近況ノートを普通の日記のように利用してしまい申し訳ないという気持ちもありますが、創作にも活かせそうな体験をしたため、書き留めさせていただきます。
先日、会社の偉い方、とても偉い方、偉すぎて秘書を通さないといけない方などなどから、直接ご指導いただける機会がありました。
私の作った資料を見るや否や、改善点の挙がること挙がること……。そんな、ありがたくも恐ろしい時間を設けていただけたのです。
視座の違いと言いますか、見ているレイヤーがそもそも違うのですよね。相手がどこを見て、どう理解し、次に何を考えるのか、その動線まで見据えて資料を組み立てられており、本当に資料一つで受け手の思考を誘導できるのですから恐ろしいものです。
よく、IQが20違うと話が通じないといいますが、まさにそんな感覚でした。上の方たちからすれば私は、「何がわからないのかがわからない人物」になっていたのではないかと思います。
そして、この経験をしていてふと思ったのですが、作り手には当然見えている構造が、受け手にも同じように見えているとは限らないのだろうなと。
これは、受け手に解釈が委ねられる小説とも、切っても切り離せない話だと思います。
書き手の引いたラインに沿って読まれるとは限らず、同じ作品であっても、ある視点から見れば何を伝えたいのかよくわからない駄作に見え、別の視点から見れば、たとえ表面上はコメディであっても、その奥に社会問題を包含した良作に見えることもあるわけです。
私はそうした解釈差が好きなタイプなので、自分の意図とは少し違う読み方をされても、「そんな見方もあるのか」と楽しめることが多いのですが、今回の経験を通して、意図して複数の解釈を許しているのと、単にこちらの意図が伝わっていないのとでは、まったく意味が違うことを学びました。
自分の想定する構造が、必ずしも受け手から見える構造と一致するとは限らない。にもかかわらず、私はこれまで、その違いを「解釈は受け手に委ねられるものだから」と、どこかで都合よく受け流していたのかもしれません。
きっと、解釈そのものを制御する必要はなく、どのように読まれ得るのかを想定し、そのための動線を引き、作品の枠に読者を収めた上で、枠内のどの席から見てもらってもいい状態にする、というのが書き手の仕事なのでしょう。
そう考えると私は、これまで少しばかり、その舵を握ることを放棄していたのだなと反省いたしました。
そしてきっと、次に私が悩むであろう壁についても見えてきました。「説明過多を解消するには」なんてタイトルで近況ノートを書き始めることでしょう。
周回遅れで周りにいる書き手の皆様に追いつけた気がします。これからも精進いたします。