二十二時の目

夔之宮 師走

二十二時の目

 機密保持契約があるので詳細は省くが、俺が勤める会社は取引先で手が足りないので手伝ってほしいとか、知見が無いので教えてほしいといったことに応えて金を貰っている。

 コンサルティングと言うほど立派なことをやっているわけではない。かといって単なる作業の下請けというわけでもないのが面白い。世の中にある仕事と仕事の隙間で、ほどほどの専門性を発揮しつつ、池袋の片隅でなんとか食っている会社である。


 ある暑い日の夕方。俺は日中出かけていた所為で、軽い熱中症のような状態になっていた。そろそろ退勤だと思っていた矢先、何度も取り引きのある会社の担当者から電話があった。それは、他社に乗り換えるとのことで当社が失注した案件の話だった。

 詳しく聞くと、乗り換えた先が納期を守らなかった上、全く想定と違った要件の成果物を納品してきたとのことである。まったくもって知ったことではない。当社に発注しておけば良かったのだ。

 担当者からの連絡は、明後日にはその成果物とやらを使うので、どうにかならないかという無茶な相談。否、泣き落としであった。俺は馬鹿馬鹿しくなって適当に断ろうかと思いつつも、今月の自分の売り上げを思い浮かべる。まぁ、受けるのも悪い話ではない。と言うかやるべきだ。

 俺が独りでどうにかできる仕事の量ではなかったので、向かいの席に座っている社長に報告をする。当社は風通しが良いのだ。

 社長は「こういう時に恩を売っておこう」と元気よく言うと、「しっかり頼むよ」と言った。しっかり頼まれた俺は取り急ぎ担当者に連絡をする。

「本当に助かります」

 その言は次回も発注してくれたら信用しよう。俺は芯の方が熱を持ってぼうっとしている身体を叱咤し、やるべき作業の洗い出しを進めた。


 数十分と経たず俺の身体がアラートを出す。これは駄目だ。

 明日の朝、出勤してきたメンバーに展開する為に今晩中に要件を整理しておきたいが、このまま進めても粗があって文句を言われそうだ。割り切って休むことにする。

 俺はこれまでも何度も世話になっているキャンプマットを広げて寝転がった。床にそのまま寝転んだり、椅子を組み合わせて休むより余程良い。QOLというやつだ。違うか。


 少し微睡んだぐらいのつもりだったが、スマートフォンを見ると21時を過ぎている。俺は眠気覚ましに近所のコンビニエンスストアに軽食を買いに行く。

 サンドウィッチとコーヒーを腹に入れると、徐々に元気が出てきた。事務所には誰もいない。俺はイヤフォンで残業のお供になるプレイリストを流しながら作業を進めていった。


 ふと嫌な感じがした。


 当社はオフィスビルのワンフロアを借り切るほどの体力もないので、結果的にフロアの一部を鰻の寝床のように細長く借りている。

 俺の席は寝床の奥側にある。当社の入口の方を見ると、黒く、濃い靄が机と机の間に立ちぼっており、そこに目があった。

 

 俺はルネ・マグリットが好きだ。マグリットとの出会いは、ブルーノ・エルンストの『エッシャーの宇宙』を読んだ時まで遡れる。

 確か小学生の頃だ。おそらく父親が買ったと思われる本を眺めていた時、エッシャーの作品に心を惹かれただけでなく、シュールリアリズムの例として挙げられていた『血の声』や『光の帝国Ⅱ』を知った時の衝撃を説明するには俺の語彙力が足りない。

 後年、東京でマグリット展があり、初めて『血の声』を見た時、俺はその前をしばらく動くことができなかった。筆舌に尽くしがたいという表現を使える経験が一つでも二つでもあるのは本当に良いことなのだろう。


 そのマグリットの作品に『王様の美術館(原題:Le Musée du Roi)』がある。興味が湧いた人は横浜美術館に行ってほしい。陳腐な表現になるが、芸術とは何かということの一端を知ることができると思う。少なくとも俺はそう信じている。

 それはいい。事務所の奥の靄の中に、件の『王様の美術館』の顔にあるような目が浮かんでいた。鼻や口はない。

 目は俺を真っ直ぐに見ている。


 俺は、その目を見ていたら無性に腹が立ってきた。暑い日の夜。仕事に追われている俺が、何故こんなよくわからない目の所為で心が乱されなければならないのか。

 俺は思わず「いるなら手伝え。手伝えないなら邪魔だから早く帰れ」などと言ってしまった。バカとか言ってしまったかもしれない。勢いというやつだ。


 靄の前に浮かんだ目は一瞬悲しげに伏せられたように見えた。が、俺は眼鏡をかけても視力が随分と弱いので、それは俺の思い込みだったかもしれない。

 中空の目が消え、靄が事務所の奥にある倉庫に使っているスペースにふらふらと向かって行く。


 俺は急に申し訳ない気持ちになった。どう考えても八つ当たりである。俺は自分の言動を反省し、ふよふよと遠ざかる靄に向かって詫びた。

「八つ当たりしてしまった。ごめんなさい」


 暫くの間。


「いいよ」という声が俺に届いた。

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