#09《最終話》
駅前のスーパー。
線路沿いの小さな公園。
あの日々をなぞるように、ひとつずつ足を運んだ。
けれど──葵はどこにもいなかった。
焦燥というより、胸の内側がじわじわ凍えていく感覚。
もう遅かったのでは──そんな予感が脳裏をかすめるたび、靴底が鉛に変わる。
そのとき、不意に脳裏へ浮かんだのは、あの廃ビルだった。
すべての発端。
僕と葵が“空気人間”になった場所。
僕は元に戻ってからも、考えごとがあるたびその屋上へ無意識に足を運んでいた。
彼女がそこにいる理由はない。
けれど、他に行き先は考えられなかった。
雨は容赦なく降り、芯まで濡らす。
ほとんど無意識のまま歩を刻み、人気の薄い一角へたどり着く。
雑居ビルの隙間に埋もれた、錆びた鉄骨の建物。
フェンスは相変わらず半開きで、「立入禁止」の文字だけがぼやけて読める。
人影のない階段を上がるたび、靴底で水が鳴り、雨音がコンクリートを叩く。
──屋上。
最後の扉を押しやると、湿った風が頬を打った。
白く煙る街並みが視界の奥で揺れている。
雨脚は衰える気配もない。
そのとき目にとまったのは、給水タンク脇の庇の下。
数匹の猫が身体を寄せ合い、静かにこちらを見ていた。
思わず足が止まる。
こんな雨の屋上で、なぜ──?
餌をもらえると思っているのか?
猫たちの瞳は不思議と落ち着き、あまり警戒しているように見えなかった。
むしろ、誰かを待っているように見えた。
──ちりん。
雨音に紛れ、鈴の音が確かに揺れた。
耳の奥に焼きついた微かな高音。
「……葵?」
呼び声と同時に、鈴の音はぴたりと止む。
「葵! そこにいるのか!」
反射的に駆け出し、声を張る。
庇の下の猫たちが一斉に跳ね、びしゃりと水を散らして四方へ散った。
残るのは雨のしぶきと、気配の境目のような静寂。
姿はない。影もない。
それでも──わかる。
そこに“いる”という確信だけが、胸の奥で静かな灯をともした。
けれど疑問が刺さる。
名前を呼んだのに、どうして葵は現実へ戻らない?
小さな棘のような不安が、ずぶ濡れの胸にひそりと残り続けた。
踵を返し、階段を駆け下りた。
葵に「会う」ため──もう一度。
錆び臭い廊下を突き進み、朽ちた扉を次々開ける。
「……違う、ここじゃない……」
重たい金属音。割れたガラス。埃の匂い。
それらを振り払うように靴音だけが響く。
廊下の最奥。
そこだけ世界が澱んでいるような扉の前で足が止まった。
隙間から吐き出される湿った空気に、何かが“待つ”気配がまとわりつく。
胸の鼓動が徐々に跳ね上がる。
深く息を吸い、ノブを押し下げた。
ギィ……と蝶番が呻き、濡れた風が肌を撫でる。
埃と鉄の匂い。天井の亀裂から落ちる雫が、床に淡い輪を描いていた。
薄闇の奥──給水タンクほどの機械が鎮座している。
むき出しの配線、ざらつく鉄肌。
誰にも求められぬまま残り続けた“孤島”のような姿。
「……これ、なのか」
足が勝手に近づく。
見覚えはないのに、核心だけが胸に灯る。
──観測遮断装置。
僕を“空気人間”にした原因。
一度息をつき、肩で上下する呼吸を整える。
装置の鈍い表面に映る自分の顔が、小さく震えていた。
──もう一度、葵に会う。
その一点だけを胸に、スイッチを押し込む。
カチリ。
直後、風が途絶えた。
空気そのものが停止し、世界が薄い膜越しに遠ざかる。
視界の彩度が剥がれ、音も触覚も希薄になる。
僕の存在が静かに、この世界から抜き取られていく。
装置の金属面を覗く──そこに僕はいない。
さっきまで揺れていた影は跡形もなく消えていた。
怯えている暇などない。
装置から身を離し、屋上への階段へ駆け戻る。
雨音だけが遠くで鳴り、記憶の底に残る残響のように微かに揺れていた。
屋上に踏み出した瞬間、そこに──葵がいた。
雨に磨かれたコンクリートの中心で、
空と地面の狭間に取り残された影のように立ち尽くしていた。
傘は開かず手に垂れ、濡れたまま上空を仰いでいる。
雫が髪を伝い、頬を滑り落ちても気に留める素振りはない。
「……葵!」
呼ぶと、細い肩がわずかに震えた。
ゆっくり振り向き、見開いた瞳が僕を射抜く。
一瞬、息を呑むように強張った顔──信じられないものを見たという表情。
「……なんで」
雨に溶ける掠れ声。
「……なんで、戻ってきたの……?」
指の力が抜け、傘がぽとりと足元に落ちる。
僕は静かに歩を進めた。
足音は雨に呑まれ、近づくたび彼女の表情が細かく揺れる。
「……葵、ごめん」
目の前で立ち止まる。
濡れた髪が頬に貼りつき、呼気に小さく震える。
「ずっと謝りたかった。あのとき……葵の言葉に、ちゃんと答えなかったこと」
「……あのとき?」
「“私なんか、ビジネスパートナーでしょ?”って言っただろ。あのとき、僕は逃げたんだ」
葵は黙って見つめる。
その瞳は怒りでも涙でもなく、ただ真っ直ぐに僕を映していた。
「僕は……葵が好きだ。だから、葵には幸せでいてほしい。
他の誰かとも関わって、いろんな幸せを見つけてほしい」
葵の瞳がほのかに波立つ。
驚きと戸惑い、そして微かな痛みを帯びた色。
「だから……、一緒に帰ろう?」
雨がふたりの肩を同じリズムで濡らす。
葵は視線を落とし、静かに口を開いた。
「……私はもう、誰かと生きていけるような人間じゃないよ。もう、誰も失いたくない。
……そもそも私は、自分であの装置を使って空気人間になったの」
間髪入れず、僕は少しだけ強く返す。
「知ってる。……いや、なんとなくそんな気がしてた」
「葵は、いつもどこかに本音を隠してた。僕にとってはそれが心地よかったし、僕自身もそういうところがあった」
「でも、今はわかるんだ。本音で語り合える人と、本気で向き合っていくことが、どれだけ幸せなのか」
葵は手首のブレスレットに触れ、ぽつりと口を開いた。
「……私、小さい頃よく迷子になってたの。駅でも、ショッピングモールでも。ちょっと目を離すとすぐどっかに行っちゃうの」
「それでお姉ちゃんが、“姿が見えなくても葵だってわかるように”って、この鈴付きのブレスレットをくれたんだ」
言葉が喉で詰まり、唇を噛んで続ける。
「なのに……お姉ちゃんは私を庇って亡くなった。
あんなに優しいお姉ちゃんが、私の代わりに亡くなったの」
葵はふっと笑った。
それは笑顔とは呼べない、痛みを隠すための仮面のようなものだった。
「それからよ。誰かを本気で好きになるのが怖くなったのは。
誰かのために生きたり、誰かが私のために生きてくれるのが怖いの」
「死ぬことも考えた。でもお姉ちゃんに言われたの。“葵だけでも生きて”って。
……だから生きてる。でも、それだけ。もう誰とも深く関わりたくなかった。
だから自分で装置を起動したの。誰にも見つからないように。誰にも……愛されないように」
僕は言葉を失ったまま、雨に濡れる彼女の横顔を見つめた。
その孤独がどれほど深く長く沈んでいたか、胸が軋むほど伝わってくる。
そっと一歩、彼女へ踏み出した。
「それでも葵は、僕を受け入れてくれたよね。
似顔絵で誰かが喜んだときも、保護猫に飼い主が見つかったときも……葵は、自分のことみたいに嬉しそうだった」
「それは──」
「ほんとは、そうなんだろ?
葵は、誰かの幸せを自分の幸せにできる人だ。
お姉さんがそうだったように、葵もそういう人なんだ」
葵は俯き、小さく首を振る。
「……怖いんだよ。
遠くの誰かを助けるのはまだいい。
でも、そばにいる人を本気で幸せにするって、責任が重すぎるよ。……私は、そんな人間じゃない」
「違う」
声に、はっきりと芯を込めた。
「葵がどんなに自分を責めても、僕にはわかる。
葵は優しい。臆病だけど、本気で人を大切にできる」
「……やめてよ、そんなふうに言わないで」
葵の声が雨粒と一緒に震えた。
「ごめん。でも、やめない。
僕もずっと怖かった。人の顔色ばかりうかがって、自分を押し殺して生きてきた。
ひとりのほうが楽だって思い込んでた。
でも……空気人間になって気づいたんだ。
どれだけひとりが好きでも、ひとりじゃ幸せになれないって」
言葉を重ねるたび、雨脚の向こうで葵の瞳が揺れる。
「このまま二人で、誰にも気づかれずに生きることも出来るかもしれない。
でも、それじゃダメなんだ」
「……なんで」
「葵に、ちゃんと幸せになってほしい。
いろんな人と関わって、ぶつかって、笑って──それでも誰かと生きていけるって思ってほしい。
それが、僕の幸せだから」
少し間を置き、さらに言葉を紡いだ。
「それに……お姉さんが遺した“生きて”っていう言葉。
あれはきっと“幸せに生きて”って意味だったんじゃないかな。
だから……葵が苦しんだままじゃ、お姉さんは安心できない」
「過去は変えられないけど、その過去にどんな意味を与えるかは、葵が決められるんだよ」
その瞬間、葵の肩がふっと揺れた。
まぶたにたくわえた雫が頬を一筋伝い落ちると、あとからあとから新しい涙が静かに縁を潤す。
──と、その足元に影が集まった。
さっきまで散り散りに逃げていた猫たちが、雨に濡れた背をすり寄せるように戻ってきたのだ。
一匹、また一匹と近づき、葵のスニーカーについた雫をぺろりと舐め、
名残惜しげにミャッと小さく鳴く。
ポケットの奥を探るような素振りを見せた葵の指先には、
猫たちに分け与えていたであろう小さなカリカリの袋──
「……待ってたの?」
葵が掠れた声で囁くと、猫たちは一斉に尻尾を揺らし、
まるで返事をするように足元へ身を預ける。
その光景を見て、あの子たちに餌をやっていたのが葵だったのだと、ようやく合点がいった。
彼女はそっと視線を伏せ、左手首のブレスレットに指をかける。
濡れた指先でやさしく留め具を外し、それを右手首へ巻き替えた。
「ん? どうしたの?」
問いかけると、葵は瞬きで雨粒を払い、上目づかいに僕を見上げた。
その虹彩は、ほの白い光を受けて淡くきらめいていた。
「……ううん、なんでもない」
少しだけ照れくさそうに笑みを浮かべる。
「蓮也……ありがとう。
私、もう一度ちゃんと生きてみる。
蓮也のことも、天国のお姉ちゃんのことも、私が幸せにする。
それが、私の幸せだから」
言い終えた瞬間、葵の瞳が強い光を帯びた。
頬を伝う涙はいまだ止まらないのに、
その顔には、初めて未来を見晴らす人だけが浮かべる決意の色があった。
あまりにも綺麗で、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
耳朶が熱くなり、頬をかすめる雨粒まで熱を帯びるようだった。
「……ありがとう。」
感情の重みで声が掠れ、それでも自然に言葉がこぼれ落ちた。
耳を打つ水の粒、遠くで揺れる屋上のフェンス──
世界が、しばらくのあいだ呼吸を忘れたように静まる。
足元でふいに、小さな鳴き声が重なった。
葵の足元に集まった猫たちが、濡れた背を寄せ合って彼女を見上げている。
「ごめんね、待たせちゃったね」
葵はそっとしゃがみ込み、ポケットから小さなジップ袋を取り出す。
カリカリを手のひらにのせると、猫たちは遠慮がちに鼻先を伸ばし、
やがて安心したようにカラカラと乾いた粒を噛みはじめた。
撫でる指先にも雨が落ちる。
それでも葵は、一匹ずつ確かめるように頭を撫で、
「偉いね」「おいしい?」と、か細く声をかけていく。
猫たちは満足げに尻尾を揺らし、彼女にまとわりつく雨を気にも留めない。
ふと、葵が顔を上げる。
濡れた睫毛の奥に残る光が、さっきより少しだけ柔らかい。
「ところでさ、どうやって戻るの?」
餌の袋をしまいながら、いたずらっぽく首を傾けた。
「……えっと、どうしよっか」
顔を見合わせた瞬間、ふたりで同時に吹き出した。
笑い声が雨に紛れ、空へ溶けていく。
懐かしい──まるで、あの穏やかな日々の続きを生きているみたいだった。
「そういえば」 と、葵がふと呟く。
「なんで私がここにいるってわかったの?」
僕は彼女の両手を包み込むように取り、そっと持ち上げた。
「──これが、教えてくれたんだ」
手首の鈴が“ちりん”と揺れて、澄んだ音が雨空に解き放たれる。
その瞬間、雲の切れ間から光が差し込んだ。
夕陽が薄紅の光をまといながら降り注ぎ、
葵の濡れた頬を、やさしく染め上げていた。
空気人間2号 カズロイド @kaz_lloyd1620
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