極夜の月

ささがき

夜明けの月

※本作には明示的な性描写はありませんが、構造上、性的搾取を含む描写・関係性が暗示されます。

ご留意のうえお読みください。




昔々、あるところに古いお屋敷に住むセシルという名の若者がいました。

髪は星の光を集めたような銀色。

瞳は満月をそのまま宿したような金色でした。

セシルの仕事は、お屋敷の主人に仕えること。

主人の部屋を整え、飾り、香を焚く。

そして夜にはセシル自身も丁寧に身を清め、主人の寝台の足元に侍る。

いつからそうしているのか、もはや覚えていないほど繰り返された日々。

セシルは、変わらないことこそが幸せだと信じていました。



その日、満月が夜空で最も高く輝く頃。

主人はセシルの手を取り寝台に導きます。

ひんやりした主人の手が触れるたび、セシルはまなじりを震わせ涙をこぼす。

愛しい主人の腕に抱かれて、滲んだ月が夜空を下がっていくのをセシルはずっと眺めていました。

明け方になると、主人は静かに屋敷の奥へと消えてゆきます。

務めを終えたセシルは寝台の中。

極夜の朝にまどろんでいました。



屋敷のお膝元に広がる街は、明けない夜に包まれている。

夜通し灯りが絶えることはなく、多くの旅人が富を求めて訪れます。

再び月が空にかかる頃、セシルは主人のために街へと降りました。

屋敷の饗宴に参席する客人を迎えるために。

セシルは見目麗しく、声をかけられたものは皆一様にうっとりと見惚れます。

美しく弧を描く眉、白磁のような肌、そして形の良い赤い唇。

多くの男がセシルに声をかけ、酒場や宿の自室へと招こうとする。

いつも優雅に微笑んでセシルはその招待に応じます。

セシルの金色の瞳に間近で見つめられた者は、その虜になって夢見心地で屋敷へとついて行きます。

みんないい人ばかりだ、とセシルは喜んで、主人の待つ崖の上の屋敷を見上げます。

その姿を街の人たちはどこか遠巻きに眺めていました。

屋敷に立ち入るのは遠方からの旅人ばかり。

宴の席に招かれ主人に遠い土地の話題を提供し、しばらくするとふいに姿を消す。

極夜の季節にひそやかに語られる噂でした。



日の昇らない朝が来る。

セシルは主人の部屋に飾る花を探しに出かけました。

店では思うような花が見つからず、街外れの森まで足を伸ばします。

森の奥には泉があり、その縁には七色の光を放つ風鈴草が自生しているのです。

籠に摘んだ花を詰めていると、背後の茂みを踏み分ける音が響いてきました。

この場所を知る人はほとんどいないはず。

驚いて振り向いたセシルの前に姿を現したのは、土埃にまみれた外套をまとった一人の旅人でした。

腰には剣を、そして手には弓を携えています。

旅人は驚いた様子で、「こんな場所に人がいるとは」と呟いた。

「主のために花を摘みにきたのです。あなたは?」

いつものように穏やかに微笑んで尋ねるセシル。

「…探しものをしている。あなたはこの近くに住む人か?」

旅人はその鋭い目でセシルを捉える。

その目に見つめられた途端、刃を突きつけられたようなヒヤリとした感覚が背筋を走りました。

「ええ。領主の屋敷に仕えております。」

それでもセシルの応対は変わりません。

「街への道を見失ってしまったのだが、案内を頼めるだろうか」

旅人の口調は道迷いにしては慌てる様子もなく、淡々としていた。

「もちろん。どうぞこちらへ」

それを不思議に思うこともなく、セシルは籠を手に取り先に立って森の小道を案内します。

道すがら、2人は旅先の話や街の様子についてとりとめなく話しました。

街の入り口に辿り着くと旅人は礼を延べ、街の雑踏へと消えゆきます。

それを見送るセシルの胸にふと、わずかな引っ掛かりが残りました。

街で出会う他の者たちは皆セシルと別れ難いと口々に言うのに、あの旅人は違ったと。



数日はいつも通りの日々が続きました。

主人の求めで、宴席に招く客人を求めてセシルはまた街に降ります。

欠けた月がようやく市壁の上に輝く頃。

一軒の酒場をセシルは訪れ、新しく街に来たと思しき男に声をかけられました。

すでにかなり酔っている様子の男は、セシルにも酒を奢りジロジロと遠慮のない視線を向けてきます。

セシルは意に介さない様子で男の手を両手で包み、ニコリと微笑みました。

だって"お願い"すれば皆言うことを聞いてくれるのだから、大丈夫。

男は顔を赤くして「もっといいところへ行こう」とセシルの腕を取り、席を立ちました。

男の力は強く、引きずられるように歩いたセシルが躓き、倒れ込みます。

そこへちょうど店に入ってきた別の客が手を差し伸べてきました。

「大丈夫か」

静かな声色にセシルが振りあおぐと、先日森で出会った旅人でした。

「なんだお前、邪魔すんな。そいつは俺のだ!」

酔った男は、旅人に掴みかからんばかり。

「無理に連れて行こうとしているように見えたが」

「なんだと!この…」

男は気色ばんで殴りかかりましたが、旅人はその手を掻い潜り腕を捻り上げます。

セシルが驚いて見ている間に、男をあっさりと床に引き倒してしまいました。

見物していた店内の客から喝采が起こります。

「行こう」

旅人はセシルの肩を押して、入ってきたばかりの店の扉をくぐったのでした。



酒場を出たところで、旅人はセシルに向き直ります。

「あんなのの相手をしてはいけない」

旅人のセシルを見る目は、真っ直ぐでした。

「でも私、主のために…」

「こんな危ない目にあわせては主人が心配するのではないか」

困惑するセシルの肩に手を置き、旅人は有無を言わせぬ口調で告げました。

「送っていく。今日はもう家に帰れ」

強い言葉に、セシルはつい頷いてしまいます。

旅人に促されて、屋敷への道を辿りました。

大通りを途中で外れ、屋敷のある崖の方へと曲がる路地でセシルは立ち止まります。

「ここまでで大丈夫です」

「こんなところで?」

旅人が訝しむのも当然。

崖が月明かりを遮り、通りには濃い影が落ちています。

「この先に入り口があります。慣れておりますので」

「…そうか」

セシルが微笑んでその金の瞳で覗き込むと、旅人は黙って引き下がりました。

"お願い"はやはり聞いてもらえるようです。

ほっとして、セシルは旅人に背を向け、崖の中を通る通路へと向かいます。

その後ろ姿を、旅人はじっと見つめていました。



屋敷へ戻ると、誰も連れていないセシルに主人は怪訝な顔をしました。

「何かあったのか」

「なにも」

主人の問いに、セシルは反射的に答えました。

何もおかしなことはしていないはず。

いつも通りの仕事をした、でも今日は…うまくいかなかった。それだけ。

「主様にご満足いただけるようなお客人が見当たりませんでした」

「そうか。では失敗の仕置きが必要だな」

主人は声を荒げることなく、冷静に告げました。

怒ってはいない、とセシルはほっと胸をなでおろします。

その晩、セシルは窓の向こうで遅くに昇った月が沈んでゆくのを、主人の寝台の上で眺めていました。

主人に愛されているうちは大丈夫。

遠い記憶の中で、誰かにそう教えられた気がします。

それが長く生きながらえる、ただ一つの方法だと。



翌日の夕方。

相変わらず街は夜の帷に沈んでいました。

重たい体を引きずるようにして、セシルは身支度をします。

昨日の失敗の分、今日は働かなくてはなりません。

しかし、どういうわけか旅の者や酔客が見つかりません。

いないわけではない。

でも、声をかけようとすると、つい足が止まってしまう。

―あんなのの相手をしてはいけない。

旅人の声が耳の中で今も響いています。

昨日よりも遅い月がようやく顔を見せる頃、困り果てたセシルは昨日の酒場に向かいました。

そこには、あの旅人がいました。

…誰もいないなら、この人を連れて行けばいいのでは?

ふと、そんな思いがよぎります。

他の見知らぬ男よりも、もっとあの旅人と話してみたい。

そんな気持ちには気づかぬまま、セシルは旅人に声をかけていました。



旅人はセシルの相席に同意したが、無口でした。

他の男たちのようにセシルを無遠慮に眺めたり、その手に触れてきたりはしません。

ただ、セシルが尋ねる旅先の遠い土地の景色や暮らしぶりには、丁寧に答えます。

時折自分の杯に目を落とし、遠くへ思いを馳せるような目をする。

セシルには思いもよらない長い長い旅をしてきたようでした。

知らず2人とも杯が進み、あっという間に夜が更けていきます。

「そろそろ宿へ戻る。…送ろう」

旅人がそう言って席を立ち、セシルを店の外へと促しました。

店を出ると、街に覆い被さるような断崖の上に聳える屋敷の威容が目に入ります。

「…まだ帰りたくない」

考えるより先に言葉が口をついて出ます。

セシルの手は気付けば旅人の手を取っていました。

旅人は少し驚いて目を見開きましたが、セシルの手が震えているのに気がつくと黙ってその手を握り返しました。

セシルの手を引いて、旅人は自分の宿へ帰ります。

セシルはただ、その後をついていく。

手を引かれながら、大丈夫、とセシルは心の中で思います。

いつものように"お願い"をすればいい。

そして旅人を連れて屋敷に帰れば、主人の機嫌も損ねなくて済むはず。

旅人の部屋に招かれると、セシルは早速その腕を取り瞳を覗き込みました。

「…ねえ、お願い」

見返す旅人の瞳は鋭く、揺るぎなかった。

違和感を感じて、セシルは手を引っ込めようとしました。

その手を、旅人の手が押さえます。

「帰りたくないんだろう?」

旅人の腕がセシルの腰を抱えるように回され、気がつくとセシルはベッドの上にいました。

「帰らなくていい。…夜が明けるまで」

その後のことは、セシルはよく覚えていません。

気がつくと窓の外で、刃のように細い月が市壁の上に顔を覗かせたところでした。

夜明けを知らせる鐘楼の音が鳴り響いていました。



セシルは慌てて旅人の部屋を飛び出します。

主人の許可を得ずに、屋敷を留守にしてしまった。

夜になっても戻らないことを、主人はどう思っただろうか。

通りを走り、崖の中の通路を駆け上がって屋敷へ飛び込む。

主人の寝室へと息せききって駆け込んだけれど、そこには空の寝台があるだけでした。

主人はいつも通り、屋敷の奥へとその姿を消しているようです。

セシルはふらつきながら部屋を整え、また街へと戻りました。

―今晩こそ、主人の元へ客人を連れて帰らなければ。

今日も夜空が街を包んでいます。

薄闇に包まれた昼過ぎからセシルは街を彷徨います。

誰に声をかければいいのか、よくわからなくなってきました。

昼間の、しかも細い月のもとでは、セシルの姿は誰の目にも留まらないようでした。

途方に暮れて足元を見つめるセシルは、すれ違う通行人にぶつかってしまいます。

「どこ見て歩いてやがる!」

そう言ってセシルの肩を掴んだのは、先日酒場で旅人に叩きのめされた酔客でした。

「なんだあんたか。ちょうどいい」

今日も濃い酒の匂いを漂わせ、ニヤリと顔を歪めます。

思わず身をすくませるセシル。

しかし、男の手が伸びる前に、別の誰かが割って入りました。

「悪いが今日は先約がある。遠慮してくれ」

再び男の腕を払ったのは、あの時の旅人でした。



「大丈夫か」

旅人はかがみ込み、セシルに目線を合わせます。

セシルは目に見えて憔悴していました。

「…主様に会えなくて」

「ならば、その主のところへ案内してもらえるか」

「えっ?」

セシルが見上げると、幾分鋭さを減じた瞳と目が合います。

旅人はセシルの手を取り、言いました。

「昨晩帰さなかった責任はこちらにある。主人への申し開きをさせてくれ」

真摯な視線に、セシルの心のうちに温もりが宿ります。

けれど、主人は旅人の謝罪にどう対応するだろうか。

だからと言って、戻らないという選択肢はありません。

「…わかった。一緒に来て」

そう言ったものの、旅人とともに屋敷への道をたどるセシルの足取りは鉛のようでした。



夕方、屋敷の奥から主人が姿を現しました。

セシルの隣に控えて深く首を垂れる旅人の姿に目を留めると、主人は目を細めます。

「…これは珍しい客人だ。遠路はるばるようこそ、我が屋敷へ」

恭しく礼をする主人は、どこか気分が高揚しているように見えました。

セシルはほっとして、いつもどおりの仕事に戻ります。

主人の差配に従って宴の準備を整え、給仕の役目につきました。

昨日セシルがしたのと同じように、主人は旅人の話に耳を傾け談笑しています。

お咎めはなしで済むかもしれない、そんな淡い期待をしてしまうセシル。

「セシル、お客様を客間へ案内して差し上げなさい」

「はい、主様」

食事を終えた主人に声をかけられ、セシルは素直に頷きます。

旅人を先導し、薄暗い回廊を迷わず進むセシル。

何か考え込んでいる様子の旅人は、何も話しません。

ただ、客間に着き、セシルが退室しようとした時。

「ではごゆっくりお過ごしくださいませ」

そう声をかけて離れると、旅人は振り向きました。

扉が閉まる、その直前。

旅人の目が何か言いたげにしていたように、セシルは感じました。



セシルは、主人の元へ戻ります。

これでいつも通りの夜。

主人はすでに寝室にいて、くつろいでいました。

珍しくサイドテーブルの上にはワインのボトルが出され、グラスを傾けています。

「おいで」

主人はセシルを手招き、膝の上に座らせます。

セシルの美しい銀の髪を片手で撫でながら主人は告げました。

「いい子だね、セシル。お前があの客人に手渡した飲み物には、眠り薬が入っていた。」

楽しげな様子の主人に、セシルは心の底がしんと冷えた気ががしました。

いつもなら主人に追従していたはずなのに、声がこわばります。

「…なぜですか?」

「あれがこの屋敷に害をなすものだからだよ」

主人の声は至って穏やかで、明日の天気を話すくらいの調子でした。

「あの薬を飲めば、人は永遠に眠り続ける。これで邪魔をするものは誰もいない」

穏やかに笑う主人の瞳は、しかし笑っていませんでした。

「お前の不始末も、あれのせいなのだろう?」

主人がセシルに向ける目は今日も静かです。

震えるセシルを抱き上げ、そのまま寝台へと上がります。

「今日もいい子だね、セシル。」

主人に抱えられたまま、セシルは寝室のドアを振り返ります。

外へと通じる固く閉ざされた扉。

あの向こうで、旅人は目覚めることのない眠りについているのでしょうか。

けれど、主人の手がセシルの視界を覆います。

何も見えぬまま、セシルは深い夜へと落ちていきました。



「主様…?」

明け方、セシルは寝返りを打ち目を覚ましました。

寝具から身を起こすと、主人の姿はもうありません。

いつも通り、夜が明けきる前に、屋敷の奥へと去ったのでしょうか。

重い体を引きずり、寝台を降りようとした、その時。


オオオオオオオオォ…!


重い咆哮が衝撃となって屋敷を揺るがしました。

ビリビリと空気そのものを震わせる音。

石床が震え、柱が軋みを上げ、天蓋が大きく揺れています。

セシルは寝台から転げ落ちてしまいました。

まるで巨大な獣の叫びのような、聞いたこともない音にセシルは震えが止まりません。

「主様…主様…」

セシルは呟き、寝台の縁にすがって小さくなることしかできません。

咆哮は一度きりで収まり、屋敷は静寂に包まれました。

それでもいつまたあの叫びが聞こえてくるかと、セシルは動くことができませんでした。

扉を開ければ、あの咆哮の主がそこにいるのではないかと。

セシルは主人の帰りを待ちました。

今日は新月の夜。

ただただ暗い昼の時間を、主人が帰る夜を心待ちにセシルは寝台に伏せていました。



再び夜が来ても、主人は寝室に現れませんでした。

代わりに控えめなノックの音がセシルの耳を打ちます。

「…誰?」

自室の扉を主が叩くことはありません。

再び響くノックの音。

遠慮がちなその音に、セシルは恐る恐る扉を開きます。

そこには、旅人が立っていました。

すでに旅装を纏っていますが、先日見た時よりもその格好はボロボロになっていました。

外套のところどころが黒ずんで汚れているのは…血の汚れでしょうか。

驚いて声も出せないセシルに、旅人は「ここを出よう」と手を差し伸べます。

「でも、主様は…。主様が、いなくて」

視線を彷徨わせるセシルに、旅人はかがみ込んで目を合わせました。

「お前の主人はもういない。ここにいても帰ってはこないんだ」

「そんな…どうして」

思わず視線を足下に落としたセシルは、旅人が傷だらけの手で銀の弓を握りしめているのに気がつきました。

魔性の者を追う狩人の一族がいる、と街の酒場で時折耳にする噂がありました。

旅人がそれなのであれば、主人は…

「行こう」

旅人は重ねて言い、セシルの手を取ります。

それをはねつける理由は、セシルにはありませんでした。



旅人はセシルの歩みに気を遣いつつも、足早に屋敷を後にします。

門扉を出て崖へと繋がる道を進みながら、セシルは長く過ごした屋敷を振り返りました。

そこには灰色の洋館が威容を備えて聳えていました。

しかしその屋根はあちこちが崩れ、窓には破れたカーテンが舞い、壁は灰色の蔦に覆われひび割れています。

前庭は何年も前からその姿だったかのように草が伸び、荒れ放題になっていました。

2人が崖の通路を下ると、街は騒然としていました。

極夜を照らすはずの魔法の明かりが街から失われていました。

「屋敷の主はどうしたのだ」

「贄を欠かしてはいないはず」

「銀の使いはどこにいる」

そんな声が街の住人から溢れています。

旅人はセシルに自分の外套をかぶせると、急ぎ足で通りを進みました。

幸い全てが新月の暗闇に沈んだ混乱の中。

2人は誰にも見咎められずに、街の入り口まで辿り着くことができました。



崩れた市壁から街を抜け出し、2人は街外れの森へと足を踏み入れます。

2人が初めて出会った、街を囲む迷路のような森。

旅人は振り返り、セシルを見つめます。

「また案内を頼めるか?」

セシルは少し躊躇いながらも頷いて、先に立って歩き始めました。

しばらく歩くと、いつかの風鈴草が群生する泉のほとりに出ました。

月光のもとで輝く花は今は蕾を閉じて、泉は薄闇に包まれています。

2人は一旦歩みを止め、休憩することにしました。

風鈴草の側でセシルはかがみ込み、泉を覗き込みます。

くすんだ銀の髪と、輝きを失って胡桃色となった瞳。

痩せた顔には疲労の色が濃く漂っていました。

「かわいそうに、セシル。」

泉に影が差し、セシルの横に見慣れた人影が映ります。

聞き慣れた声。

しかしそこに滲む怨念のような感情に、ゾッとするものを感じてセシルは振り返りました。

黒い影のような主人の姿が覆い被さっていました。

髪も衣も全てが黒い中で、青白い顔と手だけが浮かび上がって見えます。

「セシル!離れろ!!」

旅人の叫びが響きますが、主人はすでにセシルを腕の中に捕らえていました。

「武器を捨てろ」

冷酷な声で主人が告げます。

「応じる必要がないな」

旅人はそう答えましたが、声には隠しきれない動揺が表れていました。

「情を移したな、狩人。」

主人は酷薄な笑みを浮かべ、腕の中のセシルの喉に手をかけます。

鋭い爪は人間のものとは思えぬほど鋭く長く、触れたセシルの皮膚に赤い筋を刻みました。

ガシャンと金属の音が響き、旅人が弓を落としたのが見えました。

続いて剣帯を外して放り投げます。

「やはりお前は良い子だね、セシル」

主人は手を緩めると、指でセシルの頬を撫であげました。

伏せたセシルの目から、涙がこぼれ落ちます。

「さあ、まずは先日の非礼の意趣返しと行こうか」

ゆらりと主人が立ち上がります。

丸腰のままの旅人も油断なく身構えました。

その瞬間、セシルが主人に取りすがりました。

「おやめください!」

「何をする…ぐあっ!」

非力なセシルを手で軽くあしらおうとした主人が、のけぞって苦悶します。

セシルの手には、銀の鏃が握られていました。

身を守る足しにと、矢の先端を折り、旅人が渡していたものです。

破魔の力を宿した鏃は、その傷の大きさ以上に主人を痛めつけていました。

「行き場のないお前を拾ってやった恩を忘れるか」

主人は怒りの形相でセシルの頭を鷲掴みにしました。

鋭い爪が額を切り裂き、血が流れ落ちます。

「お供いたします。どうか許して」

泣きながらセシルは主人に抱きつき、旅人へと叫びました。

「撃って!」

旅人はすでに弓を拾い、矢を番えていました。

「セシル、離れろ!」

悲痛な旅人の叫びにも、セシルの決意は揺るぎません。

「今しかありません!撃ちなさい!」

「離せ…ハナセエェ!!」

びりびりと、屋敷を揺るがしたのと同じ咆哮が空気を震わせ、泉を波立たせます。

黒い影のような主人の体が膨れ上がりました。

「早く!!」

セシルの必死の叫びに、旅人は意を決して弓を掲げます。

そこに番えられていたのは、白く光り輝く破魔の矢。

「闇へ帰れ!魔の者よ!」

鋭い音と共に矢は放たれ、セシルの背に突き立ち、主人ごと貫きました。

そして──


ギャアアアアアアアアアア!!!


断末魔の叫びが暴風となって吹き荒れ、旅人は吹き飛ばされました。

主人の身体は黒い霧ととなってあたりを吹き荒れ、そして風とともに吹き散らされてゆき…ふっ、と消えてしまいました。

同時に、後に残されたセシルが倒れ伏します。

慌てて旅人は駆け寄り、セシルを助け起こしました。

背に刺さった矢が、光の粒となって消えてゆきます。

「しっかりしろ!これは魔性の者にだけ効く矢だ。人間に害はない」

「いいえ…私も、おそらく人ではないのです」

旅人の腕の中で、セシルは弱々しく微笑みました。

街のものを虜にしたものとは違う、優しげな微笑みです。

しかし、その表情にはもう力がありません。

セシルの顔はみるみる生気を失っていきました。

「そんな!」

旅人は青ざめました。

助けるつもりだった。犠牲にするつもりではなかった。

「ありがとう…あなただけが、人として触れてくれた…」

長いまつ毛が伏せられて、まなじりから涙が溢れる。

しかしセシルの表情は、どこか穏やかでした。

「あなたに会えて、よかっ…」

言葉が空にかき消えました。

「…っ違う、貴方は人間だった!!」

旅人の叫びは、セシルの耳には届きませんでした。

「あの日も、あの夜も。今だって。」

旅人はセシルを抱きしめました。

セシルの身体は主人のようには消えず、そこに留まっています。

顔色は青白いまま、胸は緩く上下し、命がまだそこにあることを伝えていました。

しかし、破魔の力はセシルの内を、混ざり合った人の存在ごと焼き尽くしてしまっています。

このまま命がゆっくり消えていくのか、それまでにセシルの心が戻るのか。

どちらになるのかはわかりません。

旅人は、セシルの頰に残る涙の跡をそっと拭うと、額に口づけました。

色褪せた銀髪が、風にふわりと揺れています。

「一緒に行こう」

改めて告げてセシルを抱え直し、旅人は立ち上がしました。

森を抜け、外の世界へ。

長い夜がようやく明けようとしていました。

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極夜の月 ささがき @sasagaki51

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