透明標本
祐里
蝶
ひどい暴力を振るわれ、身軽に動けなくなった。まるで細い針で何かに留められたかのように。
今はまだ乾燥しきっていないけれど、そのうち標本として
ブゥン、とモーター音を立てる真夜中の冷蔵庫を開けると、無愛想な冷気が長袖の腕を包む。私は最下段の手前に、封筒をそっと置いた。
奥には蝶がいる。父はいつも昆虫に夢中だから。
母はいつもふらふらと男の間をさまよっている。私は母に似ていると、よく言われる。遠巻きに見られるだけの姿形で、近付こうとする人には蝶のように毒々しい鱗粉を振りまいていた。はず、だった。
その日、私はこの夏初めてノースリーブの服を着た。
帰り道、防犯灯の白い光をきらめかせるナイフが、鱗粉の薄膜を切り裂いた。
「いつもそういう格好を? もう二十歳なんだし、落ち着いた服を着ようとは?」
「ずいぶん遅い時間帯に歩いていたんですね」
「飲んではいなかった? 誘ったりは?」
女性警察官は言った。
「まあとにかくね、アフターピルをおすすめしますよ」
おすすめされたモノは、効果がなかった。
眠れない。エアコンの冷気は、私の呼吸を邪魔する。ナイフに反射する光が夢に出てきそうで怖い。
時計は午前五時五分を指している。キッチンの明かりを点けて冷蔵庫を開けると、封筒があった。蝶もまだそこにいた。サンダルをはいて玄関から外に出る。
わ、た、し、は、わ、る、く、な、い、わ、た、し、は、わ、る、く、
歩を進めるたびに一文字ずつ唱えるおまじないの効果が全く発揮されないことに落胆し始めたとき、学校のプールのフェンスが見えてきた。
邪魔なサンダルを脱いで、フェンスをよじ登る。温い風が頬をかすめ、プールサイドのざらざらに、急に心許なくなる裸足。
「そんな格好してるから」
流れればいい。
「そんな時間に外を歩くから」
流れてしまえばいい。
勢いよく水に飛び込むと、すぐそばを飛んでいた小さなトンボが水しぶきをかぶり、水面で体を震わせた。
長袖シャツと私の肌の間の水はだんだんぬるく優しくなっていく。何もかも、この優しい水に流れてしまえばいいのに。
婦人科の予約時刻までは、あと四時間半。
冷蔵庫の中には、蝶と四十万。
きっと私は、殺人犯。
透明標本 祐里 @yukie_miumiu
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