どら焼きと眼球

冬野トモ

どら焼きと眼球

 目を開けると、世界が凍っていた。

 理由は知るよしもない。

 布団も枕も、霜が降りてセメントのように硬いままだ。


 藤崎誠は得心した。夢の続きか。ではもう少し寝るとしよう。いびきをかこうとした瞬間、玄関の鈴が鳴った。


「藤崎さん。探偵さん。いらっしゃるんでしょう? お姿を拝見しに参じた女を、いつまで冷凍庫の中で待たせますの? わたくしはアイスではございません」


 三条みさの声である。藤崎は飛び起き、市松模様の羽織姿に、黒く貧相な外套がいとうを着た。洗面所の鏡でチョビ髭を整えると、瓶底の丸眼鏡をサッとかけ、くぼみが深い高山帽を三十路の頭皮に被せる。


「やあ、お待たせだったね、三条さん。何用ですかな?」

「何用ですかな、ではございませんの」

 三条みさは、凛とした声で、ぴしゃりと言い切った。


「冬の怪ですわよ。隣町。働き盛りの夫。凍結した眼球。お奉行ぶぎょうさんが、わたくしたちを待っています」


 桜色の着物に、妖艶な唇。孔雀くじゃくのような瞳で、今日もみさは訃報の知らせを携えてくるのだった。


「事件ですか。今行きます」


「ほら、帯が」

 市松模様がずれ、下着が見えてしまっている。藤崎は頭を掻き、慌てて帯を巻き直した。


「まつ毛が凍っています。まだストーブが故障なさっているのですか」

 藤崎はみさと並んで歩いた。

「寒さに強いと偉丈夫いじょうふを張るのは勝手ですが、いい加減買い直さないと心臓が止まってしまいますわよ」


 なるほど。

 世界凍結の原因はストーブだったのだ。

 藤崎は万年健康体に産んでくれた母に、感謝するしかなかった。


 ✾ ✾ ✾


「つまり、殺人なのですね」

 藤崎はオートモービルの後部座席に腰を据え、煙管きせるいながら訊ねた。みさとは往年の仲だ。男に対してはっきりと物言う性格を、藤崎は買っていた。


「探偵はそつではありません。命が奪われるかにかかわらず、わたくしたちは動くのです」

「詳細を確認しています」

「繰り返すのは男の悪い癖ですわ」


 隣に座るみさは、走り書きのメモを懐にしまった。


「場所は藁谷町。妻帯者の殿方が、今朝から行方知れず。眼球が氷漬けになって床に転がっていましたの」

「眼球? 被害者のものですか」


「煙はほどほどにしてください。肺がやられてしまいます」


 みさの話は早い。頭が切れるのだ。起き抜けの同級生に対して、少し酷ではないか。


 藤崎がむっとしたのを見て、彼女は目を泳がせた。おもむろに紙袋を取り出す。


「今朝から何も口にしていらっしゃらないでしょう? 丸平のどら焼きでもいかがですか、藤崎先生」


 ✾ ✾ ✾


 ——バン。

 運転士に礼を言い、オートモービルのドアを閉める。

 二人が見やると、今流行りの洋館が、朝霧の中から姿を現した。


「富豪ですか」

「汽船業を営む商家です」

「ほお」


 藤崎が塔から覗く硝子ガラス窓を見上げていると、「お世話になります」制帽に指先を揃えた男が近づいて来た。


「藤崎さん、どうしても理解できないのです。幽霊の仕業ですよ」


 みさの売り込みがうまいのか、彼は役人たちから『藤崎さん』と慕われるまでになっていた。


「あなたは事件を解決できると豪語なさった。藤崎さんの手腕を、この度も楽しみにしておりますので」


 豪語なさった? いつ?


 藤崎がみさに視線を落とすと、彼女はペロリと舌を出し、役人と一緒になって「さすが藤崎先生ですわ」と仕事仲間を〝よいしょ〟するのであった。


 今日もみさの手のひらで転がされるのだろう。藤崎はため息をついたが、眼鏡を調整し、探偵らしく声を張った。


「規則その一。心の傷を負った人間は、大勢に囲まれても本心を明かしません。応接間に私達だけを入れ、あなた方は廊下で待機してください」

「待機……ですか」

「規則その二。急いでください。証拠が消えてしまいます」


 藤崎に追い立てられ、男たちは二人を洋館へ案内したのだった。


 ✾ ✾ ✾


「確かに凍った眼球だ」

 藤崎は眼鏡を外し、応接間に転がる目玉を凝視した。


 事件があった部屋は、豪奢に飾られていた。シャンデリア。ベルベットの絨毯。艶のあるピアノ。部屋は表の庭園と縁框えんがまちを挟んで通り抜けられる。


 例の目の玉は、庭と部屋の丁度間、縁框の平板の上に、まるで容器からすくい取られた氷菓のごとく置かれているのであった。


「この目が、ご主人のものだとおっしゃるのですね」

「はい」


 ウェーブのかかった肩までの髪。鮮やかな杏色の着物。主張の激しい赤リボンを頭に結んだ女性は、藤崎の問いにしおらしく頷いた。被害者の妻、さよ子である。


「今朝方気づきましたの。夫が起きてきませんで、感冒かんぼうにでも罹患りかんしたか心配しておりましたら、凍った眼球だけがここに。きっと、〝青ゲット〟にやられましたのよ」


 福井の猟奇殺人事件を引き合いに出すのは、錯乱しているからなのか。言葉の端々に感じる教養と知見の広さが、富豪の妻を思わせる。


「和洋折衷せっちゅうですわね」


 みさがぐるりと首を回す。洋間と日本庭園を分けるのは、下部に硝子ガラスめられた雪見ゆきみ障子。みさが戸をさっと開け放つと、身を切る風が雪片と共に部屋に降り注いだ。


「勝手はよしなさい」


 藤崎がたしなめた。さよ子は「おかまいなく」と話を続ける。


 夫は海外留学の経験があったこと。外国の技術に感銘を受け、汽船業を始めたこと。進取の気性に富む夫を、心の底から愛していたこと。大粒の涙を流し嗚咽する彼女に、みさが寄り添った。


「今は師走でございましょう? 昨夜は零下でした。犯人は夫を撲殺し、眼球だけ放置したのです。絶対にそうです」


 ✾ ✾ ✾


「それでは、追ってご連絡を」


 藤崎は帽子を取り、深々と頭を下げてから洋館を後にした。随分と長居したものだ。日が傾き始めている。藤崎たちは早足でオートモービルに乗り込んだ。


「分かっていると思いますが——」

 車体に揺られながら、藤崎は小声。


「犯人は彼女です」

「そうですね」


 みさは驚くこともせず、彼の説明に点頭した。

 いかにもみさらしい。

 藤崎は、彼女が仕事仲間で誇らしいと感じた。


 藤崎は煙管をくゆらせる。彼は考えをまとめるとき、いつもこうする。


「まず、彼女には動揺がない。眼球が誰のものかもわからないのに、身内だと高唱される」

「普通は逆ですものね。家族はどこかで生きていて、別の誰かが殺されたと考えます。大きなお屋敷です。使用人の一人や二人、いるはずでしょうから」


 みさは車窓から東京の町並みを眺めていた。銀座のアーク灯が、ちらほらと輝き始めたのがわかった。


「糖を摂ります?」

「いただこう」


 みさからどら焼きを受け取り、藤崎は豪快に口に放り込む。咀嚼そしゃくして、喉に通した。


「しかし、最大の理由は、殺され方です」


 彼は口元の餡をぬぐう。


「本当に撲殺されたのなら、争った形跡があるはずです。庭は美しく整ったままであり、室内についても同様でした。血が滴った痕跡もないのは奇異です」


 争わず人が殺された。既存事件を模して眼球が置かれた。そこから導かれる結論はただ一つ。


 藤崎は一足早く下車し、

「三条さん、私は思うところがあり、問屋に参ります。お手数でなければ、三条さんは商店街に行って、例の女が銘柄品を購入しなかったか問うてみてください」


「なぜです?」

「証左を取るためです」


 ✾ ✾ ✾


 ——ドンドン!

「藤崎さん。探偵さん。いらっしゃるんでしょう? 購入の件が分かりましたわ」


 翌日の朝も、まつ毛が凍るほど寒かった。


 藤崎は薄い毛布にくるまり、鼻提灯はなぢょうちんを作り、夢の中にいた。だが、甲高い女性の声で飛び上がり、羽織姿で表に出ると、そこにいたのは、したり顔のみさであった。


「おはようございます、藤崎先生」

「三条さんではありませんか。何用ですかな」

「何用ですかな、ではございませんの。汽船屋の女はしたたかでしたわ!」


「思い出しました。すみません。彼女は何を買っていましたか」

「牛肉です。どんな味がするのでしょう!」

「興味深い」


 二人は早速通りへ出て、送迎車を捕まえた。


「私も昨日、問屋で収穫がありました。知り合いが帰国子女でしてね、久々に一杯やりましたよ」


 藤崎は煙管を吹かす。


「カツ咖喱カレーでも召し上がったのですか?」

「ハイカラの食事には金が足りません。まあ、近いですが」

「なぜ無聊ぶりょうかこつのか訊いていますの」

「失敬。さぼっていた訳ではないのです」


 車は硝子塔のある洋館の前で止まる。


「三条さん、これは私からのお願いなのですが——」

「またですか」

「あなたの大好きな丸平のどら焼き」

「あげませんよ。残り一つでございますゆえ」


 藤崎は同級の女の肩に手を置く。至って真面目な口調で言ってのけた。


「今のうちに食べておきなさい」

「は?」


 ✾ ✾ ✾


「不可能ですわ!」


 さよ子は立ち上がってたけた。探偵の指を向けた先が、我が身だったからである。


「証拠がありません。わたくしが殺めたのであれば、瞳の怪を解いてごらんなさい」


 意図と計略がつまびらかでないと言いたいのだろう。

 待っていた。


 藤崎は嬢の前に立ち、高山帽の広鍔ひろつばをつまみ、さも余裕ありなんと一礼してみせた。


「ぶしつけのご無礼をお許しください。ですが、事件は不可解な点が多すぎます。取っ組み合いもせず、血も落ちず、眼球だけをえぐり出して捨てたのでしょうか。雪が薄化粧した昨夜に完全犯罪とは」


「方法は犯人に問うべきですわ。それに、わたくしがあの人の命を奪ったのなら、わたくしは大天才です。寒暖の差が激しい師走に、風を読んで凍るかどうか賭けなければなりません。呆けものでございます」


「氷を使った、とか」


 役人が割って入った。

 笑ったのはみさだ。


「お役人様、それはありえません。商店街に出向けば足が付きます」


 購入履歴に氷は含まれていなかった。


「では犯人は彼女ではないのだろう」

「いいえ、一つだけ方法があるのですよ」


 藤崎は人差し指を立てた。


「冷凍庫です」


『冷凍庫』という言葉を耳にし、腹を抱えて転げまわったのはさよ子であった。


「失笑しますわね。探偵さんともあろうお方がトートロジーなど」


(何ですか、まぐろの刺身のような名前は)

(循環論法の意ですわ)


 みさが役人に耳打ちした。

 さよ子は左団扇ひだりうちわでまくし立てる。


「冷凍庫を使うには氷が仰山ぎょうさんいりますでしょう。この時節、函館のお品も安く手に入るでしょうが、昨日も一昨日も、氷屋に出向いてはおりません。わたくしの勝ちですわね。目玉は自ずから凍ったのです。たまたま氷点下だっただけのことです」


「蔵を見せてください」


 唐突な頼みであった。藤崎は嬢をまっすぐ見た。さよ子の動きが止まる。


「なぜ蔵を?」

「保管するなら倉廩そうりんしかありませんので。あるのでしょう? 汽船業の商家に、米蔵の一つもないわけがない。鍵はどこです」


 みさと役人の男は、さよ子の次の動作をじっと待つ。

 嬢の額に、脂汗が伝った。


 射るような視線に耐えかねたのだろう。彼女は「今夜は枕に就けませんわね」とだけ呟き、席を立ってしまった。


「おい、大丈夫なのかね」

「鍵はピアノの中だそうです」


「え?」

「なぞなぞの答えは〝北枕〟でしょう? この方角にはピアノしかないじゃないですか」


 ✾ ✾ ✾


 ——がちゃ。


 鍵は見つかった。


 藤崎が蔵を開けると、暗闇に鎮座していたのは、米俵四俵の大きさはあろう鉄製の筺体であった。飾り気のない側面にFrost & Sons Electric Refrigeration Worksとレタリングされている。


「なんと……」

「電気冷凍庫です。知り合いにつうがいましてね。さあ、下がってくださいよ」


 藤崎が腰をかがめて、取っ手を回すと、

「ひいっ!」

 役人の悲鳴。


 馬鈴薯ばれいしょのように赤く焼けた素肌が、ごろんと床に投げ出された。男は両足を抱えて座らされ、首を胸にしまっている。藤崎がぬめる頭部を起こすと、肉が腐ってうじが湧き、白骨の浮いた眼窩がんかが露になった。


「目玉がない!」

「当たりですわね」


 青ざめる役人の隣で、みさは不敵に笑っていた。


「何を突っ立っているんですか! 犯人を逮捕してください! 彼女が逃げます!」


 役人たちは慌てて制帽に指を添えると、洋館へと姿を消したのだった。


 ✾ ✾ ✾


「藤崎さん。探偵さん。いらっしゃるんでしょう? お姿を拝見しに参じた女を、いつまで冷凍庫の中で待たせますの? わたくしはかき氷ではございません」


 今日も三条みさの声がする。


「これだから三流探偵なんてあだ名が——」

「やあ、三条さん、何用ですかな?」

「何用ですかな、ではございませんの。隣町で事件です。吐血した女。恋人は行方知れず。男を探せとの書き残し」


 藤崎は慌てて家を出た。


 健忘症の彼は、寝て起きると出来事の多くを忘れてしまう。だが、同級の女の問いかけで、彼の海馬は記憶の紐を緩めるらしい。


 オートモービルの中で、その女が尋ねた。


「先日は舌をひるがえしましたわ。どんな道理で、電気冷凍庫が浮かんだのです?」

「洋館の事件ですか」


 藤崎は得意そうに煙管を咥えた。


「なに、簡単なことです。最近の汽船業は、米国と商いが活発だ。米国といえば電気です。庶民には手が出ない品も、あの女主人ならなんとでもするでしょう。大学の貨物から、故障したなどとうそぶき、懐にくすねてしまったのですよ。よくある話です。発電用の石炭もたっぷりとある。福井の事件を模するなら、この方法しかなかったのです」


「物騒な世になったものですね」


 みさは吐息した。


「電気が流行れば、同じような事件が次々と起きるやもしれませんのに」

「冬の朝ですな」


 藤崎の咳払い。


「冬の朝は寝床から出られないものです。いつまでも生ぬるい布団の中にいたい。どうでしょう。ひとたび外に出れば、布団に戻りたいと思うでしょうか」


 みさは答えなかった。


 彼女は丸平の包みから、菓子を取り出す。


「そうですわ! どうしてあの時、食べ切ろとおっしゃったのです?」

「なんです?」

「先生はわたくしに言いました。どら焼きを食べて、袋を空にしなさいと」


と思ったからです」

「わたくしが? 死体を見て?」


 みさは笑った。


(十年来の付き合いです。今さら何の心遣いですか)


 藤崎は彼女の笑顔を見ると、恥ずかしそうに頭を掻いた。


「先生、アンなさって」


 みさの声に、藤崎は目を閉じて口を開く。

 大の大人が子供みたいだ。どら焼きだろうか。彼は期待した。


「はい、おしまい」

 

 どら焼きは貰えなかった。



 了


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どら焼きと眼球 冬野トモ @huyunotomo

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