おまけ③ ―白比丘尼奇憚―

『白比丘尼奇憚』


むかし、太平の御代に、ひとりの女人ありけり。


その御髪みぐしは雪のごとく白く、黒き瞳は深き海の底をたたへ、よはひを重ぬるとも、老いのけしき見えず。


女人、北のはての海に棲む人魚の肉をくらひしより、不死の身と成りにけるとぞ。


里の人は畏れ、かの女人を白比丘尼しらびくにと呼びぬ。


その事跡、諸説相半ばして入り混じり、定かならず。ここに記すは、いづれも古き記録に見ゆるものなり。



一説に曰く、


この世に長くありながら、衆生と交はり、病める者に手を翳して癒し、飢ふる村には山野の恵みをもたらしける。


千年を経るとも姿かはらず、里の人々、これを神仏の化身ならむと噂しけり。


また凶年には、深山に入りて木の実を採り集め、飢ゑを凌ぐ術を教へけるとぞ。


されど、また一説に曰く、かのをんな、世の事物に心を移さず、ただ己が欲しきもののほかに執はれず。


人の生死しょうじもまた、うたかたのごとくに眺め居りしとぞ。


ある古記には、かの比丘尼に道を問ひし僧の問答を記せり。


「この世の儚き人の命を、いかに思し召すや」


白比丘尼、長き沈黙ののち、曰ひける。


「水に咲く蓮の花をば、いちいち数ふる者はなし。


されど咲けば目をとどめ、うるはしく、散れば惜しむ。


そのほどには思ひをりぬ」



白比丘尼にまつはる奇しき物語、数多あまた残りて、


ただ、白き御髪と老いぬ齢のみ、いづれの書にも異ならず。


人々はそれを奇異きゐとし、あるは畏れ、あるは尊び迎へ、


その御名を「永久子とわひめ」と呼び奉る者もありけり。


されど、ある記に曰く、白比丘尼、つひに人の営みを離れ、


深山幽谷に入り、ひとりして瞳を閉ぢたりと。


いづれの世のことにや、それを見し者なしといふ。

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かつ丼が食べたくて はむぱん @Ham_pang

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