十三号

佐藤宇佳子

絵からこぼれおちた物語

 チリリ、リ、チリリ、リ。

 もったりとした夕凪のけだるさを陸風が海へと吹き散らしはじめるころ、ゼンマイを巻き上げるような浅い音で、玄関の呼び鈴が鳴る。耳を澄ましていなければ、皿洗いや、鍋磨きや、包丁研ぎの音にあっさりかき消されてしまいそうな週に一度の音を、きみは決して逃さない。

 体重を乗せて重い扉を押し開くと、吹き込む風がきみの柔らかな青い髪を乱す。とっぷりと日の暮れたポーチに鳥が立っている。玄関から漏れ出す灯火の揺らめきに合わせ、鳥の影が大きく伸び縮みする。おずおずと頭を下げ、傍らに置かれた箱を嘴でこつりと叩く。蓋のない古びた木箱。その中には、いつも、一巻きの画布、数本の新しい絵の具、それから野菜がいくつか無造作に放りこまれている。

 慎重に箱を抱え上げると、きみはいくつもの部屋を抜け、青の間へと運んでいく。冷たい足音があとをついてくる。

 画布を木枠に張り、イーゼルに立てかける。白藍しらあい甕覗かめのぞき浅葱あさぎ空色そらいろはなだ花色はないろ紅碧べにみどり天色あまいろあい紫紺しこん金青こんじょう深藍ふかあい勝色かついろ。パレットに絞り出すのは、決まって、さまざまなニュアンスの青い絵の具だ。きみは色硝子のかけらをはめ込むように、青で画布を盛り上げていく。迷いのない筆遣い。きみの目には、画布の上に、緻密な設計図が見えているのだろう。画布の上のひとむれの青いカルスは、あるときには三列風切さんれつかざきりに、あるときには耳羽じうに分化し、そこからするすると青い鳥が姿を現わす。

 青い絵が完成すると、きみは一歩離れて息をつく。ぴくりとも動かずポーズを取り続ける鳥は、妙なる音楽に陶然としているかのように、無垢な瞳で宙を見つめる。その目に微小な黒点が現れ、大きくなり、瞳全体に広がるや鳥は音を立てて倒れる。目は青白く粉を吹いた瞼で覆われ、首にかじりつく黒猫を映さない。からだは黄や青や赤に明滅していたが、その間隔は間遠になり、次第に色褪せる。

 きみはキッチンから鉈とまな板とステンレスのボウルを持ってくる。すぐに取って返し、大きな袋と琺瑯のバットも運んでくる。そうだ、手際の良さが必要なのだ。心臓が止まり切ってしまう前でなくては。

 鳥の頭をむんずとつかむと、鉈で首を切り落とし、溢れる血液をボウルに受ける。流れ出た血は赤いスープとなり、ほのかに湯気を上げる。ぴちゃり。きみが鳥のからだをつかみ直した拍子に、一滴の血が、近くで作業を眺めていた黒猫に跳ねる。黒猫は音もたてずに飛びのき、座り、すまして毛づくろいを始める。無造作にむしる羽は、きみの手の中で白や茶色のパンの薄切りになる。一枚も取りこぼすことなく、袋の中に投げ込む。まるはだかになった鳥をまな板の上に載せ、恬然てんぜんと鉈で断ち切り、バットに並べる。鉈が骨を砕くくぐもった音が薄暗い部屋に散る。生乾きの青い鳥がてらてらとした瞳で解体劇を見守っている。

 青い間の絵のない壁に寄せて置かれた四人がけのテーブルには、生成りのクロスがかけられ、中央に置かれた燭台の上で三本の蝋燭の炎が揺れている。テーブルの上に並ぶのは、白い皿に入ったスープと数切れのパン。ひとり、席に着いたきみは、パンをちぎり、赤いスープに浸して口に運ぶ。白い人差し指がスープで赤く染まる。スープの最後の一滴をパンに吸わせて口に入れ、きみは白いナプキンで指を丁寧に清める。蝋燭の明かりが届かない部屋の片隅で、黒猫が背を丸め、一心に肉に食らいついている。ときおり金色の目がきらきらと輝き、咀嚼する音が響く。


*  *  *


 チリリ、リ、チリリ、リ。

 その日、ドアを開けたきみの前に立っていたのは、白いペリカンだった。薄桃色の大きな嘴を恥じらうように持ち上げると、通い箱を少し押し出した。

 青の間の中で箱からすべてを取り出したきみが首をかしげる。どうやら、絵の具が足りないようだ。

「あいいろ」

 傍らでじっと立っているペリカンに目を向けた。ペリカンの目は丹念に繰り抜かれた丸い穴だ。きみがその艶のない闇をのぞき込むと、ペリカンは尻を振りながら、よたよたと二歩、後ずさった。

 さまざまな青が絞り出されたパレットの上で、よどみない筆は何度も行先を見失い、天色と紫紺の間をさまよった。藍色で埋めるべき場所を白く塗り残し、絵は完成した。ペリカンはいつものように、パンとスープと肉になった。


 翌週。やってきたのはハシビロコウだった。青の間で箱の前に腰を下ろしたきみは、巻かれた画布を引き出し、その横に立っていたポロネギも抜き出し、キャベツと人参とビーツをつかみ出して床に置く。木箱の底に絵の具のチューブが三本、転がっていた。白と黒と藍色。きみはそれらを左手の親指と人差し指でつまみ出し、絵の具箱の中に並べた。これで揃った。白、黒、赤、黄、白藍、甕覗、浅葱、空色、縹、花色、紅碧、天色、藍、紫紺、金青、深藍、勝色。

 ハシビロコウの姿を写し取る。石化せきかしたハシビロコウのうなじに桃色の藻が絡んで乾き、揺れていた。こびりついた桃色を見つめるきみから、ふいと言葉がこぼれ落ちる。

「どこから、きたの」

 自分の口から出た言葉が耳に飛び込むと、きみは初めて人を見たカラスの子のように、きょとんとした。これまで鳥に尋ねたことはない。きみはわずかに眉を寄せた。

 ハシビロコウは動かない。きみの指がハシビロコウに伸び、乾いた桃色をはがし取ると、ハシビロコウは目玉だけ、ぐるりと回した。生臭い磯のにおいが漂った。


 真っ暗な青い間でベッドに横たわっていると、哀調を帯びた笛の音がゆくりなく耳を打った。細く尾を引く音のしずく。聞いているうちに、きみの顔が何かに堪えているかのように歪む。大きく息を吐き出すと、眉をよせたまま、あごまで布団の中にもぐりこんだ。強まりもせず弱まりもせず、音はゆるゆると繰り返される。癒えかけた傷のかさぶたを繰り返しはがす暗い快感を想起させる音だ。むずがゆさ、痛み、そしてえも言われぬ解放感。

 不思議な音はいつまでも続く。きみはベッドの上に起き直り、音の出どころを探った。どうやら部屋の壁の、きみの身長の二倍の高さに穿たれた、小さなアーチ窓から入ってくるらしい。窓は鎧戸よろいどで閉ざされ、外はまったく見えない。それにもかかわらず、きみはベッドの上でまっすぐに背筋を伸ばし、窓を見つめる。いや、見開いた眼が探ろうとしているのはきみの内側だ。きみのからだの中で、なにかがうごめく。口がもどかしげに開き、また閉じられる。両手を握りしめ、切なそうにきみは目をつぶる。

 そら、そのとたん、音はつややかな色彩となり、きみの目の前に広がる。夜鳥の声は眼球の硝子体しょうしたいを微細に震わせる。瞼を閉じて暴力的な視覚情報を遮断してしまうと、それは、かすかな色信号として網膜に伝わるのだ。この声は、きみが心を奪われた青い色だ。

 きみは息をのみ、目を開いた。そこに広がるのは、ただ暗い闇ばかり。きみはもう一度目をつぶる。勝色の少し粗い手触りの吹き流しが、ふうわりと軽く、幾筋も風にはためきながら、頭上へと舞い降りてくる。暗い部屋の中できみの顔がゆっくりとほころんでいく。

 きみはベッドから抜け出し、窓の下へ行った。歌声はいつまでも続く。窓は高く、手を伸ばして引き開けることはかなわない。ただ、暗い窓に向かい耳を澄ます。闇の中で丸く見開かれた瞳が潤み、薄い肩が細かく震え、ときに大きく上下する。

「だれの、うた」

 いっとき歌声に耳を澄ましていたきみは、ベッドのそばに置いてあったランプを灯し、壁に飾られている鳥の絵を一つ一つ見ていった。きみが描き、食べた鳥を。ハクチョウ、マガン、マナヅル、ダイサギ、シャモ、ミミズク、トウテンコウ、ハチクマ、イワツバメ、アホウドリ、カツオドリ、エトピリカ、ペリカン、ハシビロコウ。どの鳥も口を開かない。


 次の週、ポーチに立っていたのは、ダチョウだった。巨大な鳥にきみは目を見張る。ダチョウはまじろぎもせず、きみの視線を受け止める。大きな瞳をびっしりと縁取るまつ毛には明るい色をした砂粒がついていて、鳥が瞬きするたびにほろほろとこぼれ落ちた。ダチョウが玄関に入ると、背後で重たげにきしみながら扉が閉まった。

 きみはイーゼルを前にパレットを手に取ったものの、しばらく考えて、それを再び床に置こうとした。手がわななき、パレットは思いのほか大きな音を立てて、寄木の床にぶつかった。壁際の青い椅子の上で香箱を組んで居眠りしていた黒猫が、もの憂げに金色の目を開いた。

「どこから、きたの」

 高く頭をもたげ、壁のアーチ窓を見つめていたダチョウが、首をくにゅりと曲げ、きみと同じ高さまで頭を下げた。聞き古したレコードのようなしゃがれ声でささやく。

「西の国からだよ」

 なぜだかわからないけれど、きみも声をひそめる。

「にしのくに。なにが、あるの」

「太陽の沈む砂漠がある」

「たいようって、なに」

「太陽はほおずきみたいに丸くって、眼がつぶれるくらい、まぶしいんだ。じりじりと熱いんだ。たくさんの生き物を殺しちまうけれど、太陽がなくちゃ、誰も生きてはいけない。俺たちはいつだって、頭も背も太陽に焼かれながら、ひたすら熱い砂を踏みしめ、歩き続けてきたんだ」

 きみの鼻先にあるダチョウの頭から、不思議なにおいがした。初めてかいだのに、懐かしくて、胸いっぱいに吸い込みたくなるにおい。

「たいようを、みたい」

 ダチョウはすうっと首を伸ばし、頭を高く掲げた。

「俺はランプの灯りは嫌いだ。ここから出ていくよ。太陽はな、昼間の天に毎日やってくる。おまえも来るか。太陽をいくらでも見られるぞ」

「わたしも、いきたい」

 ダチョウはその背に素早くきみを乗せ、たくましい足で寄木の床を蹴り、小窓へ向かい跳び上がる。ダチョウの足指が小窓の窓台をがっちりととらえ、今まさに鎧戸を蹴り破ろうとした、そのとき、黒い影が矢のようにダチョウの首へと飛び、絡みつく。もんどりうったダチョウは大きな音を立てて床に落ちた。

 眼を閉じた顔も、柔らかな毛の生えた首も、桃色の足も、そして白と黒の艶めかしい羽も、全てがくたくたと色褪せていく。ダチョウの背に乗っていたきみも、床にぶつかり、壊れた。首と手首はぱくりと割れ、ネジやゼンマイに幾多の電子部品がこぼれ出し、肩関節から漏れ出した機械油が寄木の床に黒い染みを作っている。あの日、きみが訳も分からぬまま耳を傾けていたトラツグミが、近くの森で鳴きはじめた。


 ダチョウの首に食らいついていた黒猫が離れた。傍らに座り、丹念に毛づくろいをする。

「一年半か。三年はもってもらいたかったんだがな」

 毛づくろいを終えた黒猫が、闇に沈む青い壁を、金の瞳で睥睨へいげいする。壁一面を飾る、青いぼくらを。

「十三号の描いた鳥には魂が封じ込められている。青の間は極上の蒐集庫しゅうしゅうこだ。三号の水色の間も塗り替えようと思っていたのに、まったく、なぜ自我なんぞに目覚めるのやら」

 黒猫はいまいましげに吐き捨て、尻尾を勢いよくしならせながら部屋を出ていった。すぐに青いきみにうりふたつの、すらりとした少女を従えて戻ってくる。黄、赤、そして青の間を通り抜け、真っ白な部屋に進む。

「十四号、ここがおまえの部屋だ。おまえはここで配送された鳥を記録し、ぼくとおまえの食事を作るんだ。今日の仕事だが、記録は免除だ、この鳥を解体して調理してくれ。ああ、それと、あとで青の間のがらくたを処分してくれ」

 緑色の服を着たきみは、澄んだ茶色の目を見開き、プログラムどおり、さくりとダチョウの首を切り落とした。



(了)


※ 本作は一枚の絵から生まれた物語です。下記の近況ノートからその絵をご覧いただけます。

https://kakuyomu.jp/users/satoukako/news/16818792436062200627

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