どら焼きと眼球
冬野トモ
どら焼きと眼球
目を開けると、世界が凍っていた。
理由は知る
布団も枕も、霜が降りてセメントのように硬いままだ。
藤崎誠は得心した。夢の続きか。ではもう少し寝るとしよう。いびきをかこうとした瞬間、玄関の鈴が鳴った。
「藤崎さん。探偵さん。いらっしゃるんでしょう? お姿を拝見しに参じた女を、いつまで冷凍庫の中で待たせますの? わたくしはアイスではございません」
三条みさの声である。藤崎は飛び起き、市松模様の羽織姿に、黒く貧相な
「やあ、お待たせだったね、三条さん。何用ですかな?」
「何用ですかな、ではございませんの」
三条みさは、凛とした声で、ぴしゃりと言い切った。
「冬の怪ですわよ。隣町。働き盛りの夫。凍結した眼球。お
桜色の着物に、妖艶な唇。
「事件ですか。今行きます」
「ほら、帯が」
市松模様がずれ、下着が見えてしまっている。藤崎は頭を掻き、慌てて帯を巻き直した。
「まつ毛が凍っています。まだストーブが故障なさっているのですか」
藤崎はみさと並んで歩いた。
「寒さに強いと
なるほど。
世界凍結の原因はストーブだったのだ。
藤崎は万年健康体に産んでくれた母に、感謝するしかなかった。
✾ ✾ ✾
「つまり、殺人なのですね」
藤崎はオートモービルの後部座席に腰を据え、
「探偵は
「詳細を確認しています」
「繰り返すのは男の悪い癖ですわ」
隣に座るみさは、走り書きのメモを懐にしまった。
「場所は藁谷町。妻帯者の殿方が、今朝から行方知れず。眼球が氷漬けになって床に転がっていましたの」
「眼球? 被害者のものですか」
「煙はほどほどにしてください。肺がやられてしまいます」
みさの話は早い。頭が切れるのだ。起き抜けの同級生に対して、少し酷ではないか。
藤崎がむっとしたのを見て、彼女は目を泳がせた。おもむろに紙袋を取り出す。
「今朝から何も口にしていらっしゃらないでしょう? 丸平のどら焼きでもいかがですか、藤崎先生」
✾ ✾ ✾
——バン。
運転士に礼を言い、オートモービルのドアを閉める。
二人が見やると、今流行りの洋館が、朝霧の中から姿を現した。
「富豪ですか」
「汽船業を営む商家です」
「ほお」
藤崎が塔から覗く
「藤崎さん、どうしても理解できないのです。幽霊の仕業ですよ」
みさの売り込みがうまいのか、彼は役人たちから『藤崎さん』と慕われるまでになっていた。
「あなたは事件を解決できると豪語なさった。藤崎さんの手腕を、この度も楽しみにしておりますので」
豪語なさった? いつ?
藤崎がみさに視線を落とすと、彼女はペロリと舌を出し、役人と一緒になって「さすが藤崎先生ですわ」と仕事仲間を〝よいしょ〟するのであった。
今日もみさの手のひらで転がされるのだろう。藤崎はため息をついたが、眼鏡を調整し、探偵らしく声を張った。
「規則その一。心の傷を負った人間は、大勢に囲まれても本心を明かしません。応接間に私達だけを入れ、あなた方は廊下で待機してください」
「待機……ですか」
「規則その二。急いでください。証拠が消えてしまいます」
藤崎に追い立てられ、男たちは二人を洋館へ案内したのだった。
✾ ✾ ✾
「確かに凍った眼球だ」
藤崎は眼鏡を外し、応接間に転がる目玉を凝視した。
事件があった部屋は、豪奢に飾られていた。シャンデリア。ベルベットの絨毯。艶のあるピアノ。部屋は表の庭園と
例の目の玉は、庭と部屋の丁度間、縁框の平板の上に、まるで容器から
「この目が、ご主人のものだとおっしゃるのですね」
「はい」
ウェーブのかかった肩までの髪。鮮やかな杏色の着物。主張の激しい赤リボンを頭に結んだ女性は、藤崎の問いにしおらしく頷いた。被害者の妻、さよ子である。
「今朝方気づきましたの。夫が起きてきませんで、
福井の猟奇殺人事件を引き合いに出すのは、錯乱しているからなのか。言葉の端々に感じる教養と知見の広さが、富豪の妻を思わせる。
「和洋
みさがぐるりと首を回す。洋間と日本庭園を分けるのは、下部に
「勝手はよしなさい」
藤崎がたしなめた。さよ子は「おかまいなく」と話を続ける。
夫は海外留学の経験があったこと。外国の技術に感銘を受け、汽船業を始めたこと。進取の気性に富む夫を、心の底から愛していたこと。大粒の涙を流し嗚咽する彼女に、みさが寄り添った。
「今は師走でございましょう? 昨夜は零下でした。犯人は夫を撲殺し、眼球だけ放置したのです。絶対にそうです」
✾ ✾ ✾
「それでは、追ってご連絡を」
藤崎は帽子を取り、深々と頭を下げてから洋館を後にした。随分と長居したものだ。日が傾き始めている。藤崎たちは早足でオートモービルに乗り込んだ。
「分かっていると思いますが——」
車体に揺られながら、藤崎は小声。
「犯人は彼女です」
「そうですね」
みさは驚くこともせず、彼の説明に点頭した。
いかにもみさらしい。
藤崎は、彼女が仕事仲間で誇らしいと感じた。
藤崎は煙管をくゆらせる。彼は考えをまとめるとき、いつもこうする。
「まず、彼女には動揺がない。眼球が誰のものかもわからないのに、身内だと高唱される」
「普通は逆ですものね。家族はどこかで生きていて、別の誰かが殺されたと考えます。大きなお屋敷です。使用人の一人や二人、いるはずでしょうから」
みさは車窓から東京の町並みを眺めていた。銀座のアーク灯が、ちらほらと輝き始めたのがわかった。
「糖を摂ります?」
「いただこう」
みさからどら焼きを受け取り、藤崎は豪快に口に放り込む。
「しかし、最大の理由は、殺され方です」
彼は口元の餡をぬぐう。
「本当に撲殺されたのなら、争った形跡があるはずです。庭は美しく整ったままであり、室内についても同様でした。血が滴った痕跡もないのは奇異です」
争わず人が殺された。既存事件を模して眼球が置かれた。そこから導かれる結論はただ一つ。
藤崎は一足早く下車し、
「三条さん、私は思うところがあり、問屋に参ります。お手数でなければ、三条さんは商店街に行って、例の女が銘柄品を購入しなかったか問うてみてください」
「なぜです?」
「証左を取るためです」
✾ ✾ ✾
——ドンドン!
「藤崎さん。探偵さん。いらっしゃるんでしょう? 購入の件が分かりましたわ」
翌日の朝も、まつ毛が凍るほど寒かった。
藤崎は薄い毛布にくるまり、
「おはようございます、藤崎先生」
「三条さんではありませんか。何用ですかな」
「何用ですかな、ではございませんの。汽船屋の女はしたたかでしたわ!」
「思い出しました。すみません。彼女は何を買っていましたか」
「牛肉です。どんな味がするのでしょう!」
「興味深い」
二人は早速通りへ出て、送迎車を捕まえた。
「私も昨日、問屋で収穫がありました。知り合いが帰国子女でしてね、久々に一杯やりましたよ」
藤崎は煙管を吹かす。
「カツ
「ハイカラの食事には金が足りません。まあ、近いですが」
「なぜ
「失敬。さぼっていた訳ではないのです」
車は硝子塔のある洋館の前で止まる。
「三条さん、これは私からのお願いなのですが——」
「またですか」
「あなたの大好きな丸平のどら焼き」
「あげませんよ。残り一つでございますゆえ」
藤崎は同級の女の肩に手を置く。至って真面目な口調で言ってのけた。
「今のうちに食べておきなさい」
「は?」
✾ ✾ ✾
「不可能ですわ!」
さよ子は立ち上がって
「証拠がありません。わたくしが殺めたのであれば、瞳の怪を解いてごらんなさい」
意図と計略が
待っていた。
藤崎は嬢の前に立ち、高山帽の
「ぶしつけのご無礼をお許しください。ですが、事件は不可解な点が多すぎます。取っ組み合いもせず、血も落ちず、眼球だけをえぐり出して捨てたのでしょうか。雪が薄化粧した昨夜に完全犯罪とは」
「方法は犯人に問うべきですわ。それに、わたくしがあの人の命を奪ったのなら、わたくしは大天才です。寒暖の差が激しい師走に、風を読んで凍るかどうか賭けなければなりません。呆けものでございます」
「氷を使った、とか」
役人が割って入った。
笑ったのはみさだ。
「お役人様、それはありえません。商店街に出向けば足が付きます」
購入履歴に氷は含まれていなかった。
「では犯人は彼女ではないのだろう」
「いいえ、一つだけ方法があるのですよ」
藤崎は人差し指を立てた。
「冷凍庫です」
『冷凍庫』という言葉を耳にし、腹を抱えて転げまわったのはさよ子であった。
「失笑しますわね。探偵さんともあろうお方がトートロジーなど」
(何ですか、
(循環論法の意ですわ)
みさが役人に耳打ちした。
さよ子は
「冷凍庫を使うには氷が
「蔵を見せてください」
唐突な頼みであった。藤崎は嬢をまっすぐ見た。さよ子の動きが止まる。
「なぜ蔵を?」
「保管するなら
みさと役人の男は、さよ子の次の動作をじっと待つ。
嬢の額に、脂汗が伝った。
射るような視線に耐えかねたのだろう。彼女は「今夜は枕に就けませんわね」とだけ呟き、席を立ってしまった。
「おい、大丈夫なのかね」
「鍵はピアノの中だそうです」
「え?」
「なぞなぞの答えは〝北枕〟でしょう? この方角にはピアノしかないじゃないですか」
✾ ✾ ✾
——がちゃ。
鍵は見つかった。
藤崎が蔵を開けると、暗闇に鎮座していたのは、米俵四俵の大きさはあろう鉄製の筺体であった。飾り気のない側面にFrost & Sons Electric Refrigeration Worksとレタリングされている。
「なんと……」
「電気冷凍庫です。知り合いに
藤崎が腰をかがめて、取っ手を回すと、
「ひいっ!」
役人の悲鳴。
「目玉がない!」
「当たりですわね」
青ざめる役人の隣で、みさは不敵に笑っていた。
「何を突っ立っているんですか! 犯人を逮捕してください! 彼女が逃げます!」
役人たちは慌てて制帽に指を添えると、洋館へと姿を消したのだった。
✾ ✾ ✾
「藤崎さん。探偵さん。いらっしゃるんでしょう? お姿を拝見しに参じた女を、いつまで冷凍庫の中で待たせますの? わたくしはかき氷ではございません」
今日も三条みさの声がする。
「これだから三流探偵なんてあだ名が——」
「やあ、三条さん、何用ですかな?」
「何用ですかな、ではございませんの。隣町で事件です。吐血した女。恋人は行方知れず。男を探せとの書き残し」
藤崎は慌てて家を出た。
健忘症の彼は、寝て起きると出来事の多くを忘れてしまう。だが、同級の女の問いかけで、彼の海馬は記憶の紐を緩めるらしい。
オートモービルの中で、その女が尋ねた。
「先日は舌を
「洋館の事件ですか」
藤崎は得意そうに煙管を咥えた。
「なに、簡単なことです。最近の汽船業は、米国と商いが活発だ。米国といえば電気です。庶民には手が出ない品も、あの女主人ならなんとでもするでしょう。大学の貨物から、故障したなどと
「物騒な世になったものですね」
みさは吐息した。
「電気が流行れば、同じような事件が次々と起きるやもしれませんのに」
「冬の朝ですな」
藤崎の咳払い。
「冬の朝は寝床から出られないものです。いつまでも生ぬるい布団の中にいたい。どうでしょう。ひとたび外に出れば、布団に戻りたいと思うでしょうか」
みさは答えなかった。
彼女は丸平の包みから、菓子を取り出す。
「そうですわ! どうしてあの時、食べ切ろとおっしゃったのです?」
「なんです?」
「先生はわたくしに言いました。どら焼きを食べて、袋を空にしなさいと」
「戻すと思ったからです」
「わたくしが? 死体を見て?」
みさは笑った。
(十年来の付き合いです。今さら何の心遣いですか)
藤崎は彼女の笑顔を見ると、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「先生、アンなさって」
みさの声に、藤崎は目を閉じて口を開く。
大の大人が子供みたいだ。どら焼きだろうか。彼は期待した。
「はい、おしまい」
どら焼きは貰えなかった。
了
どら焼きと眼球 冬野トモ @huyunotomo
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