最終章 言ノ葉の祈り
春霞のなか、山間に小さく佇む社――そこに、ふたりの姿があった。琴音と千景。
季節は巡り、ふたりが契りを新たにし、最果ての神域から戻ってから一年が経とうとしていた。
白無垢に身を包んだ日から、琴音はこの社を守る“言霊の巫女”として、
千景はその隣で剣を置き、今は農と狩りで穏やかな日々を過ごしていた。
村人たちは彼らを“契りの守り人”と呼び、かつての騒乱がまるで夢のようだった。
「今日は春祭りだよ。千景、ほら早く」
朝の支度を整えた琴音が、布団からなかなか出ようとしない千景の足をくすぐる。
「もう少し寝かせてくれ。せっかくの夫婦の朝だろ」
「言い訳になってない。さ、起きて起きて!」
ふたりの笑い声が、山の空気を和ませる。
――だがその平穏の裏で、異変は静かに、確実に忍び寄っていた。
春祭りは、村の人々が年に一度だけ仮面をつけて踊る、不思議な風習が残る行事だった。
神々と人の境界が薄れるこの日に、琴音と千景は夫婦として、神前に捧げる“契りの舞”を披露することになっていた。
琴音は白い羽織を身にまとい、千景はかつて戦に使った黒羽織を着ていた。
ふたりが社の舞台に上がると、村人たちは手を合わせ、静かに祈りの姿勢を取った。
太鼓の音が鳴る。
笛の音が空を縫う。
そして、舞が始まった。
踏み出す足。指先の旋律。視線の交わり。
言葉はいらない。ただ、ふたりの呼吸と鼓動が、空に、地に、染み渡っていく。
(この人と、共に生きる。それが私の、私だけの選んだ道)
琴音は千景を見つめた。
その視線を、千景も静かに受け止めていた。
(守りたい。たとえこの世界が終わろうとも)
ふたりの舞が終わったとき、空に桜が舞った。
季節外れの花吹雪は、神々の祝福のようにも見えた。
だがその夜。空は一転して、黒雲に包まれた。
雷鳴が遠くの山を揺らし、風が狂い始める。
社の奥、神鏡の前に立った琴音の耳に、再び“声”が響く。
――「契りの巫女よ。最後の“選択”を迫る時が来た」
琴音は凍りついたように動けなかった。
その声は、あの最果ての地で聞いたものとは違う、もっと冷たい“神の声”だった。
「誰……なの……?」
すると、鏡のなかに映ったのは――かつて自ら“契りを破棄した巫女”の姿だった。
「私は“空契の巫女”。かつて契りを信じ、そして裏切られた者。
神との契りは、やがて人を滅ぼす。お前もいずれ、すべてを失うのだ」
琴音は頭を振った。「そんなこと、ない。私たちは……もう、迷わない」
「では試すがいい。お前がすべてを失ったとき、それでも“絆”が残るのか」
その瞬間、雷鳴とともに鏡が砕け、社が揺れた。
* * *
異変を察知した千景が駆けつけたとき、琴音は倒れていた。
「琴音!」
抱き上げると、彼女の瞳は開いていたが、焦点が合っていなかった。
「聞こえる……声が……壊れていく……」
琴音の中の“言霊の力”が、崩壊しかけていた。
「なぜだ……! ようやく平穏を手に入れたのに……!」
千景は必死に彼女の手を握った。
「琴音……! 俺の声が、届いてるか!? ……戻ってこい!!」
だが、彼女の身体は徐々に透けていく。
まるで神々が、契りを“終わらせよう”としているかのように。
(このままじゃ……琴音が、世界から消えてしまう……!)
そのとき、ふと千景の脳裏に、最果ての巫女の言葉が蘇った。
――「真の契りとは、言葉すら超えるもの。
魂を結び、名を分かち、互いを半身とすること」
「名を分かつ……魂を結ぶ……!」
千景は刀を抜いた。
かつて神域を超えるために、神々の試練に使われた“鏡鋼の刃”。
「俺の名をやろう。俺の魂を、お前に刻む」
彼は自身の掌を刃で傷つけ、琴音の掌にその血を押し当てた。
「千景……?」
琴音の瞳が、微かに揺れる。
「聞こえるか? これは契約じゃない。願いでも祈りでもない。
――これは、俺たちの“決意”だ」
ふたりの手から淡い光が溢れる。
それはこれまでのどんな契りよりも柔らかく、温かく、そして強かった。
「私は……あなたと、生きたい」
琴音がそう呟いた瞬間、崩壊しかけた世界が、静かに再構築されていった。
* * *
夜が明けると、嵐は去っていた。
社の鏡は砕けたままだが、空には清らかな風が吹いていた。
千景は琴音の髪をそっと撫でた。
「帰ってきてくれて……ありがとう」
琴音は微笑んだ。「帰る場所が、ここにあるって……信じてたから」
村人たちが社の様子を見に来て、ふたりを見て歓声を上げた。
「無事でよかった! また、春が来るんですね!」
ふたりは頷いた。
春は、何度でも巡る。
そして絆も、何度でも結び直せる。
たとえ神の力が壊れようと。
言葉が消えようと。
この声が、名が、想いがある限り。
――この絆は、永遠になる。
狐の嫁入り、契約は恋を連れて ゆずの しずく @yuuu2525
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