斜陽のコード
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斜陽のコード
第1章:沈黙する母と、崩れる家
東京都北区、線路沿いの古アパート。 築四十五年、二階建て、風呂は追い焚きなし。夜になればJRの走行音が壁を揺らし、時折天井から塗装の欠片が落ちてくる。
かず子は、そのアパートの102号室で、母と二人暮らしをしていた。 三十三歳。かつては都庁のITセキュリティ部門に勤めていたが、ある“報告書”を出したせいで上司の逆鱗に触れ、事実上の更迭を受けた。退職後は無職。就活もしていない。する気もなかった。
冷蔵庫に貼られた電気代の督促状。レシートの裏にメモされた献立。ぬるい緑茶と安物の味噌汁の匂いが、部屋に静かに染みついていた。
「また、新聞配達の求人、断ったの?」 母がそう言ったのは、朝食の食器を下げるときだった。 声は穏やかで、批判的ではない。でも、それが一番きつい。母の言葉は、静かな咎めとして、かず子の皮膚の下に染み込んでくる。
「やる気がないんじゃない。向いてないの」 そう答えたが、自分でもその言葉に説得力がないのは分かっていた。
台所でスープを温める。 昨日の残りに水を足しただけのコンソメスープ。だが火を強くしすぎた。
ぼんっ、と鍋が跳ねた。 焦げた匂いが、天井の隅にまで張りついた。 かず子の手が震える。火を止め、鍋を流しに置いた瞬間、思った。 (まただ) 自分の中の“何か”が、焦げついたまま修復されないまま、日々を過ごしている。
午後、母は昼寝に入り、かず子は一人でアパートの裏手にある小さな空き地に出た。 父が死ぬ前に一度だけ手入れした菜園の名残で、いまでは雑草と、プランターに残った枯れたネギだけがある。
手袋をせずに土をいじる。爪の中に泥が入り込む感触が、なぜか少しだけ気持ちいい。 (自分は何の役にも立たない)そう思う。けれど、それが“底”なのかは分からない。
土の下で何かが蠢いているような感覚── もしかすると、芽が出るかもしれない。 いや、違う。芽を出させるしかないのだ。 どれだけ焦げていようが、腐っていようが、生きている限り。
それが“反撃”だと、かず子はまだ言葉にできなかったが、心のどこかでそう感じていた。
第2章:落ちた兄と、情報の闇
夏の終わり。線路の金属が昼でも冷え始める頃、直治が帰ってきた。 二年ぶりの帰還。連絡もなく、電話も出ず、アパートのチャイムを鳴らしたときには、もう手遅れの顔をしていた。
ドアを開けた瞬間、かず子は目を細めた。 直治の皮膚は黒ずみ、頬はこけていた。ワイシャツは汗と煙草の臭いを吸って、街の闇の色をしていた。 「ただいま」 それだけ言って、靴を脱がずに部屋に上がった。
かつての直治は、都内のベンチャー企業を渡り歩きながら、フリーのITエンジニアとしても名が通っていた。 だが今、彼の肩にあるのはリュック一つ。中身は着替えとノートPCと、数冊の自己啓発本。
「仕事は?」 「うん。あるにはある。ちょっと、俺なりのやり方でな」 その“やり方”という言葉に、かず子は言葉を返さなかった。
直治は夜になると、ノートPCを開き、布団の上で作業を始める。 画面に映るのは、コードの断片、エクセルのリスト、そして謎の掲示板。
「これ、合法?」 「どうだろうな。法律よりも、金のほうが速い世界だから」 そう言って、彼は笑った。だがその笑いは、まるで銃声のように空虚だった。
ある晩、直治が風呂に入っている間、かず子は彼のPCをこっそり開いた。 ロックはない。開いたウィンドウには、“上原”という名が何度も出てきた。
送信済みメールの件名 「アカウント連携完了」 「脆弱性リスト(最新版)」 「報酬分配スキームv3」
冷たい汗が、かず子の背中を流れる。 直治は、何かに加担している。 それも、ただの副業なんかじゃない。人を騙し、金を奪い、痕跡を消す種類の“仕事”。
その夜、兄は泥酔して帰ってきた。 玄関で倒れ込み、嘔吐しながらつぶやいた。 「……上原には、近づくな……」
その一言に、かず子の中で何かが点火した。 彼が守ろうとしたもの。 彼が壊そうとしているもの。 どちらももう手遅れだとしても、自分は見届ける必要がある。
兄の部屋から漏れる光と、線路を走る列車の音。 そのどちらも、かず子にとっては現実の境界線を知らせるノイズだった。 彼女は、その境界を越える準備を始めていた。
第3章:コードネーム“上原”
その男に初めて出会ったのは、渋谷の雑居ビルだった。
ワンフロアすべてがリノベーションされたシェアオフィス。観葉植物とマットブラックの壁、コーヒーの香り、そして──人を値踏みする視線。
かず子は、直治の遺したメールアカウントを使い、「元案件パートナー」としてコンタクトを取っていた。
返信は一行だけ。 「時間は17時。黙って来い。上原。」
“上原”は、想像と違っていた。 もっとギラギラした詐欺師を思い描いていたが、彼は細身の黒シャツにグレージーンズという地味な格好だった。 けれど目だけが異質だった。何かを計算しているようでいて、同時にすべてに興味を失っているような目。
「お前、直治の妹か。……あいつ、死んだんだろ?」 かず子は返事をしなかった。 その沈黙が、彼を少しだけ笑わせた。
上原は心理系のVoicyパーソナリティであり、SNSでメンタル改善や収入増加を謳う“影の商材屋”。 だが裏の顔は、情報統制と金の流れを仕切る“ネット版フロント”。 “合法ギリギリ”の情報を売り、“人”を刈り取る。
「直治のコードは、よくできてた。惜しいやつだった」 そう言って、USBを机に滑らせる。 「お前、やる気あるのか? この世界、見るだけじゃ済まないぞ」
その日から、かず子は情報屋として動き始めた。 捨てアカの管理、投資セミナーの裏名簿整理、仮想通貨の逃げ場探し。 違法かどうかは問題じゃない。金と信頼、それがこの世界のすべて。
夜、仕事が終わると、上原と酒を飲む。話す。時には、黙ったまま彼の部屋にいることもあった。
上原の手は冷たい。 でも、その冷たさが、かず子にとっては現実だった。
「なんで私に関わらせるの?」 ある晩、そう聞くと、上原は煙草の煙を吐きながら言った。 「お前は“堕ちる覚悟”ができてる目をしてる。そういう女は、裏切らない」
その言葉が本当かどうかは問題じゃなかった。 かず子は、自分が“裏切られる側”だった人生を終わらせたかった。
彼といる時間は、過去を忘れられる。 母の沈黙も、直治のあの夜の叫びも。 誰にも頼れず、何も守れなかった自分も。
そして、その夜、かず子は上原に身を預けた。 最初の接触ではない。だが、その夜は決定的だった。
これは愛じゃない。信頼でもない。 ただ、すべてを“終わらせる”ための通過儀礼だった。
朝、ベッドの上。 上原は隣で寝ていた。だが、かず子の意識はすでに別の場所にあった。 (この男の“奥”にある何かを、私は見に行く)
覚悟が、静かに整っていくのが分かった。 次の一手が、命取りになることを、かず子はもう恐れていなかった。
第4章:母の死、兄の終わり
十月の風が、アパートの隙間から忍び込んできた。 母はその日、一度も立ち上がらなかった。
病院のベッドは、ただの演出だった。 主治医は言う。「検査は可能です。ですが、ご本人の意思が強くて…」
母は酸素マスク越しに、かすれた声でかず子に言った。 「このままでいいの。家で、終わらせて」
その目に、かつての厳しさはなかった。ただ、長い敗北の末にたどり着いた“諦め”が宿っていた。
夜、母の寝息は波のように浅くなっていく。 枕元に置かれたラジオは、古い歌謡曲をかすかに流していた。
かず子は、何も言えず、ただ母の手を握る。 指は冷たく、骨の形がはっきりわかるほど細くなっていた。
そして、午前2時12分。 母の呼吸が、すうっと止まった。
「ありがとう」とは言えなかった。 代わりに、かず子は一人きりで母のまぶたを閉じた。
葬儀は簡素に終わった。参列者はわずか5人。 花も香典も少なく、喪服の色だけが濃く残った。
その夜、直治が姿を現した。 数日ぶりだった。目の下にクマ、手は震えていた。服の匂いが、酒と薬と煙草とで渾然一体になっている。
「間に合わなかったか……」 それだけ呟いて、リビングの床に崩れた。
かず子は、母の形見の茶碗を洗いながら、兄に聞いた。 「上原と、どこまで関わってたの?」
直治はしばらく沈黙した。 そして、紙を一枚、テーブルに置いた。そこには一行だけ、走り書きがあった。
> 「これは俺の代償だ。あとは好きに使え」
紙には、ランダムな英数字の羅列──暗号化されたコード。
「俺はもう、無理だ。眠ってるほうが、楽だ」 それが、兄の最期の“説明”だった。
翌朝。 公園の公衆トイレの裏で、直治が倒れていた。 近所の子どもが発見したという。
意識はなく、そばには空の錠剤ボトルと、初期化されたスマホ。
病院のベッドで、呼びかけにも反応せず、兄はただ生きているだけだった。
かず子は、その寝顔を見つめた。 悲しいわけでもない。ただ、静かだった。
母が死に、兄が壊れた。
――誰も残らなかった。
けれど、かず子の手元には、兄のコードがある。 そして、それをどうするかを決められるのは、もう自分しかいない。
静かに、しかし確実に、かず子の中に何かが灯り始めていた。
これは“復讐”じゃない。 “正義”でもない。 もっと冷たくて、もっと確かなもの。
「次は、私の番だ」
第5章:斜陽の中の選択
兄の残した暗号ファイルを開くまで、かず子は三日かかった。
パスワードは、兄が昔よく描いていた空想上の生物の名前だった。 「ツチノムシ07」──何の意味もなさそうで、唯一の“記憶”だった。
開いたファイルは膨大だった。 リスト、裏口アクセスの記録、偽アカウントの購入履歴、マネーロンダリング用のスクリプト。 そのすべてが、“上原ネットワーク”の実体を暴いていた。
決定的だったのは、録音データの一つ。 「……言っただろ、信者は資産じゃない、“資源”だって」
上原の声だった。 裏でどんなに綺麗ごとを言っていても、本性はこれだ。
このデータを警察に渡せば、彼は潰れる。 だが、それだけじゃ済まない。 かず子自身も関与している。情報提供者としても、共犯としても。
巻き込まれる。下手をすれば、実名報道もされる。 母の死も、兄の倒壊も、「スキャンダルのきっかけ」として利用されるだけだ。
かず子はPCの前で、しばらく目を閉じた。
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その夜、かず子は上原の部屋を訪れた。
何も告げずに、ただチャイムを鳴らす。 ドアが開くと、上原は驚いた顔をした。
「なんだ、まだ生きてたか」
かず子は答えず、彼の胸に顔を埋めた。 そのまま静かに、部屋に入る。
彼の部屋の匂いは変わらなかった。珈琲とインクと、嘘の匂い。
ベッドの中で、かず子は自分の体の変化に気づいた。 数日前から感じていた、あの違和感。体の芯に、小さな命の気配。
(この子は、たぶん上原の子だ) でも、それはどうでもいいことだった。
問題は、この命を“産む”かどうか。 そして、答えはもう出ていた。
---
翌朝。 かず子は自宅に戻り、SIMカードを砕き、SNSをすべて削除した。
兄のコードに含まれていた証拠ファイルを匿名で暗号化し、 USBに焼いて警視庁サイバー犯罪対策課に郵送した。
その封筒には、何の署名もなかった。
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準備が終わったあと、かず子は洗面台の鏡を見つめた。
顔は疲れていたが、そこには確かに“選んだ人間”の目があった。
この子には、名前も家も、父もいない。 あるのはただ、母である自分の意志だけ。
妊娠届は、地方の役場で出すことにした。 新しい名前、新しい住所、すべてを変えて生き直す。
列車に揺られながら、かず子はスマホの電源を落とした。
もう誰からの通知も、必要なかった。
終章:“生きる”という反撃
その町には、信号が三つしかなかった。
駅前のロータリーは小さく、夜八時を過ぎればコンビニも店じまいする。 山に囲まれたその場所で、かず子は新しい生活を始めた。
名前を変え、身分を変え、履歴をすべて切り捨てた。 それでも“何か”が完全に終わることはなかった。
朝、布団の中で胎動を感じるたびに思う。 自分が生きていること、その証拠が体内で音もなく成長していることに、戸惑いと微かな希望が交互に湧き上がってくる。
荷物は最小限だった。 兄のノートPC、USBに保存したコードの断片、そして母の古いカーディガン。
部屋の窓からは、夕陽が山の端に沈むのが見えた。 都会の斜陽は高層ビルに遮られたが、ここではその光が山肌を赤く染めて、長い影を落としていた。
かず子は、ノートPCのパスワード画面を開いた。 液晶に映る、自分の顔。 その目を、見た。
「これが“反抗”なら、私はそれを選ぶ」
誰かのためではなく。 何かの正しさのためでもなく。
自分という存在が、たしかに“ここにいる”という確認のために。
PCを閉じ、かず子はカーディガンを羽織った。 少し大きいその服の中で、腹の子が小さく動いた気がした。
それは命の音だった。
過去も、罪も、後悔も、もう引き返すことはできない。 だが、だからこそ――生きる意味がある。
彼女は立ち上がった。 新しい一日が、静かに始まろうとしていた。
窓の外、斜陽。 でも、光はまだ残っている。
完
斜陽のコード norinori2 @nori5600
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