

 歌を詠みたい。思わず私が乗っていた自転車を止めて景色に目を向けているのはそのためだ。

 五七五七七。たった三十一字に思いを込めて誰かに伝える。それが短歌。

 新年度用にと買い替えた手帳の自由欄にはもうびっちりと歌のメモが書き込まれて、ああでもないこうでもないと訂正を入れた赤ペンの跡が向かいのページにもはっきり写っている。

「アイデアは、こんな何気ない日常の中にまるで種のように植わっている」と、私に言った人がいた。そして「自分がピカンと冴えた瞬間に胸の中の感情をかき集めて一気に歌にする全てが好き」と、その人は言った。

 先生、と出会ったのは、ちょうどこんな初春の日だった。


 *


 いきなりぶわっと風が吹いて、思わず私は厚いコートの袖に腕を引っ込めた。今日は雲一つない晴天なのに最高気温はひと桁台。山々から吹きつけてくる風は頬を切るようにして私をさらにぎゅっと縮こまらせた。

 やっぱり東北の春は遠い。辺り一面の乾いた田んぼにもところどころ雪が残って、鳥達が「冷たい冷たい」とその上をぴょんぴょん跳ね回っている。


 は、そうだ。


 気持ちがその鳥たちに傾きかけていた時、もう一度吹いた北風で目が覚めた。そう、ぼうっとしてる場合じゃない。

 急いで手帳をしまうと、自転車のスタンドをガンと勢い良く蹴って駆け出した。予想以上に音が鳴って驚きながら、ふと外に出た理由を思い出す。

 虻田はるひさん。

 そのために何枚も重ね着をして、お腹にはカイロを三枚も貼ってきたのだから。そして危なっかしく左手だけでハンドルを掴み右のポケットに手を入れると、確かに薄くて固い一枚のカードの感触があった。大丈夫、落としてなかった。


 私が住むこの町は、人口二万。県内ではかなり人のいる方だと後から聞いた。「後から」というのは私がこの町に越してきてからという意味だ。ここは自分の生まれ故郷ではなく、父のふるさと。私は小学生の頃に引っ越してきた。

 それでも、私はここを気に入っている。山と田んぼと畑しかなくて、何も無くて、人は疎らで気車も一時間に一本しか来ない。だけどそれがとても落ち着いた。強いて言えば、本屋が町に一つしかないのが欠点だろう。


 その本屋こそ、今日の目的だった。結局辿り着いたのはあれから一時間ほど経った昼下がり。駅員さんが一人しかいないその駅にはちょうど下りのディーゼル車が来ていて、ぱらぱらとお客さんが降りるのが見える。

 皆ポケットに両手を入れて、歩幅を小さくしてせかせか歩いているから、余計に私の気持ちも焦ってきてしまう。

「あ、ほのちゃん。待ってだよ」

 駅前の小さな空き地に自転車を停め、少し早足で店に駆け込むと、店主のおじいちゃんに声を掛けられた。よれた紺色のエプロンから覗かせる柔らかな顔に、私は軽く会釈をする。きっとこの町で売り切れるなんてことは有り得ないのにまだ私はドキドキしていた。もっと早く着く予定だったのに。

「あれ、奥の棚だよー?」

 おじいちゃんにそう言われて、私は弾かれるようにお店の奥へ向かった。そそくさと雑誌の棚の前を抜けて、マンガのコーナーを通過して、小説の山のさらに向こうへと私は駆けていた。とはいえ、お店もこぢんまりとしているからすぐに辿り着ける。そして数年間誰にも触れられていないような埃を被った本たちの上に目を凝らした。

 お目当てのものは…その上にあった…。


『つじ雲 虻田はるひ』


 好きな歌人さんの最新歌集。手袋を外して卸し立てつやつやのカバーに触れると、キュキュッと小気味いい音がした。


 …よかった、ちゃんと残ってて…。


 思わず嬉しくなって、胸にぎゅっと抱いてみる。気持ち、かかとが軽くなって、思わずその場でぴょんぴょん飛び跳ねていた。

「ほのちゃんに頼まれて、新庄の大きな本屋から昨日仕入れたんだよー?」

 不意に本棚の陰から声をかけられて私はびくっと背筋を正した。今朝からずっとこの歌集を手にすることを楽しみにしていたから、あまりにも周りが見えていなかった。

「良かったねえ、誰にも取られなくて。ま、お客さんそもそも来ねえけどな!あはは」

 きっとおじいちゃんは嬉々としていた私の背中を見ていたのだろう。あんな姿を見られて恥ずかしい。

「お代はどうする…?」

「…」

「あ、おばあちゃんのツケにするかい?」

 おじいちゃんはゆったりとした声で私に聞く。

 でもおばあちゃんのツケなんてとんでもない。私は右ポケットに温めた図書カードを手早くすっと差し出して、歌集をさらに強くぎゅっと抱くと、おじいちゃんよりも先に足早にレジに向かった。



 今開けて少し読んでしまうか、家に帰ってからじっくり眺めるか…どっちもいい。

 店を出てちらっとページを捲ってみると、新しい本の香りがしてさらに気分が上がる。無事に歌集を買えた私は少し有頂天になっていたのだろう。前をあまり見ずに悩みながら駅前を歩いていた。自転車に乗ってあとは帰るだけ。その時だった。

 目の前に不意に人影が見えた。次の瞬間、

「痛っ」

 という女の人の声が聞こえた。


 刹那、頭が真っ白になる。


 自分の身体にもズシリとした衝撃を感じつつ、私はすみません、の一言が出来ない。


 私とその人は、共に倒れかけていた。


 視界に入った足元に高いヒールが見える。


 それで、余計に後悔した。

「…」

 それは若くて、私よりも少し年上の人に見えた。とても綺麗に整えられた長い黒髪、新雪のような肌。それから、私を嫌悪の目で睨んでいた。

 でも、言葉が出ない。

 何も言わない私に怒りをさらに覚えたのか、その眼光は脅えるほどに怖かった。

 足元に転がったスマホを真っ先に拾い、倒れたキャリーケースを起こしながら

「…最悪」

 と溢す。


 この辺では見ないお洒落な服だ。細身のラインに合わせたようにストレートな布地が張り付いて、しかし微かに土が付いている。彼女はそれを払いながら、固まったままの私をもう一度睨みつけた。

「!」

 何か言われる。そう思った。

 切れ長で冴えた目が私の身体に向けられている。私はその鋭さに耐えられず思わず顔をそむけた。

「だから大丈夫だって。忙しいけど、休み取れたらそっち帰るから!」

 けれどその人は無視をして、途中だった電話を続けるべく去っていった。ふわりと裾が宙に揺れた時、その人からは嗅いだことのない、甘い花の匂いがした。


 *


 私は、くちなしの子。

 そう言われて生きてきた。

 言葉に、できない。


 別にずっと話せないとかそういう訳ではない。

 人が多いところ、初めての人がいるところ、落ち着かないところ、家じゃないところ、そういう場所で声が出なくなる。


 だから自分の事を話せなくて、気持ちが言えなくて、自分というのが何なのか分からなかった。

 言ってみれば、影が薄くて、透明人間みたいな存在だと思っていた。


 そう、「先生」に出会うまでは。

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