3.そこに書いてある
あれからずっと、レグレンツィは書斎に籠もっていた。
ご隠居の言葉は、信じられなかった。
それでもどうしてか、信じてしまっていた。
アンヌツィアタ
現在の貯水量に対し、洪水吐きからの放水量が少ないという。
そして建設年数と今季の降雨量を考えれば、下手をすればひと月以内に決壊するおそれがあると。
当てずっぽうだと思いたかった。
それでも、それまでのご隠居とソニアのやりとりから、確かなことだとしか思えなくなってしまった。
あの日からずっと、雨は降り続いている。
止む気配は、一向にない。
本来ならそうならないよう、都度の点検と修繕が必要となる。
しかしアンヌツィアタ
そうやってきっと、今まで、あの
あの規模の
食い止めるか、いなすか。いや、どうにもできないだろう。
何度も何度も“
これまでと同じように。
水害、干ばつの章を、穴が空くまで読んだ。
朝も夜もないかのように、めしもろくに食べないままに。
それでも、どこにも記されてはいなかった。
「アンヌツィアタ
執事のエピファニが、青い顔で飛び込んできた。
「亀裂が確認されたと、今しがた報告が」
固まっていた。
遂に、それがほんとうに。そして、そのときが。
「いかがする、ご領主閣下」
続いて入ってきたのは、ご隠居とソニアだった。
「いかがするも何もない。すべてはきっと、この“
「父上、どうかお気を確かに。そして、ご決断を」
「決断は下した。ここにすべてが記されているのだ。
「馬鹿者っ」
一喝。ご隠居だった。
顔。見やる。口以外の器官の一切がない、のっぺりした仮面のようなそれ。
しかしそれでも、忿怒は見て取れた。
「本を読むより先にやることがあるじゃろうが」
「それは、一体」
「領民の避難。めしと財源の確保。軍隊の再編成と再配置。それと船の用意じゃ」
はっきりと言われた。
そんなことは、“
「常備軍、集めます。船も、川舟であれば用意できます」
ソニアだった。目の色が変わっている。
「頼んだぞ、娘御殿」
「神たる父に誓って」
しっかりとした言葉だった。そうやってソニアは、外に駆け出していった。
「ああ、ご隠居。もしや
すがりついていた。体はきっと、震えていた。
「ない。はじめてじゃ」
「そんな、ご無体な」
「無体もくそもあるかっ」
胸ぐらを掴み上げられていた。
「よろしいか。これからは、そしてこれまでも、これからも。貴殿の双肩、そして一挙手一投足に、領民の
その言葉に、心すら震え上がっていた。
きっと、別のなにかに。
それでも、何も思い浮かばなかった。
「このカリスト・オッタヴィオ・レグレンツィ。領土と領民の危機を前にして、逃げも隠れもせぬ」
それだけは、絞り出せた。
「しかし、私には、どうすることもできませぬ。どうか、どうか。ルヴェンタッドのヴァーランハート殿。その知恵と勇気を、お貸し下され」
そうやって、レグレンツィは頭を下げた。
「承った」
ご隠居はそれだけ言って、手を話した。そうして踵を返す。
「一宿一飯の恩義、我が差配にてお返しいたそう」
歩き出す。雄々しく、逞しく。
その背中はまさしく、王のそれであった。
「資材、資材、資材。石に木に鉄に土。とにかくありったけじゃ。城門の前に積み上げるぞ。斥候は都度、状況の確認と報告。この雨じゃから
がなり立てた。そうやって、そのあたりにいるものに指示しはじめる。それで皆、わっと動き出した。
「城内に残るべきは、官僚、農民、軍人、商人の順。この事態に対処する知識と根性のあるやつ。そして事態のあとに復興をするための技術と体力のあるやつ。そしてそれらを差配するやつじゃ。それぞれの家族や他の身分はとにかく逃がせ」
言われて、女たちが宝石や貴金属、絵画に飛びついていく。
「そんなものを持っていこうとするなっ。すぐに金になるものだけ。
声に一切の迷いはない。まるで経験があるかのように。
「油脂。魚油でもオリーブ油でも
「オリーブ油。この地の特産です。商人どもからかき集めます」
「おうさ、執事殿。お頼み申す」
エピファニが青い顔のまま、それでも燃え盛る瞳で走り出す。
震えていた。
恐怖を前にして、これだけの決断を次々と下していけるのか。
この方は、これほどの才覚を持っておられたのか。
そうやって指示を飛ばしているうち、ソニアが戻ってきた。
「常備軍、揃えました。ですが、その」
難しい顔のソニア。それを押しのけて、縦にも横にも大きい体が前に出てきた。
家臣団筆頭、ラプレディである。
腕は確かだが、何しろ気位が高く、扱いづらい。
「ヴァーランハートとやら。我ら軍人に、水を相手に戦えというのか?」
「そうじゃ、撤退戦じゃ。必要なのは殿軍、斥候、衛生兵。ひとりでも多く生きて逃がす。死ぬる覚悟のあるやつ以外はいらん。まずはそれから選べ」
「撤退だと?栄光あるレグレンツィ家臣団に対し、なんと無礼な」
言い切る前だった。
ご隠居の拳が、ラプレディの腹に突き刺さっていた。
そうして前のめりになった巨体に対し、今度は足が飛んだ。
人の三人分ほど吹き飛んだラプレディに馬乗りになり、その減らず口がなくなるまで、重い拳をぶち込んでいく。
すっかり大の字になったラプレディの顔を踏みつけ、ご隠居はぐるりと周囲を見回した。
誰も何も言えず、俯いてしまっている。
「今、死にたいやつは前に出ろ。わしがそうしてくれる」
暴力と恐怖による支配。そういうことも、やってしまえるのか。
「斥候、ロンバルド隊。衛生救護、ボツェット隊。それぞれ、逃げる領民に随伴させます」
ひとりだけ、違った。ソニアだった。臆することなく、毅然とした態度である。
それに対し、ご隠居も頷いた。
「殿軍のキアロモンテ隊。私が指揮いたします」
「たわけを申すな、娘御殿」
いくらか、優しい口調だった。
「そなたは逃げよ」
「ですが、ご隠居。私も武人です。どうか、戦わせて下さい」
「そなたもまた、為政者じゃ。逃げる領民を束ねるものも必要になる。生きて隣領にたどり着き、領民を安んじさせよ」
どこまでも、穏やかな声だった。
それでもソニアは、歯を食いしばっていた。
剣を引き抜く。
そうして、首の後ろに回して。
「モンカルヴォ伯レグレンツィが娘、ソニア。武人として、そして為政者として。常に陣頭にありたく存じます」
ソニアは、その金の髪を、首筋半ばで切り落としてしまった。
「勝手にせい」
「ありがたき幸せ」
踵を返したご隠居に対し、ソニアは深々と礼をしていた。
我が娘よ。
武人として、為政者として。
そしてなにより、人として。
逞しく、素晴らしく育ってくれたのだね。
レグレンツィは、流れるままにしていた。
「可愛い娘をむざむざ死なせはせん。私も打って出るぞ」
叫んだ。おう、と男の声が重なった。
ご隠居は、どこか嬉しそうに笑っていた。
領民の避難は、そうやって三日ほどで完了した。
長雨の中、ご隠居はずうっと、城壁の上にいた。
「あのときも、こうじゃったなあ」
そう呟いたご隠居の体は、震えていた。
「二度の余震。それで、気付けた。そうして逃がせた」
「ご隠居?」
「それでも、こわいものはこわい。あのときは体半分、持っていかれた。死ぬかと思うたわえ。そして
ルヴェンタッド大地震。
それは確かに、“
ヴァーランハート王はその際、城壁の崩落に巻き込まれ、生死をさまようほどの重症を負ったとも。
「それでも、ひとりでも生かす。たとえここが我が郷里、ルヴェンタッドでなくとも」
しっかりと、拳を握りしめながら。
「それが、わしの定めた、わしの定めじゃ」
声には、覚悟しか聞こえなかった。
「お供いたします」
「かたじけないのう、ご領主閣下」
「我らこそ詫びねばなりません。我らが不明に、付き合わせてしまったがゆえに」
ふたり、雨に濡れながら笑った。
東の山。
きらきらと、何かが光った。
きっと、鏡の反射だろう。
「はじまるぞ」
ご隠居の声が、固くなった。
大きな音だけ、聞こえた。
隣りにいたひとは、城壁を飛び降りていた。
「ご隠居っ」
「そこを動くなよっ」
城壁の下。
ご隠居が、迫りくる大きなものに向かって、走り出していた。
その姿は、見る間に大きなけもののように。
あるいは城壁より高く、分厚く。
形容しようもない姿に変容していく。
咆哮。
人でも、けものでもない。
これが、人でなし。
人の理解の及ばぬ
その姿の前に、炎の壁が幾重にも生えてきた。
眼前が、その姿と炎に埋め尽くされる。
ぶつかった。
炎と、水。
巨大な塊、ふたつ。
悲鳴が、ここまで聞こえた。
ごうとなる音の中、そのけものの姿は、呑まれていった。
「ご隠居っ」
震える体で、前に出ようとした。
でも足は、鉛のようになっていた。
どうか、どうか。
私に勇気を。あのかたに、
そしてこの地と民に、未来を。
濁流の中、何艘かの船が見えた。
誰かが、水の中に飛び込む。
そうしてすぐに、人のかたちをした何かを抱えて、水面に顔を出した。
それらもすぐに、引き上げられていた。
「父上、ご隠居は無事でございます」
しばらくして、ずぶ濡れのソニアが、ずたぼろになった何かを抱えて城壁に登ってきた。
確かに、ご隠居の姿だった。
震える体のまま、それを抱きとめていた。
「おお、おお。ご隠居。なんという無茶を」
「いやあ。娘御殿の勇気に助けられたぞ。死ぬ前に礼を言う。ほんとうに、ありがとう」
「何を申されますか。生きておられます。ご隠居は今ここに、生きておいでです」
雨の中、ソニアはぼろぼろと泣いていた。
「それにしても」
ぽつりと。
「流石は、
何を言っているか、よくわからなかった。
「ご領主さま、逃げた領民は無事です。城内のものも、皆」
駆け寄ってきたエピファニが、やはり震えながら叫んでいた。
「何を申しておる。この水量だ。このままではいずれ」
「どうか、ご覧ください。水の流れ方です。どうか、どうか」
体は、ようやく動いてくれた。
そうして、城壁の下を。あるべき濁流を見た。
それは、一本の筋ではなかった。
無数に細く分かたれ、平野の隅々にまで広がっていた。
「この平野全体に、無数の堀と堰を刻んでおったのじゃ。いずれこういうことがおきうると考え、
ご隠居は息を吹き返したかのように、元気に笑っていた。
「さて、と」
きっと、その言葉が聞こえるまで、呆然としていたと思う。
「いちばん大変なのは、ここからじゃぞ?」
ご隠居。やはり、笑っていた。
体は吹き飛んでいた。
書斎にまで。
そうしてずぶ濡れの体のまま、“
ここからならきっと、記されている。
あるいは記されていなくとも、きっと。
「官僚は水浸しになった田畑や施設の損失の洗い出し。商人は、その被害額の算出だ。軍人と農民は再建と復興。手を付けられるところからでいい。それと、手の空いているやつは、とにかくめしだ。めしを作れ。もしくは眠れる分、眠っておけ」
口は、動いてくれた。そしてそれを聞いた皆も。
走り出した。そうして走りながら、目についたものに指示を出した。
あるいは人手の足りていないところに駆けていき、人を足し、もしくは自分がそれに加わった。
そのうちに、隣にソニアの姿があった。
ふたりで一緒に、駆け回った。
逃がした領民が戻ってきた頃、空は晴れていた。
「これでもう、ひと安心じゃのう」
身支度を整えたご隠居は、楽しげにそう言った。
「領地のことも、娘御殿のことも」
ソニアは、満面の笑みを浮かべていた。
ふた月もないぐらいか。
ほんとうに、見違えるほどになった。
勇敢で、慈愛に満ち、そして深慮になった。
「対してご領主閣下は、なんとも情けないのお」
「父上ったら、あのときからずっと“
ふたり、苦笑いを浮かべていた。
「これがないと、なんにもできないのです。これがあるから、なんでもできる気がするのです」
抱えていた“
記されていないことは、都度、書き足していった。
記されていることでも、現状と離れている所があれば、注釈を入れていった。
そうしていくうちに、ほぼすべての
今、この“
苦難も機知も、未来のことすらも。
「ルヴェンタッドの、ヴァーランハートさま」
旅立ちのとき。
背を向けたご隠居に対し、レグレンツィはやはり叫んでいた。
「今一度、お名を。あなたさまのお名を。生涯、いや、未来永劫、このご恩を忘れないためにも。何卒、あなたさまの、お名を」
「わしの名か」
いくらか、気恥ずかしそうに。
それでも確かな声色で。
「そこに書いておる」
指差したのは、腕の中にあった“
(おわり)
―――――
Reference & Keyword
・ティビ・ダム(アリカンテダム)
・Lester William Polsfuss
そこに書いてある-It's on your Book- ヨシキヤスヒサ @yoshikiyasuhisa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます