#08

駅前の焼き鳥屋は、開店早々だというのにかなりの熱量だった。

奥から響く中年客の笑い声に、炭火の爆ぜる音が重なり、焦げた煙と鶏脂の匂いが空気に厚みを足している。

奥へ細長く伸びるカウンターには常連らしき背中が並び、壁際に置かれた四人掛けのテーブルが三つ。

剥げた柱や手書き短冊のメニューに、昭和の色がうっすら残っていた。


串を頬張りながら、柊斗が軽い調子で切り込む。


「蓮也、彼女できた?」


久々に会った友達同士のテンプレみたいな質問。

僕は肩をすくめ、笑いを添えて胡瓜の浅漬けをつまむ。


「いきなりだな。できてないよ、相変わらず」


「そっかぁ」

柊斗は残念そうに眉を下げ、串の焦げ目を齧る。


「……なんだよ」


「んー、なんか顔つき変わったなって思ってさ。前より、ちょっとキリッとしたっていうか……」


「そうか? まぁ、いろいろあったからな」


──空気になっていた日々のことは、あえて口にしなかった。

話したところで信じてもらえない気がしたし、それにあの奇妙な時間はもう、夢みたいに思えていた。

記憶も曖昧で、もうどうでもよかったのかもしれない。


柊斗はそれ以上深掘りせず、ビールをひと口。

こちらも取り繕うように話題を変える。


「柊斗は? まだ唯ちゃんと続いてんの?」


ジョッキを置いた彼は小さく頷く。


「うん、まぁな。まだ結婚とかは考えてないけど」


呟きながらおしぼりを手に取り、指先を軽く拭く。


「……ま、今は仕事に集中って感じかな」


「……そっか。なんか頑張ってそうじゃん。インスタ見たよ」


「そうそう。猫の写真がちょっとバズってさ。そこからちょこちょこ依頼も来るようになってきた」


「へぇ……すごいじゃん。エンゲージメントとかどんな感じなの?」


「ん?お前、やけに詳しいな。インスタやってたっけ?」


(ん? たしかに、なんで僕はこんなに食いついてるんだ)

胸の奥に小さな違和感。それを隠すようにジョッキに残ったビールを一気に飲み干す。


「……いや、まあ、ちょっと興味あってさ。……でも、そういうの、なんか羨ましいわ」


「おれもなんか、熱中できるもの見つけたいんだよ。最近、とくに」


「ふーん……」

わざとらしく顎に手を当てた柊斗が、にやりと笑う。


「で、彼女作んないの?」


「いや、今仕事の話してただろ。急に恋愛モードやめろ」


「いやでもさ、好きな子とかもいないの?」


「……いないよ」


言葉と同時に胸の奥で何かが引っ掛かった。

でも、それが何なのか正体は掴めない。


「今、“いる間”だったぞ、お前!」


柊斗が笑いながら、箸でこちらを指してくる。


「いや、ほんとにいないって! 会社と家の往復だし」


柊斗は半信半疑といった表情で、じっとこちらを見つめる。


「ほんとかよ……もし好きな子できたら、ちゃんと報告しろよな」


「……わかったよ」


皿に一本残った焼き鳥を口に運び視線を外す。

壁の古い短冊メニューの掠れた文字に、店が重ねてきた時間が滲んでいた。


そのあとも、他愛のない話を延々と続けた。

同級生の近況、担任が校長になった噂──

絵に描いたような“同窓会あるある”が、ビールの泡とともに弾ける。


なんてことのない会話。

なのに、気を遣わず笑える時間が、ゆっくり心の糸を解いていく。


──こういう夜のために、生まれてきたのかもしれない。


ビールの残り香を胸に吸い込みながら、僕はふと、そんなことを思った。




日常が、するりと戻ってきた。


人と目が合う。声が届き、呼びかけに返事をする──

当たり前のはずの行為が、いまの僕にはまだ少しだけ異国の仕草のように思える。


職場も不思議なくらい元どおりだった。

一年近く無断で姿を消したはずなのに、僕のデスクはぽっかり空席のまま残され、引き継ぎも起こっていなかった。

同僚は「なんか久しぶりな気がするなぁ」と笑い、欠勤理由を深くは訊かない。


「成瀬くん、これ今日中に目を通しといてくれる?」


背後から上司の声。振り向くと、いつもの分厚い資料の束。


「あ、はい……」


受け取った指先に重みが乗る。けれど手は動かない。

モニターのカーソルだけが虚しく瞬き、思考と身体の歯車が噛み合わない。


会議では相変わらず誰かが緊張し、誰かが空気を読みすぎ、誰かが声を張る。

その歯車に再び自分がはめ込まれていく──

はずなのに、気持ちだけが地面から数センチ浮いていた。


──おかしいな。

前はもっと、何も考えずに働けていた気がする。

空気として過ごした時間が長すぎたせいだろうか。

誰の視線も気にしなくてよかったあの日々に慣れすぎて、今は誰かの視線が水を吸った毛布のように、じっとりと重く感じる。

他愛のない雑談も、上司の小言も、やけに“生々しい”。


──でも。

胸の奥が妙に空っぽなのは……なんでだろう。




朝から降り続く細い糸雨が、東京の輪郭をじわじわ溶かしていた。

柊斗とはあれ以来こまめに連絡を取るようになり、今日は彼が仕事で東京に来るというので、昼過ぎに会うことになった。


新宿駅近く、ビルの三階に入ったガラス張りのカフェ。

濡れた歩道を行き交う傘とグレーのビル群が窓越しに揺らめく。

平日の昼下がりらしく、客の大半はノートPCを開いたビジネスマン。

静かでも洒落てもいないこの雑多さが、こだわりのない僕らには逆に馴染む。


「──悪ぃ、待った?」


顔を上げると、柊斗が折り畳み傘をくるくる振り、雨粒を肩に残したまま近づいてきた。


「いや、今来たとこ」


「それ、お決まりのやつな」

苦笑して向かいに腰を下ろす。


「東京、人多すぎ。電車乗るだけで体力削られるわ」


「お疲れさま」


水のグラスを一口 、喉に流し込む柊斗。

メニューも見ずにアイスコーヒーを二つ頼むタイミングは、長年の所作のように揃っていた。


「で?今日はどんな仕事?」


「打ち合わせ一件だけ。せっかくだから蓮也に会おうと思って」


「わざわざありがとな」


「いや、俺のほうこそ。わざわざ有給とったんだろ?」


「どうせ余ってたから、ちょうどよかったんだよ」


「そっか」


それ以上詮索はなく、窓を叩く雨脚がガラスを白く曇らせる。

ちょうど運ばれてきたアイスコーヒーが氷の音を立てた。


柊斗は口をつける前に背もたれへ体を預け、ポケットからスマホを取り出す。


「……そういえばさ、ちょっと見せたいものがあるんだけど」


「なに?」


僕が少し身を乗り出すと、柊斗は苦笑いを浮かべながら画面をこちらに向ける。


「これ、めっちゃ蓮也に似てね?」


表示されたのは、淡い色で描かれた青年の横顔。

緩い癖の黒髪、左右に分けた前髪、垂れ目がちな瞳、その下の小さなほくろ──

最近ようやく鏡の中に戻ってきた自分の顔と、嫌になるほど似ている。


「……え、おれじゃん」

思わず吹き出す。


「だろ? この人の猫のイラスト好きでフォローしてたら流れてきてさ、思わず吹いたわ。“蓮也じゃん!”って」


柊斗は無邪気に笑うが、僕の目は画面に釘付けになった。

あたたかくて、どこか寂しげな色調──見覚えのあるタッチ。


「……もう一回見せて」


スマホを預かり、指で画面を拡大。

線の癖、影のぼかし──胸の奥で小さな鈴が鳴るような引っかかり。


キャプションに目が滑る。


#猫をフグにしてしまう天才画伯


……


指が止まる。プロフィールをタップ。


……


「……あおい?」


小さく漏れた声と同時に、脳裏で封印していた何かが弾けた。


──なんで

なんで、忘れていたんだ。


絹糸みたいになめらかな黒髪。

水晶のように澄んだ大きな瞳。

触れたら雪の欠片みたいに冷たそうな白い肌。

両手で包めるほど華奢な背中。

左手首でほそく揺れていた、小さな鈴のブレスレット。


風に揺れるカーテンみたいなやわらかな声。

眠いときに猫みたいに目をこする仕草。

絵を描くとき、少しだけ唇を尖らせる癖。


その全部が眩しくて、愛おしくて。

体の奥深くに染みついて離れない。


出逢った日に作ってくれたトマトソースのパスタ。

ふたりで通った中野のスーパー。

肩を並べて歩いた吉祥寺の保護猫施設。


何でもない日々だった。

けれど確かにそこにあった、小さな光景がいま一気に胸へ押し寄せる。


……全部、全部、大切な記憶なのに。

僕は、なんで──


「……おーい」


遠くで誰かが呼ぶ。


「おい、蓮也!」


耳の奥で声が近づき、重なる。


「って、ちょ……聞いてる? おーい!」


はっとして顔を上げると、目の前に柊斗が焦った顔で覗きこんでいた。

手の中のスマホをそっと置く。


「おまえ、急に固まってどうしたんだよ。俺なんか変なこと言った?」


「……いや、違う。ごめん、ちょっと」


心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅く脈打つ。

あの声と笑顔が、頭の中で繰り返して止まらない。


──行かなきゃ。


理由も理屈もいらない。

ただ、もう一度あの人に会わなくては。


財布から千円札を取り出し、テーブルに押し留める。


「え、ちょ、蓮也?」


「ごめん、行かなきゃ。ほんとごめん!」


椅子を跳ね除け立ち上がり、鞄を掴んで走り出す。

ガラス張りのフロアを視線も定めず駆け抜けた。


「おい! 蓮也! 傘は──!」


背後の声に片手を挙げて応える。「大丈夫」とだけ示して吹き抜けのロビーへ。

エスカレーターを二段飛ばしで駆け降り、雨気を帯びた街へ飛び込む。




中野駅の改札を抜けた瞬間、風に乗った雨粒が頬を刺した。

傘はない。傘を思い出す余裕もなかった。


アーケードを抜け、濡れた歩道をひたすら走る。

水たまりを踏むたびズボンの裾が重く、まぶたに残る水滴が視界をぼやけさせる。


胸に蘇る、あの言葉。


「私なんか、ただの“ビジネスパートナー”でしょ……?」


──違う。

あのとき「違う」と言った。けれど、それだけだった。

ほんとうの気持ちは何ひとつ伝えられなかった。


呼吸は乱れ、肺が焼けるように痛む。

それでも足は止まらない。


「蓮也は戻ったほうがいいよ」


静かな諦めの声が耳に刺さる。

僕に戻り方を教え、ひとりで消える覚悟を滲ませた声──。


「……葵」


雨音にまぎれるほど小さく名前を呼んだ。

祈りのようで、懺悔のようで、願掛けのような声。


僕は雨を切り、ただあの扉の向こうを目指して走る。

たったひとり、もう一度会いたい、あの人のために。




雨脚は勢いを増し、針の束のように顔を叩いた。

あの部屋まで、もう数十メートル。

息は荒れ、脚は鉛のように重い。それでも体の深部で回り続ける小さなモーターが、前進を許す。

外装が軋んでも止まらない古い掃除機のように。


階段を跳ねるたび、スニーカーに染みた雨水が冷たさを広げ、足先の感覚が遠のく。


──お願いだ、どうか、まだここにいてくれ。


胸の奥で呟きを反芻しながら、ついに彼女の部屋の前へたどり着いた。


見慣れた扉。

雨粒を運ぶ風が薄暗い廊下を横切り、コンクリートの匂いが濃く湿る。

まるで何事もなかったかのように、あの頃の続きがそこにあった。


だが立ち止まった途端、胸裏に不安が滲む──

本当に彼女はまだいるのか。

名前を呼べば応えてくれるのか。

それとももう、二度と……。


息を震わせながらインターホンを押す。


──ピンポーン。


もう一度、強く。


──ピンポーン。


……何の反応もない。


「……葵?」


扉に頬を寄せ、室内の気配を探る。

雨の音だけが耳へ流れ込み、何も返らない。


不安を噛み潰し、ドアノブを握る──回らない。

内側から確かに施錠され、ぴたりと拒まれた。


……いないのか?


いや、もしかしたら。

この向こうで彼女は息を殺し、ただ世界から目を伏せているだけかもしれない。


もし葵が今そこにいるのなら──


「……葵」


祈るように、もう一度、そっと名前を呼ぶ。


それでも、返ってきたのは雨音だけだった。



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