#07

扉が閉まると同時に、蓮也の気配が部屋からふっと抜け落ちた。


「行きたきゃ行けばいいじゃん……」


葵は、自分が放った言葉を何度も頭の中でなぞっていた。

数分経ったはずなのに、あの声がまだ耳に残っている。

自分でも驚くほど冷たかった。


ローテーブルに開いたままのスケッチブック。

鉛筆の先は中途半端に宙を切り取り、描きかけの線だけが取り残されている。

頼りない鉛筆の影が、いまの自分と重なって見えた。


「……ばか」


ぽつり転げたひと言は蓮也に向けたはずなのに、真っ先に自分を刺してくる。

葵はスケッチブックを閉じ、クッションへ身を投げた。

夕陽に染まる天井が生成色に滲み、まぶたを閉じても、蓮也の横顔が消えない。


(実家に帰る……、か)


言葉だけ聞けば、なんてことない話だ。

ほんの一日、家族の顔を見に帰るだけ。

それだけのはずなのに──


あのとき、胸の奥がざわついた。


──私には、帰る場所なんてもうない。

家も、家族も、この世のどこにも存在しない。

ずっと分かっていたことなのに、最近はあまり考えることもなかった。

たぶん、蓮也がいたからだ。

彼が話しかけてくれて、笑ってくれて、気づけば当たり前のように同じ部屋にいて──

それが、私の孤独をうまくぼかしてくれていたんだと思う。


そのまま、しばらく目を閉じていた。

眠ってしまうには早すぎる時間だったが、起き上がる理由もすぐには見つからなかった。

でも、いつまでもこうしているわけにもいかない。


葵はクッションから体を起こし、キッチンへ。

ケトルに水を張り、スイッチを押す。

マグにココアパウダーを落とし、湯の沸くあいだ流しに寄りかかって無心で水面を眺めた。


カチッ。

湯が沸いた音で我に返り、スプーンでゆっくりココアを混ぜる。

甘い香りが立ち上がり、ようやく少しだけ頭が動いた。


再びクッションに腰を沈め、スプーンで無意味に円を描きながら一口啜る。

甘さは控えめだったけれど、悪くはなかった。


最後のひと口を飲み干すと、葵はマグを持ってふたたびキッチンへ向かう。


シンクには何もない。洗いかごもほとんど空。


マグカップひとつを流しに置き、スポンジで内側をくるくると洗う。

“何かを洗う”のではなく“手を動かす”ために手を動かしている──そんな感覚。


水気を切り終えると、部屋の音がすっと遠のき、静寂だけが背中に貼り付いた。


少し迷って、スーパーへ出掛けることにする。

ジャージのパンツを脱ぎ、デニムに穿き替える。

脚にまとわりつく生地の重みが、気持ちを外に連れ出そうとしているようだった。

着ているロンTの上から、グレーのパーカーを羽織る。

エコバッグをポケットに押し込み、玄関へ向かう。


キーリングを掴み、スニーカーの紐を軽く締める。

無表情のドアノブを見つめ、呼吸を整え、思い切って扉を押した。




買い物を終え、簡単な夕食を済ませたあと、葵は静かにバスルームへ向かった。

髪をほどき、シャワーで全身をゆっくり洗い流す。

泡立てた指先が首筋をなぞり、肩をすべり、脚のすみずみへ。

流れる湯が少しずつ体温を高くし、皮膚の感覚が遠いところから戻ってくる。


髪を束ね直し、膝を抱えるように湯船へ沈む。

胸元まで湯が触れた瞬間、ふっと息が抜けた。


湯気に霞む視界。

水面がわずかに揺れ、体がゆらゆらと呼吸に合わせて浮き沈みする。

膝頭が上下し、白い肌の下、青い血管がうっすらと浮かんでいた。


──なんで今、自分の身体ばかり見ているんだろう。


そう思いながらも目は離せなかった。

鎖骨の窪み、乳房の輪郭、指の関節──何ひとつ変わらないはずなのに、

今夜の自分は、泡みたいにぼやけて見える。


──明日、蓮也が帰ってくる。

たった一日の帰省なのに、遠くへ行ってしまう予感が胸を締める。

映画の序盤で唐突に訪れる別れのシーンのように。


──もし、「戻りたい」って言い出したら、

そのとき自分は何を返すんだろう。

いや、きっともう「戻りたい」って思ってるんだろうな。


「……蓮也……」


名前をこぼしただけで、目の奥が熱く滲む。

頬を一筋の涙が伝い、湯の中へ溶けた。


──もう、泣くことなんてないと思っていたのに。

泣くような自分は、もう終わりにしたつもりだったのに。

涙は、止まってくれなかった。


ひとしきり泣いたあと湯船を出て、バスタオルで身体を包む。

パジャマに着替え、灯りを点けずにベッドへ倒れ込む。


白い天井を見つめ、深くも浅くもない呼吸を続ける。

温もりがじわじわと抜け、肌の温度が現実へ戻っていく。


──もし蓮也が「戻りたい」と言うなら、止める理由はない。

本当のことを、話さなきゃいけない。

……でも、どこまで?

すべてを話してしまったら、蓮也は私を放っておいてくれないかもしれない。

……いや、何を考えてるの、私は。うぬぼれるな。

私はひとりで生きていく。そう決めたはずなのに。

なんで今さら、誰かに大事にされたいなんて思ってるの。


葵は目を閉じ、息を整え、再びまぶたを開いた。


……戻る方法を、ちゃんと話そう。

おじいちゃんの実験のことも。


頭の中で繰り返しシミュレーションする。

何を伝えるか。どこまで話すか。

どこから話せば、蓮也はちゃんと理解してくれるだろうか。


何度も同じ道を行き来しながら、言葉はまだ形を結ばないまま、夜がゆっくりと深さを増していった。




いつの間にか窓辺で鳥が囀りはじめ、カーテン越しの光が薄く壁を撫でていた。

眠れないまま、朝が来た。


葵はゆっくり身を起こし、ぼんやりしたままキッチンへ。

戸棚からマグを取り出し、いつもと同じようにケトルを沸かす。


甘いものを受けつける気分ではなく、お湯だけを注いで唇を湿らせた。

今日は蓮也が帰ってくる──そう思っても、胸の奥に沈む石は動かない。

深呼吸をするたび、その石がわずかに揺れて腹の底へ沈んでいく。


空になったマグをテーブルへ置き、クッションを枕に横たわる。

“何をどう話すか”をもう一度整理しようとしたが、まぶたを閉じた瞬間、思考がふっと遠のいていった。




目を開けると部屋がほんのり明るい。時計はまもなく正午。

髪をまとめ、クローゼットからロンTを出して着替える。

洗面所で冷たい水を浴びせると皮膚がきゅっと収縮し、少しだけ意識が定位置に戻った。


──もうすぐ蓮也が来る。


「……ちゃんと話そう」


小さく漏らした声は、部屋の中でふっと溶けた。


その直後──

「ピンポーン」と、呼び鈴が鳴る。


思ったより早い。胸が跳ね、足が一瞬止まる。

昨日の自分が放った冷たい言葉の余韻が、今さら熱を持ち始めていた。


息を吐き整え、鍵を外し扉を開ける。

そこにいたのは、少し緊張した顔の蓮也だった。

逆光でぼんやりと霞んだその姿が遠くに感じられて、思わず視線が止まる。


「……おかえり」


動揺を悟られないよう、なるべく感情を乗せずに声を発した。


「ただいま」


蓮也が靴を脱ぐ間、葵はクッションに座った。

窓の外をぼんやりと眺めながら、切り出すタイミングを測る。


「……帰省、どうだった?」


自分でも驚くほど変なタイミングになった。

気まずさを少しでも薄めたかったのかもしれない。

あるいは、早く蓮也の気持ちを聞きたかったのかもしれない。


「うん。元気そうだったよ、父さんも母さんも」

少し驚きながら答えた。


蓮也は壁際に腰を下ろし、視線を落とした葵を見つめる。


「物置みたいになった僕の部屋に、ランドセルがあってさ。

両親はもう僕を覚えてないはずなのに──なぜかそれだけは残ってた」


一息つき、言葉を探すように続ける。


「……それ見たとき、ちょっとだけ思ったんだ。

“元に戻りたいかも”って。……普通の生活に」


胸の奥で石がひときわ重く揺れる。

──やっぱり。きっと、そうだと思ってた。


葵はゆっくり顔を上げ、まっすぐに蓮也を見つめた。


「私……戻る方法、知ってるよ?」


蓮也は驚きで身体を固め、言葉を失ったまま葵を見つめていた。


「え……何、それ。いきなり」

かろうじて絞り出した声には、戸惑いが色濃く滲む。


「戻る方法。ちゃんとあるの。……戻りたいんでしょ?」


自分の声が思いのほか落ち着いていることに葵は気づく。

──このまま感情的にならず、論理的に終わらせよう。そのほうが、きっとお互いを傷つけずに済むから。


「……うん、まあ」

蓮也は視線を逸らさず、それでいて確信を曖昧に隠す頷きを返した。


葵は一瞬だけ俯き、始めの言葉だけを心の中でなぞったあと、ゆっくりと口を開いた。


「……私のおじいちゃん、科学者だったの。もう十年くらい前に亡くなっちゃったんだけど──」


量子観測、記憶と存在の関係──

何度も頭の中で繰り返した説明を、丁寧にひとつずつ言葉に変えていく。


「ちょ、ちょ、ちょっと待って。それ……何の話?」


蓮也の動揺が表情から溢れ、葵の胸に小さな波紋を投げる。

眉をわずかに寄せて制しながら、ペースを崩さないように続けた。


「いいから。……聞いて」


蓮也は息を呑み、静かに頷く。


葵は押し入れで見つけた埃まみれのノートと設計図のことを話し始める。

“誰にも話しかけられず、誰の目にも触れず、思考だけと向き合いたい”──

祖父が書き残した孤独な願い。


中学生の自分には意味不明だった文字列。

だが大人になり、改めて読み返したとき浮かび上がる輪郭──


「“観測遮断装置”」


存在が“認識”から切り離され、世界からふっと抜け落ちる仕組み。


蓮也の瞳に恐れと困惑が重なり、言葉の余白がじわり広がる。


「……つまり、この世界では“最初から存在していなかった”ことになるってこと?」


葵は小さく頷く。


バッグも服も見えなくなる理由は祖父のノートにも明確でなく、

“認識されるものは徹底して断たねばならない”という一節だけが呪いのように残っていた。


並んだ沈黙のなかで互いに自分の手を見下ろす。

震える指先が“ここにいる”感覚と“ここにいない”感覚の綱引きをしている。


「……でも、葵には見えるじゃん。僕のこと」


「うん。私たちは観測の軸がずれてる者同士だから、同じ“観測層”にいるの……なんていうか、VRの空間に入ってるみたいなものかも」


説明しながらも、葵は自分の言葉が追いつかずに荒い息を潜める。

それでも“わかってほしい”という願いだけが、語尾の震えをつないでいた。


「……でも、どうして僕が」


蓮也がうつむき、搾り出すようにこぼした声──

葵の耳には、それが姉を失った夜、自分の喉を掠れさせた声と重なった。


(お姉ちゃん……どうして、私なんか)


夕暮れの病室。

「葵だけでも、生きて」

あの言葉と微笑みが、今もまぶたの裏に焼きついている。


「僕は、確かに……自己主張が得意じゃなかったし、人の顔色をうかがってばかりだった……。

でも……それと、こんな装置になんの関係があるんだよ……」


葵は喉元まで込み上げた記憶を呑み込み、落ち着いた声で答える。


「ないよ」


「……え?」


「蓮也、あのとき──駅裏の廃ビルに行かなかった?」


蓮也の瞳孔がわずかに開く。


「……なんで、それを」


やっぱり。

心の中でそう呟いた。


「そこにね、装置があるの。おじいちゃんが、誰にも言わずに研究してた場所」


「まだ試作機だったから不安定で……いろいろ欠陥もあって。

たぶん、蓮也がいたときに、たまたま作動しちゃったんだと思う」


部屋に、エアコンの低い唸りだけが残る。


「……じゃあ、僕が“空気を読みすぎたから”とか、“自己主張しなかったから”とか──あれ、嘘だったんだ」


そのとき葵は、自分がまだ謝っていないことに気づいた。

──嘘をついたら謝る。そんなの小学生でも分かるはずなのに。


「……うん。ごめん」


「なんで……なの」


「……ごめん」

言葉はそこまでしか届かない。蓮也の瞳をまっすぐ受け止めることもできず、視線が床に落ちる。


「じゃあ……葵も、その観測なんとか装置で空気になったってこと?」


「うん。私は、おじいちゃんのノートを読んで……つい気になって見に行ったの。そしたら、蓮也と同じように、装置が作動して」


喉が再び詰まる。


──ああ、まただ。

また……嘘をついた。

次第に自分が何をしたかったのか、何を伝えるべきだったのかが曖昧になっていく。

感覚だけは、もう必要なことは全部話してしまったようだ。


蓮也は黙ったまま葵を見据える。


「……わかった。じゃあ、どうやって戻るの」


声に混じる焦燥が空気をざらつかせる。

葵は一度瞬きをして呼吸を整え、静かに口を開いた。


「……誰かに、名前を呼ばれること」


「え?」


蓮也が、拍子抜けしたように声を漏らす。


「ノートに書いてあっただけで、絶対とは言い切れないんだけど……

現実の世界で、ちゃんと“その人だ”って認識されたうえで名前を呼ばれると、観測の軸が引き戻される。そんなふうに書いてあったの」


「……認識されたうえで、ってことは……ただ名前を呼ばれるだけじゃダメなの?」


「うん。相手が蓮也のことを“思い出して”、ちゃんと“そこにいる”って信じてくれて──そのうえで、名前を口にしてくれないと」


蓮也の肩が落ちる。


「……そんなの、不可能じゃん」


──何か言わなきゃ。

でも、何を?どう言えばいい?


葵の頭には言葉が渦巻くだけで、口は動かない。


空気が重く沈む──そして蓮也はゆっくり立ち上がった。


「……今からその装置、ぶっ壊しに行ってくるわ」


「ダメ!」


自分の声が弾け、頭の中の言葉の渦を吹き飛ばす。


「そんなことしたら……観測の軸がぐちゃぐちゃになるかもしれない。

私たち、存在ごと消えるかもしれないのよ」


「じゃあ、どうしろって言うんだよ!」


怒声に混じる震えは、怒りというより不安からくるものだった。

葵は必死に言葉を継ぐ。


「……でも蓮也は、ランドセルが残ってたでしょ?

それって、記憶の“核”がまだ残ってるってことなの。だからきっと……ちゃんと戻れる。思い出してもらえる方法があるはずだよ」


「じゃあ僕が戻ったら、僕が葵の名前を呼ぶ。それで一緒に──」


「無理よ」


揺るがない声で遮りながら、胸の内側が軋む。


「蓮也が普通の人間に戻ったら……私のことは全部忘れる。名前も、顔も、一緒にいた時間も」


言いかけた蓮也の言葉が途切れる。

その瞳は、決して掴めない何かを追うように宙で彷徨った。


「じゃあ一緒に戻ろう。僕がなんとかするから……」


「……私は、戻らない」


「……なんで?」


葵は答えようとしたが、言葉より先にじわりと涙が滲んだ。

それをごまかすように視線を外し、小さく息を整える。


「私は、もう三年もこれだし……このままで平気だから」


「そんなの嘘だろ。葵だって──」


「蓮也は戻ったほうがいいよ」


「ちゃんと帰る場所があるんだから」


葵は無理に笑顔を形づくる。

その頬を一筋の涙が伝っていたが、葵は気づかないふりをした。


「……でも、そんなの……」


何かを言いかけて、蓮也が一歩踏み出す。


「でも、僕は……葵と一緒に……!」


その瞬間、心の中で張り詰めていた糸がぷつりと切れた。


「もう……放っておいてよ!」


今まで耐えて、黙って、笑って誤魔化してきた感情が涙になり、一気にあふれ出す。

堰を切った濁流のように、どろどろと流れ出して止まらない。


──こんなに泣いていたら、また蓮也に優しくされてしまう。

優しくされればされるほど、自分の孤独を、また蓮也に埋めてもらおうとしてしまう。


……もう、優しくしないで。

本当は、そう言おうとしたのに──


「私なんか、ただの“ビジネスパートナー”でしょ……?」


葵の口からこぼれたその声は、攻撃でも敵意でもなく、“これ以上傷つかないため”に投げた防壁だった。


「……違う!」


まっすぐ返ってくる蓮也の声。

けれど、その先の言葉は続かなかった。


葵は視線を伏せ、蓮也の姿を映さない。


──昨日から、あんなに時間をかけて言葉を選んだのに。

どうして、こんなふうになってしまうんだろう。

私は、ひとりで何をしていたんだろう。

なんだか、自分がバカみたいに思えた。


選び抜いたはずの言葉が粉々に砕け、残骸だけが胸に刺さる。


蓮也が立ち上がる気配。

部屋の空気が薄く冷え、扉の隙間から白い光が差し込んだ。

舞台のスポットライトのように、そこだけが浮かび上がる。


淡い光の中に、蓮也の背中が吸い込まれていく。


思わず、葵の手が伸びた。


──ちりん。


ブレスレットの鈴が澄んだ音を鳴らし、手が止まる。

葵は細い指で鈴を包み込み、瞳を伏せた。


「……お姉ちゃん」


消え入りそうな呟きが、静かな部屋に沈んだ。



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