2.お勉強の時間
ヴァーランハートと名乗ったその人でなしは、やはり牢の中でぎゃあぎゃあと騒いでいた。
「何がよくないのじゃ。獄に投げ入れるとしても、
「不敬罪。かの
「同姓同名の人間も人でなしも、山ほどおろうが」
「言う通りだが、言っていいことと悪いことがある」
記憶と“
眼の前にある
「して、ヴァーランハートとやら。ここには何をしに?」
そもそものところである。極北の孤島であるルヴェンタッドに押し込めているはずの人でなしどもが、どうしてここにいるのか。
「
それはいくらか楽しそうな口調で、そう言った。
「この地にあるという白亜の巨壁。アンヌツィアタ
「ほう、それはそれは」
「我らが郷里ルヴェンタッドでも、治水とは何よりも重要な
「
「あれが建設されたのが三百年前か。当時は人と人でなしは戦争状態じゃったがゆえ、見にはこれんでの。まっこと歯がゆい思いをしたものじゃ。今は関係も穏やかになったがゆえ、ようやく、かの
「ご無礼をお許しあれ、ご隠居。急ぎ支度をいたすがゆえ」
「ちょっと、父上」
思わず前のめりになったレグレンツィを、困惑した様子のソニアが押し留めた。
「人でなしですよ?野に放てば、何をしでかすか」
「滅多なことを申すでない、ソニア。このお方は勉学のためにご覧になりたいと申しておるのだ。それも我らが父祖の大いなる遺産、アンヌツィアタ
「ただの石壁ではありませんか。何をそんなに」
「この馬鹿娘っ」
叫んでいた。それは牢の中にいたご隠居も同じようだった。
「何度も教えておるではないか。あれがあってこそ、我が領土の主要作物が存在するといっても過言ではないと」
「そうじゃ、そうじゃ。あれほどのものを建設するのにどれだけの資材と人員、時間と計算式が必要か、おわかりか?」
「領地経営の真髄とは治水。すなわち上下水道の確保と、水害と干ばつへの事前対応だ。領民に水で苦労をさせる人間など、人の上に立つべきではない」
「ましてこの地は降水量が多い盆地。水を外に出しにくい場所じゃ。利水だけでなく洪水調節のために
激昂したふたり、愚かしきソニアが半べそになるまで、肩を上下させながらがなり立てた。
「わかりました、わかりました。我が不明を恥じますがゆえ、どうか矛をお収め下さい」
そうやってしゅんとしたソニアを前に、レグレンツィは頭を抱えることしかできなかった。
愛に愛した妻の忘れ形見である。可愛くないわけがない。
しかしどうしてか、おつむの方は何をどうしたってからっきし。見目に不足はないとはいえ、得意科目が剣術と乗馬しかないときた。
男手ひとつで育てたのが仇になったか。これでは
「ご領主閣下。これなる娘御、わしに預けてはくれまいか?」
ふと、ご隠居がそんなことを言い出した。
「今は平時じゃ。戦働きではなく内の
それはいい。思わず、頷いてしまっていた。
聞いていればこの御仁、なかなか話せるようだし、この地のこともよく見ている。
まして、かの
親で駄目なら、
「ひと月でもふた月でも。何卒どうか、お頼み申す」
「ちょっと、父上」
「承った。必ずや、かの
「ちょっと、そこな人でなし」
「
「うむ。まずは市場へ。そこで山々の恵みについて、ひとつ論じてみましょうぞ」
「ちょっと、ふたりとも」
「発言は認めていない」
やはりふたり、叫ぶようにして叱りつけた。
「さて、内陸の盆地となれば、領民の居住面積と作物の作付面積の比率が第一の問題となってくる」
市場にソニアとご隠居を連れ出したところ、まずはご隠居がそういったことを言い出した。
「領民を増やすためには食うめしを増やす必要が出てくるから、そのための作物を作る土地が必要になる」
「そこまでは、わかります」
「もうひとつ、増やさなければならないのは何か、おわかりかえ?」
「ええと、最初におっしゃっていた居住面積。つまりは住む家とその場所ですか?」
「
そこで、ソニアの返答が詰まった。
「難しく考えなくてよい。広いか狭いか、硬いか柔らかいか。そういう程度じゃ」
やはり、ええと、と口にしながら、ソニアは少し視線を上に上げた。
「ある程度の広さがあって、地盤がぐずぐずしていなくて、移動が楽なところ」
どもりながらのソニアの言葉に、レグレンツィは、おっ、となった。
ちゃんと答えた。しかも付け足しひとつ、できている。
「それはつまり、どういった地形になる?」
「平らな場所。平地です。ちょうど、こういった場所」
「そうじゃのう。次に作物。特に麦や米などの穀物じゃ。どういった場所が生育に適しておるかね?」
「同じく平地です。特に米は、水田。広くて平らなところが望ましい」
「よろしい。そうなると、つまりは最初の
「人が住むための場所と、食べ物を育てるための場所。最適な条件が同一であるということが、問題なのですね?」
果実を取り扱っている店だった。
そこからひとつ、オレンジを手に取る。
「さて、娘御殿。人を増やし、なおかつ人を養うためのめしを増やすためには、どうすればいい?」
「ええと、その」
「必要なのは発想の転換。つまりはずるをすることじゃよ」
「平地でないところを、使う?」
「発想よし。では、人を住まわせる場所と、めしを作る場所。いずれとして使うべきかね?」
「食べ物を作る場所」
「ふむ。具体的には、どういう場所になるかえ?」
「平地でない。山。斜面です」
「正解」
満足げに答え、ご隠居は剥いたオレンジを口に放り込んだ。
「斜面で麦や米は育てにくい。となれば、何を育てる?」
どうしてか微笑んだように見えるご隠居の口元に、ソニアははっとした表情を見せた。
「オレンジやぶどう。つまりは、果樹ですか?」
「おお、よく答えたのう」
「ご隠居が、オレンジを選んでいたので」
「そうじゃのう。ほれ、ご褒美」
その言葉に、ご隠居はもうひとつオレンジを手にして、ソニアに渡していた。そうして店の亭主には、三つ分の代金を手渡していた。
信じられなかった。
簡単な問題とはいえ、勉強が不得意なソニアが、それでもちゃんと受け答えできている。
「基礎はできておるようじゃのう。どこまでのものかと不安じゃったが、杞憂のようじゃ」
「驚いております。ソニアはこういったものは苦手とばかり」
「お言葉じゃが、ご領主閣下。頭ごなしの教育とは、えてして結果を伴わぬものじゃよ。苦手意識を植え付けてしまえば、尚更に」
「植え付ける、ですか?」
「今、ご自身で申しておったではないか。娘御殿は勉学が不慣れじゃと」
ご隠居は口をへの字に曲げて、一歩だけ詰め寄った。
「子どもとは鋭敏なものじゃ。親がこう、と言えば、
言われて、自然と背筋が伸びていた。
それをみとめてか、ご隠居は楽しげに笑っていた。
なんということだ。まこと教わるべきは、教える側の姿勢であったか。
その後もご隠居は、市場のいろいろなものを使いながら、ソニアに対し問いかけ続けていた。自領で作れないものを手に入れるにはどうするべきか。より多くを手に入れるためにはどうすべきか。民が生きるためにはどれぐらいの水とめしが必要か。そのための水はどこから湧くか。
それに対し、ソニアも、ときに悩みつつ、ときに間違えつつも、積極的に答え続けていた。自領で作ったものを他領で売り、それで得た金で違うものを買うこと。作ったものの価値を高めるために加工をすること。水は高いところから低いところへ流れること。最も低い場所、つまりは土の中、井戸を掘ることで水を得ることができること。
それらはすべて、レグレンツィが教えたはずのことばかりだった。
「聡明とまではいかんが、ちゃんとしておるではないか。むしろ伸びしろが大きく、教え甲斐がある。よき生徒じゃ」
いくらかの
「これほど勉学が楽しいと思ったのは、今日がはじめてです」
ソニアもいくらか上気した表情でいた。ほんとうに充実しているように思えた。
その様子を見て、レグレンツィは嬉しくてたまらなかった。
「ご隠居こそ、まことご聡明で寛大なお方でございます。なんとお礼を申し上げるべきか」
「気が早いぞ、ご領主閣下。ひと月でもふた月でもと申しておったではないか。これからもびしばし鍛えていくぞ。覚悟めされい、娘御殿」
「はい、ご隠居。何卒のご指導をお願いします」
「うむ、丁寧で大変よろしい」
そうやって、ご隠居は呵々と笑った。
明くる日。
強くはないが、雨が降っていた。
手配した馬車の中でも、ご隠居は熱心にソニアと語り合っていた。
ソニアもまた、ときに楽しげに、ときに真剣に、それに応えていた。
そしてそのすべては、やはりレグレンツィが教えていたことであった。
それに気付いたとき、レグレンツィの目頭は熱くなっていた。
私は間違ってはいなかったのだ。
ちょっとだけ遠回りをしただけで、ソニアは学んでくれていたのだ。
白亜の巨壁、アンヌツィアタ
無限とも思われるほどの石灰石を敷き詰めた、レグレンツィ家の叡智と努力の結晶。
雨の中、それを眼中に収めたご隠居は、すぐさま口を開いた。
「この
ご隠居の口調は、至って真剣だった。
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