いつも作品を読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。おかげさまで楽しく活動できております。
最近は『不安が積もる棚』の更新が楽しく、そちらばかり手にかけております。個人的には「通の店」は会心の出来で、自分で読んでも、世界一面白いと思える仕上がりになりました。
さて、本題についてですが『複製技術時代の芸術』という作品を読み、強い感銘を受けたため、熱が冷めないうちにこの場をお借りしてアウトプットしようと思います。
※ やや長くなります ※
ざっくりいうと、創作物にはアウラ(オリジナルの芸術作品に宿る、今ここにしかない価値)があり、大衆化によりそれは急速に失われる。しかし、これは悪いことばかりではなく、上流階級で独占していた価値観が広がり、誰もがアクセス可能な別の価値に変わるよね。といったことが書かれおります。(超要約)
私が以前書いた『中村料理教室』はこれに近い考えを持って書いており、この生成AI時代において、オリジナリティとはなにか、模倣とは何か、創作とは何かといった問いを表現しています。
しかしながら、先の未来に対して適用できる問い立てや理論構築をできる方はどれだけのことを考えて生きていたのでしょうか。
写真と生成AIでは、複製としての過程や仕組みが異なることから一概にこの作品で論じられているロジックを適用することは叶いませんが、物事の持つオリジナリティに注目した時、その価値を生み出すのは誰なのでしょうか。
大衆は過程や背景などではなく、結果だけが欲しいのではないでしょうか。ありふれた、誰の目にも明らかな結果は多くの人に評価されるがアウラは希薄になる。私だけが価値をわかるのだと囲い込まれた、人目に触れる機会の少ない芸術だけが、狭いコミュニティの中でのみ称賛されアウラを保つ。アウラとはイマココにある、一回性のことを指しますが、希少性とほとんど同義なのではないかと私は捉えました。
そのため、オリジナリティの観点で見るならば、圧倒的に後者が優れているように見えますが、それはただ単にプロデュースの違いとも言える。
シュルレアリスム的手法を用いた作品は、唯一性を感じるが、一度それに模倣を許したのであれば、途端によく見る形となる。
つまるところ、オリジナリティとはどれだけ人目に触れないかの一点に集約されており、それはクリエイターから生まれるものではなく、オリジナリティを理解していると思われたい上流階級の人間に後付けされた価値なのではないかとすら思えるのです。鶏が先か、卵が先か的な話で、これだけ芸術が溢れる世の中で、「今まで見たことがない」をやってのけるにはズレた現代アートのような、突飛であることだけに特化しないといけないのかなと。
パクリだとか、テンプレだとか、小説を書いていると見たことがある言葉ではありますが、その本質はどこに宿り、何を根拠に口にした言葉なのだろうかと考えさせられます。
果たして生成AIの作る作品は、模倣されたアウラの希薄な複製品なのか、道具として生み出されたアウラが輝くオリジナリティあふれる創作物なのか、私にはまだ答えが出せないようです。