第2話 猫だった女の子

 小さな全裸の女の子を、抱いて寝室に連れて来たはいいけど。

 よくよく考えたら、自分の目の前で、猫から人に変わってしまったこの子。

『このまま、家に置いてていいのだろうか?』

 私のエプロンを身にまとって、きょとんとこちらを見ている瞳は、さっきまで猫だった。

 ”すず”と同じ、ブルーの瞳に、黒い瞳孔の、くるりとした、まあるい目。鼻の左右に小さなほくろ。細い手足はすっと伸びていて、正しく人。

 どっからどう見ても、人間の女の子だ。

『どうしよう……どうしたらいい??……』

 途方に暮れるとは、こういう状況かと、妙に冷静に思ってみたりして。

 

 人の姿の”すず”の前で、あれこれ悩んで、私が動けずにいると

「あの、お母さん、もう入ってもいい?」

ドアの向こうから、かづまが声をかけてきた。

「はっ!!服。そうだ、服!!」

私は慌てて、ドアに向かって言った。

「かづま、あなたの服で、着られそうな物、持って来て。」

「うん。分かった。……ええと、パンツは……どうしよう?」

「えっ?パンツ?」

「うん。下着のパンツ。」

「あー、あー、そうね。パンツ、新しいの持ってる?」

「うん。あるよ。それでいい?」

「いい。お願い。貸してあげて。」

「分かった。」

かづまが、自分の服を持って来るべく、駆け去って行った。

 程なくして、ドアが少し開いて、その隙間から、服を持ったかづまの手が覗いた。

「かづま君!わたし、すずだよ!!」

猫だった女の子が、声を出した。可愛らしい声だった。

「うん。分かってるよ。すず、また後でね。」

かづまが、嬉しそうに答えた。

 私は、何か、感動してしまった。かづまの嬉しそうな声に。

 あんなに嬉しそうな声を、久し振りに聞いたかも知れない。


 すずと名乗った女の子に、かづまの服を着せていった。

 自分では着られなかったので、私が全部着せたのだが、すぐ近くでよくよく見ても、普通に人間の肌だった。ちょっと私の手に触れた肌も、何の違和感もなくて、あの猫の毛は、どういう具合にこの肌に引っ込んだのか、謎だった。


「さあ。出来た。」

かづまの服を着ていても、ちゃんと女の子で、実に可愛らしい容姿をしている。

 すずちゃんは、かづまの服を着たのが嬉しかったようで、Tシャツの裾をちょっとつまんでみたり、ショートパンツの裾をいじってみたりして、ご満悦だ。

 すらりと伸びた手足と、細い首に、ドキリとする。

『これは、ちょっと、綺麗すぎる子だわ~。』

母は、色々、心配になってきた。


 ドアの前で、私達が出て来るのを待っていた、かづまとお父さんは、服を着て出て来たすずちゃんに、目が釘付けになった。

「すず、かわいい!」

かづまが素直に、誉める。すずは、ほんのり顔を赤らめて、もじもじしながら

「ありがとう……」

と、これまた素直に返す。そしたら、かづまも耳まで真っ赤になった。

『ああ、甘酸っぱいわ~』

そう思ったのは、お父さんもだったようだ。目くばせしてしまった。


「本日の家族会議を行います。」

今日は、お父さんが、そう言って、会議が始まった。

「すずちゃんを、どうしたらいいかについて。」

「えっ??」

かづまと、すずが、驚きの声をあげた。

「もう、前からうちの子でしょ?」

と、かづま。お父さんは、頷きつつ

「うん。子猫のすずは、うちの子だったよ。でも、今はどう見ても子猫じゃないでしょ。」

そう、はっきりと、かづまを見つめて言った。かづまは黙った。

「わたしは、かづま君と一緒に居たい!ここに置いてください!」

すずちゃんが、叫ぶように言って立ち上がり、

「お願いします!!」

と、頭を下げた。

それに釣られて、かづまも立ち上がって、同じように頭を下げた。

「お願いします!」

私と、お父さんは、顔を見合わせるしかなかった。


 お父さんは、黙ったまま、難しい顔で、腕組みして考え込んでしまった。

私だって、どうしたらいいのか、見当もつかない。

「かづま、お前、学校に通っているよな。」

お父さんが、唐突にかづまに言い始めた。

「うん。」

「子供は、学校に通わないといけない。義務教育と言うんだが。」

「うん。知ってる。」

「すずちゃんは、学校に通えてないんだ。猫だったから。」

かづまは、また黙った。

「文字が読めたり、書けたり出来なければ、すずちゃんがゆくゆく困る。」

お父さんは、一呼吸置いた。

「それだけじゃない。普通に、人間の食べ物が、すずちゃんの身体に合うかもわからないんだ。」

そうだった。私は、そこまで考えてなかった。

「でも、すずちゃんを、どこに連れて行って預けたらいいのかも、分からないんだ。誰に相談したらいいのかも分からない。」

再び、一同黙ってしまった。

「そうね。いつもの獣医さんにも相談できないよね。」

と、つい言ってしまった私。

『最悪、解剖されちゃうかも知れない。』


「字は、僕が教えるよ。学校の教科書で、一緒に。」

かづまは、私達を交互に見つめて、言う。

「ご飯は、ちょっとずつ、人間の食べ物を試していこうよ。カリカリの猫ご飯がいいのかも知れないけど。」

「そうね。とりあえず、カリカリの餌でいくのが無難かも知れないね。」

そう言った私に、お父さんが

「昔は、人間の残したごはんに、かつお節かけて、”ねこまんま”とか言って食べさせてた時代もあったろう?」

そんな昭和な事を言い出した。

「でもそんなの食べてた頃の猫の寿命って、短かったんじゃなかったっけ?」

「えっ?そうなの?」

「外飼いで、出入り自由にしてたからかも知れないけど。」

「すずは、家の中だけで飼ってるから。大丈夫だよ!」

かづまは、一生懸命に、すずちゃんと別れない方法を考えている様だ。

 私だって、出来ることならそうしたい。

「かづま、もう“飼う”って言葉は、当てはまらないよ。すずちゃんは人の子になったんだから。言うとしたら”一緒に住む”だよ。」

私がそう言ったら、お父さんも、かづまも、はっとしたようだった。

『一緒に住む』

 なんて、重い言葉だろうか。

 

 その昔。私が、お父さん、いや、彼とお付き合いしていた頃。

まだ、結婚するかどうかも分からない関係ながら、彼が言ったのだ。

「一緒に住もう。」


 彼、東川 正人は、私よりも10歳も若くて。

 出逢った頃は、まだまだ”結婚”なんて考えてもいない学生だった。

 やっと親元から離れた18歳。初めての1人暮らしに、浮かれていた。

 大学の講義に、サークルに、バイト。眩しい位に生き生きとして、楽しそうに過ごしていたっけ。

 

 私は、当時、彼のバイト先の、チェーン店の、本部からの出向派遣社員だった。店長の補佐役というポジションで、オーナー店長を支えながら、マニュアルに沿った経営指導をしつつ、本部に営業成績を報告する役。

 正直、辛い立場だった。向かない仕事をしている自覚はあった。

 就労規則なんてあって無いようなもの。タイムカードを押してからの残業が、業務時間よりも長いような毎日。

 それでも、新規出店したチェーン店の営業利益を上げ続けなねればいけない。オーナー店長に無理はかけられない。オーナーを辞められてはかなわないから。

 

 私が社会に出た頃は、就職難の時代で、女性は特に就職が難しかった時代。

 やっと掴んだ仕事に、打ち込むしかなかった。

 そこそこ仕事に慣れて、コツが分かって来て、これから、って時に、出向を命じられた。

 同じ部署の、すけべ上司からのホテルの誘いを、やんわりかわしていたら、飛ばされたのだ。

 セクハラって言葉が出始めた頃。社会がまだまだセクハラに寛容だった頃。

 飛ばされた私の為の送別会で、

「寝ちゃえばよかったのよ。そこ何回かくらい。」

酔っぱらった同期の女友達が、そう言った。私は、反論もできなかった。

 何が正解か分からなかったから。

『だって。初めては、好きでもないおっさんは嫌じゃん。』

ただそう思った。


 まあ、女に生まれて、そこそこ可愛い容姿をしていたら(自分で言うのも何ですが)、色んな魔の手が二の腕を掴みにやって来る。

 ナンパにそっぽを向いて、ただ知らん顔しただけなのに、罵詈雑言を聞こえよがしに浴びせて来たり。

 残業して深夜に疲れて帰っていたら、見知らぬ誰か(男?かもわからん)が後を付けて来たり。(自宅に帰らず、始発電車までの時間を交番のベンチで一泊)


 誰かと親しくお付き合いする気力も無くなっていた、仕事人間の私を、明るい18歳の大学生は、結果、1年かけて口説き落とした。

 いや、口説き落とされてあげた。

 まさか、10歳も年上のお姉さんが、その時、初めてだったなんて想像もしていなかった東川くんは、酷く恐縮していたっけ。


 私は、店のバイト君とねんごろになった事を周囲に知られるのが、嫌だった。

 彼が若かったから、は言い訳で。そのうちに飽きて、別の若い女の子に行っちゃうだろうと思っていたから。

 そうなったら、自分が惨めだったし、そうなった自分の姿を、周りの人に嗤われたくなかった。

 

 ある時、東川くんが、泣きそうな顔をして、私に行った。

「分かれる前提で、僕と付き合ってるでしょ。」

「だって、君はまだ学生でしょ。私はもう30歳になった。」

 実は、私はその時、オーナー店長から、結婚を前提にした交際を打診されていたのだ。

「恋愛と結婚は別って、昔から言うでしょ。30歳のおばさんよりも、若い子とこれから出逢えるよ。君、いい子だから。」

「君って言うな!僕は、あなたの彼氏だ!」

「うん。今はね。」

「今は?」

「今は、恋愛の気持ちがあるよ。でもある日、『こんなおばさんだったっけ』って、げんなりする日が来るよ。その時に、私は君の気持を、もう一度私に引き着ける事は出来ないと思う。だって、その時は、今よりもおばさんだもん。」

「……。」

「いい機会だから、もうこの辺で、分かれた方がいいのかもね。」

「……。」

 東川くんは、何も言わなかった。

 私は、仕方のない事は、早々に諦める習性を、年齢と共に習得していたので、感情が大きく揺れる事も無く、その場を離れた。

『初めては、好きな人と出来たから、良かった。後は、何とも思ってない人とでも、多分、大丈夫。』

そんな風に思っていた。


 東川くんは、次の日に、バイトを辞めた。

 オーナーに電話で辞める事を告げて、それきり来なくなった。

「全く、今の若い者は。辞めるにしても、手順があるだろうに。」

そう、愚痴られた。私は曖昧に笑った。


「今夜、仕事が終わってから、一緒に何か食べに行かないか?」

オーナー店長から、そんな誘いを受けた。オーナーは35歳。

店がやっと軌道に乗って、ようやく彼にも心の余裕が出来た様子だった。

『仕事が終わる時間に、食事が出来る店なんて近くにあったかな?』

そう思いながらも、私はその誘いを受けた。


 誘われた先は、ホテルだった。

 ホテルの個室で、ルームサービスの食事を取ると言われた。

「お互い、大人の付き合いを、早く始めたいじゃないか。いいだろ?」

 私は、頷こうとした。

 いつかの女友達が、浮かんできた

『寝ちゃえばよかったのよ。そこ何回かくらい。』

彼女がそう言った言葉が、浮かぶ。

『そこ何回で済むわけがない。結婚が前提なんだもの。』

 付き合うとも返事をしていないのに、いきなりホテルに誘われた事が、ショックだった。

『私が断る事はないと、断れないと分かっていて、この人は誘ったんだ。』

軽く見られていた屈辱と、仕事を失うかも知れない不安が押し寄せて来る。


「私は、まだお返事をしていません。」

声が震えないように、慎重に息をしながら言った。

 相手は、意外そうに、顔をすがめた。

「え?もったいつけてるの?」

『はああ???』

「大丈夫。俺、上手いよ。」

『はあああ???』

 呆れて言葉が出ない私の態度をどう受け取ったのか

「早く入ろう。人が見てるし。」

そう言って、私の二の腕を強引に掴んで、ホテルに連れて入ろうとした。

私は、反射的に抗った。

『無理!ムリ!1回でもムリ!!』


 その時、声が割り込んで来た。

「嫌がってますよ。彼女。」

東川くんの声だった。

『なんで?どうしてここに居るの?……こんなシーン見られちゃってる~』

私はもう、思考が混乱の極みで。

オーナーと東川くんの、激しい口論の様子を、遠くから眺めているような感覚で。

見ているのに、見ていないような……


 最後に。東川くんが

「めぐさん、帰ろう。」

そう言って、私の手を引いて、その場から連れ出してくれた。


 東川くんの部屋に、すんなりと入って、すんなりとベットに腰かけて、

 東川くんが入れてくれた紅茶を飲んだ。

「ごめんね。1回くらいはいけるかと思ったんだけど……。気持ちが拒否しちゃった。どうしてだろう……。」

「何が1回?」

「SEX。」

「えっ!!」

「やれそうかな?って思ったの。でもね、なんか無理だった……。」

「……。」

「前に、同期の友達がね、寝てしまえばそこ何回かくらい、どうってことない……みたいにいってたから、そうなのかなって。」

「……。」

「でもね、そこ何回で終わらなかったら、どうしようって思って。」

「……。」

「そうしたら、無理!ってなって。……どうしよう。仕事なくなっちゃう。」

「……めぐさん。僕の事、好き?」

「……。」

「僕とは、何回もしたよね。」

「……。」

「僕は、まだ学生だけど、めぐさんと別れる事になって、考えたんだよ。

『いつか、こんなにおばさんだったっけ』って思う日の事を。」

「……。」

「その時、僕もおじさんになってればいいじゃんって。」

「えっ……」

「僕は、まだ学生で、社会の厳しさとかまだ知らないけど。ちゃんと就職してから、めぐさんと、おじさんになっていきたいと思う。」

「……う、う、嬉しいです……」

私は、涙が出て来た。

 今日は、色々な事があって。

 仕事も無くしそうで、将来が不安で。でも、嬉しくて。

 冷めきってたと思っていた自分の中に、思いもしない感情があって。


 そして、その夜、ちゃんと本気で大好きだと認識した東川くんと、朝までいちゃいちゃした。

 その次の日の朝、東川くんが私に言ったのだ。

「一緒に住もう。」


 目の前に、私なんかよりも、数段可愛い女の子がいる。

 昨日まで”子猫だった”女の子。

 このまま、誰かの手に委ねてしまったら、イケナイ大人達にどんな目に合わされるか、分からない。


 急に、自分が若い頃に受けて来た、女であるが故の数々の理不尽を思い出した。

「誰か、心から信頼できる人に委ねられない以上、すずちゃんは、我が家の子として守る以外に、無いと、お母さんは思う。」

 かづまと、すずちゃんの目が、キラキラ輝いている。

 お父さんは、仕方がないと、腹を括っている。

「ただ、私も仕事があるから、日中はすずちゃんが1人でお留守番しなくちゃいけないよ。誰が訪ねて来ても、無視。家から出る事も、禁止。出来る?」

「すず、出来ます!寝てます!今までもそうでした。」

「よし!それなら、それでいこう。お父さんは、リモートワーク出来る日を、会社に申請して来るよ。」

「僕も、勉強がんばる!!」




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猫の初恋はみのる?ー猫の初恋事情 於とも @tom-5

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