脱色された景色
わたねべ
脱色された景色
世界から色が失われていく。その異変に気づいたのは、僕だけだった。
繰り返される平凡な毎日を送る中で、漠然とした違和感が心を蝕み始めていた。
それは、日々の風景に溶け込んでいるはずの色が、どこかぼやけているような、輪郭が曖昧になっているような感覚だ。
最初は目の疲れか、ストレスのせいかと思った。
あるいは、単なる気のせいだと自分に言い聞かせた。
だが、その違和感は、僕の意識とは無関係に、日に日に募っていった。
まるで、世界が薄いベールに包まれていくかのように。
ある朝、いつものようにベランダで淹れたてのコーヒーを飲んでいると、目の前の公園を彩る木々の緑が薄いことに気づいた。
枯れているわけではない。
むしろ、新緑の季節だというのに、瑞々しい鮮やかさが失われ、くすんだ灰色がかった緑に変わっていた。
「あれ?」
思わず声に出した疑問は、しかしすぐに掻き消された。
まるで最初からその色が当たり前だったかのように、僕の脳が勝手にその光景を修正し、上書きしてしまうのだ。
だが、僕の記憶の片隅には、もっと鮮やかな、目に焼き付くような緑があったはずだという、漠然とした残滓だけが、しつこく僕の意識にまとわりついていた。
そんな奇妙な現象が、日を追うごとに頻繁に起こるようになった。
会社のオフィスで目にした同僚の制服は、以前は鮮やかなブルーだったはずなのに、今はどこか暗く沈んだネイビーに見える。
昼食のために立ち寄ったコンビニのおにぎりのパッケージは、記憶の中ではもっと明るいオレンジ色だったはずなのに、今はくすんだ茶色に近い色合いをしていた。
僕は不安になり、スマートフォンで以前撮った写真を確認してみる。
しかし、写真の中の色もまた、僕の目の前にある現実と同じように、曖昧で、記憶の中の鮮やかさとはかけ離れていた。
まるで、記憶という名の絵の具が時を経て乾き、色褪せてしまったかのように。
友人や同僚に「最近やたらと色味が薄く感じるんだ」と話すと、皆は僕が疲れているのだと優しく宥めた。
ある者はストレスのせいだと言い、またある者は栄養不足だと心配した。
確かに、過去を証明するはずの写真ですら、以前とは違って見えるのだ。
皆が言うように僕が疲れていて、僕だけが奇妙な違和感を感じているのかもしれない。
そう思い込もうとしても、心の中のざわめきは収まらなかった。
夜、テレビをつけると、ニュース番組が映し出されていた。
画面の中のスポーツ選手たちが、広大なグラウンドを駆け巡っている。
彼らのユニフォームの色は、どことなく、くすんで見える。
僕は食卓に置かれたサラダに視線を移した。
赤々としていたはずのトマトは赤みが薄れ、青々としていたレタスは青みが抜けて、鮮やかだったパプリカもその光沢を失っていた。
まるで、僕の目の前にあるすべてのものが、僕の脳内で褪色したかのように見える。
「ああ、まただ」僕は、じわじわと、しかし確実に世界が侵食されていくような感覚に、言いようのない恐怖を抱き始めていた。
このままでは、世界が完全に無色になってしまうのではないかという、漠然とした不安が僕を苛んだ。
ある日のこと、僕は取引先との打ち合わせのため、普段はあまり通らない大通りを歩いていた。
その通りは交通量が多く、信号は一つしかない大きな交差点だ。
僕は信号機の前で立ち止まり、青に変わるのを待った。
チカ、チカ。
信号は黄色に変わった。
そして赤へと変わるはずの信号は、いくら待っても赤に変わることはなかった。
僕の視界は次の瞬間、灰色に染まった。
信号の色どころか、周りの車の色も、通行人の服の色も、目に入るすべてのものが曖昧な灰色の濃淡となって、僕の目の前に広がった。
何が進めで、何が止まれなのか、全く判断がつかない。
今まで当たり前にそこにあったはずの色がない。
自分の記憶と一致しない目の前の光景に、僕はひどく混乱した。
頭の中は真っ白だった。
ただ、この不自然な灰色のままで進んではいけない、という漠然とした危険信号だけが、僕の脳内で警鐘を鳴り響かせている。
「待て! 赤信号だぞ!」
仰々しい声が僕の耳に飛び込んできた。
周りの人々が、僕に向かって何かを叫んでいる。
しかし、その声はまるで遠くの幻聴のように、僕の意識には届かなかった。
僕はただ、目の前に広がる灰色の世界に吸い込まれるように、足を踏み出していた。
その時、僕の耳に、けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。
直後、あたりにはさらに大きな音が響き渡る。
ドオォォォォン!!
それは、大型トラックが僕とぶつかる音だった。
僕の目には巨大なタイヤが映って見えた。
そのタイヤは、僕の記憶の中の漆黒とは違う、どこか曖昧な灰色に見えた。
そしてその瞬間に、僕の意識は暗闇へと飲み込まれていった。
後日、警察の調べによると、被害者は赤信号を無視して道路を横断し、大型トラックにはねられたとされている。
目撃者の証言も、彼の単独事故であることを裏付けていた。
複数の通行人が、彼が信号が赤であるにもかかわらず、まふらふらと道路に踏み出したと証言した。
また、周囲の証言によると、最近の彼は「色がない」と繰り返し、支離滅裂な発言を繰り返していたことから、薬物の使用を疑い身辺調査が行われた。
しかし、薬物の使用は認められなかった。
操作中に調べられた彼のスマートフォンには、実際に世界が色を失っていた証拠とでも言うように、不自然に色褪せた写真ばかりが記録されていた。
脱色された景色 わたねべ @watanebe
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