人面魚の水槽

趣味人・暇人のS

人面魚の水槽

 海に囲まれたとある県のとある街。


 この街には老若男女問わず人気の施設がある。それは大小の魚介類を見学することができる水族館『アクアフレンズ』だ。


 魚群を作れるほど大量の魚が泳ぐ巨大水槽、壁に小魚たちが泳ぐ通路、クラゲたちが浮かぶ筒状の水槽、イルカなどの海棲動物が見られるメインプールなどなど。


 数多くの展示コーナーが並ぶこの水族館は建設されている街の住民、果ては県外の子供から大人まで、数多くの来訪客で賑わい、水の空間に心を踊らせている。


 そして今、目を輝かせて通路を歩いている『早乙女』も例外ではなかったーーー。


 「わ〜、綺麗ねぇ」


 水族館の通路は冷房が若干強い上に照明が弱いため薄暗く少々肌寒いが、むしろそれが水中の独特な空間を表してるかのように心地よいものと早乙女は感じられた。


 ふと、彼女が一つの水槽に目を向けるとオレンジ色のヒレを持つ一匹の小さな魚が口をパクパクとさせながらこちらをじっと見つめている。


 興味を持った早乙女が水槽に近づくと魚は更に彼女に近づくように泳ぎガラスにコツンと頭をぶつける。


 「ふふっ、かわいい」


 早乙女は水槽の右側を歩くと魚は彼女に連動するように右側へ、左側へ移動すると今度は左側へとピッタリと着いてくる。


 「人懐っこい魚ね」


 微笑みながら呟いた早乙女はそのまま通路を通り抜け、別の展示コーナーへ足を運ぶ。


 そんな彼女の後ろ姿を魚は名残惜しいのかじっと見つめては口をパクパクと開閉していたーーー。


 

 次に足を運んだのはクラゲが浮かぶ筒状の水槽が人気の展示コーナー。壁の水槽にはタコやイカ、貝類などの魚以外の小さな海の生物たちが見られる場所だ。


 早乙女がメンダコの水槽の前を通りかかると中のメンダコが早乙女について来るかのように動きに合わせて泳ぐ。


 「あら、この子も人懐っこいのね」


 思わず口元が緩んだ早乙女は水槽のガラスをトントンと指で叩いて彼女なりにメンダコとコミュニケーションを取る。


 すると、


 「おや、お客さん。楽しんで頂けている様ですね」


 と若い男性の声がする。


 見るとそこには青い制服とキャップを被った館内スタッフが爽やかな笑顔を向けて立っていた。


 「えぇ。ここのお魚さんたち、みんな人懐っこい感じがして見てて癒されるんです」


 「それはよかった。うちの水族館の魚たちはみんな人間のことが大好きですからねぇ。まるで友達に会ったかのようにピッタリと着いてくるんですよ」


 自慢げに語るスタッフの話を聞きながら早乙女は再びメンダコの水槽を見つめる。メンダコはそのつぶらな瞳で彼女をじっと見つめながらぷかぷかと浮かんでいる。


 その愛くるしい姿に目を細めて口元を緩ませているとふと、思い出したかのようにスタッフに尋ねる。


 「あの、メインプールでイルカショーが始まる時間っていつですか? 」


 「イルカショーですか? それでしたら16時に始まりますよ」


 スタッフの返答を聞いて腕時計を確認すると時刻は15時4分。今メインプールの客席に行っても微妙に時間を持て余す。


 (結構時間あるなぁ。まだ巨大水槽のとこ見てないしそこに行ってからでも…)


 頭の中で計画を立てた早乙女はスタッフに「ありがとうございます」と頭を下げて巨大水槽の展示コーナーへ向かった。


 「いってらっしゃーい♩ 水の中の"お友達"の出会いを楽しんでっ♩」


 彼女を見送るようにスタッフは笑顔で手を振っていた。



 「うわぁ…すっごい…」

 

 大水槽の展示コーナー。そこに足を踏み入れた瞬間、早乙女は思わず息を呑んだ。


 目の前に広がる巨大な水槽はまるで海そのものを切り取ってきたかのように壮大で、水槽内のどこを見ても美しい魚たちが優雅に泳いでいる。


 一列に並ぶ魚、流れに身を任せ漂う魚、俊敏に水槽内を駆け巡る魚ーーー。


 中でも早乙女が目を輝かせたのはこの大水槽の目玉と言われている魚の大群が作り出す魚群だ。


 小さい魚たちが集まり、不規則な動きながらもまとまって泳ぐ。


 一匹一匹は小さな魚だが何百、何千匹も集まれば水槽内のどの魚にも匹敵するほど大きなシルエットとなり、その姿は見ている早乙女にも雄大さと神秘性を感じさせるほどだった。


 魚群が水槽の中央を泳ぐ時、彼女の視線は魚群に食いつき、他の魚も視界に入らないほどだった。


 そして、瞬きするのも忘れ、息を呑みながら魚群を見つめているとーーー




 "それ"と目があってしまった。




 魚群の影に潜み、こちらに顔を向けて泳ぐ一匹の魚。


 大きさは中くらいで魚群を作る魚より一回り大きいくらい。灰色の鱗とヒレを揺らしてただただその場にとどまるように泳ぐその魚の顔はーーー






 "人の顔"だった。




 

 人間の顔に"似ている"なんてものじゃない。ギョロリとした目、潰れた鼻、歪む口元に抜けた歯茎と薄汚れた歯。


 間違いなく人の、人間の男性の顔そのものだった。


 

 人面魚は目があった早乙女を水槽の中でジーッと見つめてはニヤニヤと笑っている。


 それを見た瞬間、早乙女は魚群の感動を全て忘れ別の感情に染められる。


 水族館の冷房の冷気とはまた別のゾッとした冷たさが彼女の背筋を走り、瞬きするのを忘れるほど人面魚を見ている。


 目を逸らしたくてもなぜかできない。なぜか目が離せないその人面魚を早乙女は強い不安感と恐怖に襲われながら見つめる。


 その間、どれほどの時間が経っているのか、周囲の人々がどう動いているかなど彼女の頭から消えてしまって、まるで海のような 深い深い底に意識が沈んでいるかのような感覚に襲われる。




 するとその時ーーー。


 『間も無く、メインプールでイルカショーが始まります! かわいいイルカさんに会いたい人は、ぜひメインプールにお急ぎを! 』


 頭上から鳴り響く陽気なアナウンスの声に彼女の意識は現実に引き上げられる。


 早乙女は再び意識が沈まぬよう、人面魚に背を向けて駆け出す。


 そして本来の目的であったイルカショーのことなど気にも留めずそのまま人面魚を見ようともせずに出口に向かった。



 人面魚が彼女の後ろ姿を水槽の中でずーっと笑いながら一心に見つめていることも知らないままーーー。


 


 ーーー数週間後。


 早乙女はあの時目があってしまった人面魚がどうしても忘れられない。


 忘れようと尽力するが、忘れようとすればするほど鮮明に思い出す。


 結果、人面魚が毎晩夢に現れるようになってしまうほど記憶にこびりついてしまった。


 (最悪…せっかく楽しみにしてた水族館が…)


 早乙女はそう思いつつ"本日4本目"のペットボトルに口をつけて傾けるがほんの僅かな量の水が喉を通っただけで空になってしまった。


 「えっ、もうそんなに飲んでたの…? 」

 

 ゴミ箱にペットボトルを捨てながら、早乙女は喉に手を当てる。


 ーーーまだ飲み足りない。

 

 ーーーもっと水が欲しい。


 彼女の脳が喉の渇きと共にそう訴えてくる。


 (変ね…何でこんなに喉が…? )


 不審に思いつつ、彼女は自販機から本日5本目のペットボトルを購入し、すぐに開ける。


 (もしかして、あの人面魚のストレスで喉が渇いてる…とか? )


 実際、ストレスが原因で喉が渇くという事例は起こり得る話らしい。最も、その場合永続的に続くものでもなくストレスが軽減すれば自然に治るという。


 そのため、早乙女は"そのうち治るか"とたかを括りつつ、ペットボトルの水をグイッと飲んだーーー。




 ーーーしかし、その日の夜、異変が生じた。




 「ハァッ…! ハァッ…!! の、喉が…! 喉が渇いた…!! 」


 ベッドから飛び起きた早乙女は喉を抑えながら駆け足でキッチンに向かった。


 彼女の喉は"渇き"を通り越して"痛み"を感じられる状態にまで陥っていた。


 今日、早乙女はペットボトル5本に加えて冷蔵庫内にあった2本、つまり約3.5リットル分の水を一人で飲み干していた。普通なら喉が潤うどころか水中毒になってもおかしくない水分量である。


 にも関わらず、彼女の喉は水を欲する。まるで何ヶ月も水にありつけなかったかのように本能を刺激させる。


 早乙女はキッチンに着くと顔を流し台の中に強引に入れ、口をつけたまま蛇口を捻る。


 「ゴクゴクゴクゴク…!! 」


 礼儀や清潔感もクソもない飲み方であるが彼女の脳内はそんなこと気にするほど余裕ではなかった。腹の中にどんどん水が溜まっていく感覚が広まり、徐々に重たくなっていく。


 ーーーすると、


 『ピタッ』


 なんと突然、キッチンの蛇口から出る水の供給が止まってしまった。


 「えぇ…!? な、なんでこんな時に…! 」


 何度も捻っても結果は変わらない。


 水道管自体になんらかのトラブルが生じたのか、洗面台の蛇口も、風呂場の蛇口も同様に雫一つ出やしない。


 そんな状況などお構いなしに、彼女の喉は以前となく…いや、むしろ今まで以上に水を要求するように乾き始める。


 喉に渇きと激痛が広がっていくにつれて彼女の脳内は更なる量の水を求め続けている。


 喉はおろか、唇も、舌も乾燥し始めていく。


 次第に彼女は喉の痛みに耐えられなくなり、両手で抑えながらその場に倒れ、のたうち回る。


 「喉が…! 喉が痛いよぉ…!! 誰か、誰か水をぉ!! 」


 誰もいない無人の部屋でドタバタと音を出しながら苦しみ続ける早乙女。


 その姿は、さながら"陸に上げられて呼吸もできずに苦しむ魚"と言ったところであろうか。


 「あ…がっ…! 」


 彼女は救いを求めるかのように片手を天井に上げ、喉の渇きに苦しみながらそのまま意識を手放してしまったーーー。




 ーーーその数分後。


 (…あれ? もう喉が渇いてない…? )


 目を閉じたまま、彼女は自分の喉が回復していることに気づく。ようやく潤った喉の気持ちよさと心地よさに思わず口角を上げて微笑んでしまう。



 ーーーしかし、徐々に回復していく彼女の感覚がその感情を"喜び"とは真逆のものへと変えていく。


 耳に聞こえるのは『ゴポゴポ…』という泡の音。全身の感覚が訴えるのは冷たさ。そして宙に漂っているかかのような浮力。



 それはまるで"水の中"のような感覚ーーー。


 

 「ッ!?!? 」


 彼女の脳が異変に気づいて目を開かせる。



 目の前に広がっているのは僅かな光に照らされた薄暗い水の中ーーー。


 いや、違う。視線の先に僅かに見えるのは"通路"と"文字がぼんやりと透けている説明書きの裏面"。それを見た瞬間、早乙女は自分がどこにいるのか気づいた。


 「こ、ここってまさか…『アクアフレンズ』の大水槽…!? 」


 そう。ここは彼女の行きつけである水族館の巨大水槽の中。そして、この中にいるのは………。




 「ソノ通リ………」


 背後から聞こえるしわがれた声に早乙女は心臓が飛び出るほど驚き、反射的に振り返る。


 「あ、あ、あの時の…じ、人面魚…!? 」


 「久シブリダナ……」


 そこにいたのはあの時、早乙女が目があってしまった不気味な人面魚そのものだった。


 人面魚は前に見た時より更に口角を上げて心底喜んでいるかのような表情を向けながら早乙女を見つめている。


 「アァ…ヨウヤクダ…! ヨウヤク俺モ水槽ノ外ニ出ラレル…!! 」


 人面魚は悦に浸るかなように口元を歪めるが、彼とは対照的に早乙女は震えながら恐怖に表情を歪める。


 「で、出られるってどういうこと…!? 私、どうなっちゃうの…!? 」


 震える声でなんとか言葉を紡ぐ早乙女に人面魚は嘲るように返答する。


 「安心シロ。死ニハシナイ…タダシ…」


 人面魚はこれ以上無理だと言わんばかりに口角を上げたまま早乙女に言い放った。


 「オ前ハコレカラ魚ニナル…! 俺ト代ワルンダ…!! 」


 その言葉を聞いた瞬間、早乙女の全身は水中よりも更に冷たくなり目を見開く。


 「そ、そんな…! い、嫌よ!! 私は魚なんかじゃ…」


 彼女が必死に訴えるが、人面魚は嘲笑いながら彼女に指摘する。


 「ナラ、ソノ手ハ何ダ…?」


 「……手……?」


 早乙女が恐る恐る右手に視線を向けるとーーー。 






 そこには腕がなかった。寝巻きの裾だけがふよふよと漂っている。


 「ッ!? いやぁあああ!! わ、私の手がぁあああ!!」


 喉が張り裂けるほど絶叫する早乙女が慌てて裾を捲る。


 するとその中にあったのは人間の手ではない。



 "ヒレ"だ。


 小さく、ほんのり赤みを帯びたヒレが水槽の流れに合わせて漂っている。


 「な、何これ…!? わ、私ノ手が…ひ、ヒレニ…!? 」


 絶望に染まった目でヒレを見つめる早乙女。


 すると左手もどんどん縮み始めた。


 異変が起こるのは上半身だけではない。彼女が脚を見ると、所々に硬い鱗が現れ、こちらもどんどん縮んでいく。


 「イ、嫌ぁ!!! 魚に何テなりタクなイ!!! オ願イ、助ケ…!! 」


 鱗だらけの顔を人面魚の方に向けるが、そこには何もいない。ただ静かな青い空間しかない。


 早乙女が辺りを見渡しても、そこにあるのは泡くらいしかない。すると背後から『コンコン』と硬いものを軽く叩く音がする。


 振り返るとそこには見えないガラスを挟んで水槽の外に人が立っていた。


 …いや、ただの人ではない。そこに立っていたのはーーー。



 

 「ワ…私……!? 」

 

 「言っただろう? "俺と代わるんだ"となぁ…」



 "早乙女"そのものだった。



 魚になりかけている早乙女とは別の"もう一人"の彼女がニヤリと笑いながらこちらを見ている。その口から出てくるしわがれた声は人面魚のそれだった。


 「心配するな。水槽の中もそう悪くないぜ?」


 一言一言喋るごとに声はどんどん高くなっていき、最後の言葉を話した時には完全に女性の…それも早乙女の声そのものになっていった。


 「それじゃな。魚の余生を楽しみな」


 完全に早乙女に取って代わった人面魚は魚になりつつある彼女に背を向けて通路を歩く。


 「待ッテ!! オ願イ!! ココカラ出シテ!!! 」


 もはや自分が人面魚になりかけている早乙女は必死に懇願する。



 ーーーしかし、


 「〜〜ッ!! 〜〜ッ!! 〜〜〜〜〜〜ッ!!! 」



 どれだけ叫んでも人面魚には聞こえないばかりか水族館に響きすらしない。分厚い水槽のガラスが彼女の懇願も泣き声も遮断する。


 なぜなら、彼女はもう人ではないのだから。


 魚が喋ることも、声を聞いてもらうこともできないと言うことは早乙女自身もよく知っていることだろう。


 それでも彼女はただひたすらに声を張り上げていたーーー。







 ーーーあれからどれほどの月日が流れただろうか。


 人間の世界に出た人面魚は、彼女に成り代わって多くの友人と遊んだり、恋人と愛し合ったり、子供にも恵まれたりしてるのかもしれない。


 最も、そんなことを水槽の中の早乙女が知る由もない。


 完全に魚と化した早乙女に出来ることはただただ水槽の中を泳いで、時々もらう餌を食べて生きる。ただそれだけ。


 そして時々、水槽に近づいてくる客に対して懸命に叫んで助けを乞う。今日も彼女の目の前に1人の女の子が通りかかったので


 「オ願イ!! 助ケテクダサイ!! 」


 と、自分より遥かに年下の彼女に泣き叫ぶ。



 ーーーしかし、どれだけ大声で泣き叫んだとしても、それは全て"時間の無駄"でしかない。


 なぜなら魚がどれだけ叫んでも、人間から見たらただ口をパクパクと開いてるだけにすぎない。


 その証拠に、少女は早乙女を見つめて満面の笑みで言った。



 「わぁ! 人懐っこい魚! 」



 と。


 それだけ言い終わると少女は去っていく。


 早乙女は必死に彼女を追いかけ、ガラスに頭をぶつけてもなお叫び続ける。


 「待ッテ!! 行カナイデッ!! 待ッテッタラ!!! 」


 彼女はひたすらに喉が張り裂けるほど冷たい水槽の中で叫び続けている。




 いや、彼女だけじゃない。


 水槽の通路の中も、筒状の水槽の中もおなじこと。


 小魚も、クラゲも、タコも、イカも、貝もーーー。


 ガラス越しに歩く人々に助けを乞い続けている。



 「オイ!! 待ッテクレ!! ココカラ出シテクレヨォ!! 」


 「モウオ家ニ帰リタイヨォ!! オ母サァアン!!」


 「アナタッ! ソイツハ偽物ヨッ!! 私ハココヨォ!!」



 ーーー最も、その声は誰にも聞こえない、聞こえるわけもない。





 今日も水族館『アクアフレンズ』は、静かに新たな来訪者が来るのを待っているーーー。





〜Fin〜

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人面魚の水槽 趣味人・暇人のS @Shuu-Himajin-0221

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