静かな戦争

翌日、燈麻はいつもより一時間早く出社した。まだ誰もいないフロアに、足音が乾いた音を立てる。


カムランからは一言だけSlackにメッセージが届いていた。


──原田、昨日19:42に社内VPNログイン。その後、誰のレビュー履歴にも残ってない非公開ブランチにアクセスしてた。


その「非公開ブランチ」のリポジトリは、形式上はアーカイブ扱いになっていた。だが、実際には誰かが断続的に更新していた形跡がある。


ログには、いくつかの「匿名アカウント」が混じっていた。


──h.t_dummy01

──testshadow2

──ghost-branch-h


「……ふざけてるな。」


燈麻はつぶやいた。どれも、原田がジョークのつもりで付けそうな名前だ。だが、今となってはその軽さが逆に、仕込みに見える。


カムランは裏から情報を引き出していた。VPNのアクセスログ、レビューのタイムスタンプ、ブランチの編集差分——限界ぎりぎりまで。公には使えない、が、確かな手がかりだった。


夕方、あえて燈麻は原田に雑談を持ちかけた。


「最近、レビュー増えてるって聞きました。疲れません?」


原田は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに柔らかく笑った。


「いやぁ、現場が忙しそうだったからね。たまには俺も働かないと。」


「でも、アーカイブのブランチまで見てるって、すごいですよ。」


ピクリ、と原田の口元が固まった。


「え、そんなのあったっけ?」


「ありましたよ。昨日の19時すぎに。ログもちゃんと残ってる。」


原田は笑った。が、その笑みは浅かった。


「ログ見てるの?……やるね、君たち。」


「あなたも、やりますよね。」


言葉の応酬は一瞬で終わった。原田はそれ以上何も言わず、コーヒーを手にして席へ戻った。


だがその背中に、あの「少しの間」があった。


不意打ちを受けたときの、思考が追いつかない人間特有の静寂。カムランが言っていた。


「嘘をつく人間の沈黙は、反射じゃない。計算だ。」


Slackに、短く打った。


──釣れた。


カムランからの返信はなかった。恐らく、もう次の準備に入っているのだろう。


何かが確かに動き始めていた。


三日後、午後二時半。


Slackに突如、新しいスレッドが立った。


──【緊急レビュー整備会議】

主催:Harada

出席推奨:Toma、Kagawa、Narita、他(選定中)


「……整備会議?」


燈麻はその通知を見つめたまま、眉間にしわを寄せた。


会議は十人ほどの中堅メンバーで構成されていたが、不自然に上層と下層の混成だった。実装担当とマネージャークラスが、なぜ同席するのか。目的が見えなかった。


会議が始まると、原田は冒頭でこう言った。


「最近、レビューの運用が個人判断に偏り過ぎてる印象があるんですよね。」


「個人判断……?」


燈麻が思わず口を挟むと、原田は穏やかに、しかし目を外さずに続けた。


「うん、例えばログを個人で検証するとか、誰かの操作を精査するとか。自衛のつもりかもしれないけど、チーム全体としては、混乱のもとになる。」


その言葉に、空気が僅かに冷えた。


「もちろん、セキュリティの意識は必要です。ただ、個々人の解釈が前に出すぎると、結果的に非協調的に見えることがある。」


誰も何も言わなかった。だが視線が、確かに燈麻の方に集まっている。


「今後、ログの閲覧や、レビュールールの調整は、必ず監査担当を通してください。直接の操作は控えるようにお願いします。」


一拍の沈黙。燈麻はゆっくりと息を吐いた。


「つまり、見ていたこと自体が、まずいわけですね。」


「いや、そうじゃない。見せ方の話です。」


原田は笑った。その笑みは、以前よりもさらによく仕上げられていた。


会議が終わると同時に、カムランから非公開チャットが飛んできた。


──これは警告だ。まだ証拠は押さえられていない。ただし、こちらの手口を読まれ始めてる。


──次の一手、急ぐ。


燈麻は、返信を打ちかけてやめた。


これはもう、静かな戦争だ。

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