#06
──柊斗のインスタを開いたのは、たぶん半年……いや、一年ぶりかもしれない。
アカウント名は相変わらず「shu_to_photo117」。
変わっていない。でも……なんでフォロワー4万人もいるんだよ。
しかもプロフィールには、〈人と猫と風景の写真。お仕事依頼はDMで〉って。
……プロかよ。
スクロールしていくと、猫。
桜。
また猫。
たまにカフェラテ。
いや、どこだよここ。背景ぼかしてるから全然わからん……って、あった。
カップの脇にかすかに映っている店名── 『喫茶モナカ』。
検索、検索……
徒歩圏内だ。たぶん、ここに通ってる。
──柊斗とは中学・高校と同じだった。
柊斗は、僕みたいにガッツリ陰キャというわけでもなく、かといって陽キャという感じでもない。
その間をうまく橋渡しできる一番器用なタイプだった。
自主性のない僕のことを、なぜかいつも引っぱってくれた。
「蓮也って、怒ったことある?」
「……え、なんで」
「いや、いつも“わかるわかる”って笑ってるから。たまには“それムカつく”って言えよ」
そんなふうに、僕の感情を引き出してくれる存在だった。
不思議と彼の前では素直になれた。
高校を卒業し、僕は上京して大学へ。
柊斗は地元に残り、専門学校を経て今はフリーのカメラマン。
SNSで近況を知ったとき、正直ほっとした。彼は彼で人生を前へ進めているんだな、と。
──でも、最後に会ったのはもう何年も前だ。
「久しぶりに友達を誘う」なんて、僕にはハードルが高すぎた。
社会人になってからは一度も会っていない。
それでも柊斗は、僕が“素を見せられる”唯一の相手だった。
もし彼に届かなければ、もう手立てはない。
僕は──最後の望みに賭けるしかなかった。
「……やっぱり、ここだ」
『喫茶モナカ』は想像以上にこぢんまりとして、街の風景に溶け込みすぎるほど溶け込んでいた。
目立たない木製看板。チョークで書かれた〈本日のコーヒー〉。
確かに、写真に映っていた店だ。
ドアを押すと、小さな鈴がカラン、と鳴く。
客はぽつぽつ数人。まだ夕方には早いせいか空気ものんびりしている。
入口が見える隅の席へ腰を沈める。
もちろん、注文はできない。ただ“いる”しかない。
──その日、柊斗は現れなかった。
翌日も、来なかった。
さらに翌日も。
朝に行き、夕方にも覗き、次の日は昼だけ、また別の日は閉店間際に立ち寄る──。
それでも、どの日も柊斗の姿はなかった。
僕は相変わらず「客」ではなかった。
コーヒーを注文することもなく、誰とも言葉を交わさぬまま、ただ席に溶け込んでいる。
時間だけが、少しずつ削れていく。
じわじわと胸に滲む焦り。
このまま、もし柊斗が来なかったら……どうする?
彼が別の店に通うようになっていたら?
そもそも、僕のことなんてもう思い出さないかもしれない。
「……いや、違う」
首を振り、思考を切り替える。
ただ待つだけじゃダメだ。
“空気人間”には、“空気人間”なりのやり方があるはずだ。
視界の端で紙ナプキンがふわりと揺れた。
カトラリーと一緒に無防備に置かれた一枚。
僕はそれをそっと取り上げ、テーブルの陰に身を寄せる。
震える指でペンを握り、インクが滲む前に一気に書き上げた。
──明日の17時、“きのこ公園”に一人で来い。
来なければ、お前のインスタ「shu_to_photo117」を乗っ取って、
ユーザーネームが初恋のあの子の誕生日だってことをバラす。
──蓮也
……我ながら、ひどい脅迫文だ。
“きのこ公園”は川沿いにある小さな公園で、中央に巨大なキノコの遊具がある。
放課後、僕らはそこで悩みや夢をこぼし合った。
それにしても、初恋の女の子の誕生日をユーザーネームに据えつづけるのは普通にキモい。
もう意味もなく使っているだけだと思うが、知らない人が聞いたら完全にストーカーだ。
たぶん、知っているのは僕だけ。だからこそ、この文面は柊斗にとって冗談では済まないはず──。
そのときだった。
──カラン、とドアベルが鳴る。
入ってきたのは、黒いキャップを目深に被ったガタイのいい男だった。
色褪せたネイビーのスウェットに、右肩にかけたリュック。
キャップの影から、きりっとした眉と伏し目がちな目元が覗く。
整った顔立ちなのに、気取ったところはまるでない。
ちょっと無精ひげが伸びていたり、スウェットがくたびれていたりするせいか、話しかけづらさはないけれど、ひとりで完結している空気がある。
──柊斗だ。
何も変わっていないようで、でもどこか引き締まった印象がある。
彼は店内をさっと見回すと、迷いなく奥の席へ向かい、リュックを置いた。
──僕が予想していた、あの席だ。
すぐにカウンターへ向かう。
注文するつもりだ。今しかない。
僕はそっと身を起こし、足音を殺して席へ近づく。
ナプキンをテーブルに残し、カトラリーボックスで端を押さえる。
息を詰め、泥棒のような足取りでもといた席へ戻った。
たぶん、顔まで泥棒になっていたと思う。
アイスカフェラテを受け取った柊斗がゆっくりと席へ戻ってくる。
氷でかさ増しされたグラスを見つめながら、慎重な足取りで。
──あと三歩。
彼の足がぴたりと止まった。
テーブルの上、一枚の紙ナプキン。
「……ん?」
ナプキンを手に取り、視線が文字をなぞる。
訝しげだった眉が、一瞬で凍りつく。
もう一度、丁寧になぞるように読み返す。
指先がわずかに震えた。
柊斗は顔を上げ、周囲を見回す。
警戒と戸惑いが交錯する瞳。
けれど僕の姿を捉えることはできない。
それでも、その表情には確かに引っかかりがあった。
忘れていた何かを、必死に探るような──そんな顔。
……僕が、そう信じたいだけかもしれない。
だがその微かな“反応”があった事実だけで、胸の奥で消えかけていた希望が、また息を吹き返した。
──翌日。
空は厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうでいて泣かない。
まるで感情の出口を探しあぐねる子どものような空模様だ。
“きのこ公園”のベンチに腰を下ろし、赤と白のまだら模様のキノコ遊具を見つめる。
塗装は剥げ、錆が滲み、僕らが通っていた頃よりずっと年老いて見える。
それでも、登校時間に合わせて見守ってくれる地域の老人のように、ここに在り続けていた。
昼下がりの公園は静寂に沈み、遠くの保育園からこぼれる子どもの声だけが時折風に乗って届く。
17時まで、あと10分。
──本当に来るだろうか。
もし信じてもらえなかったら?
……いや、昨日の表情は、確かに何かを掴みかけていた。
僕の名前を、頭のどこかで思い出しかけたような──そんな目だった。
あと5分。
時間が息を潜め、風も様子を伺う。
昨夜書いた手紙を握り、折り目は柔らかくすり減っている。
言葉は暗唱できるほど刻み込まれているのに、まだ足りない気がして胸がざわめく。
膝上で組んだ手に力を込める。
ひんやりした空気が袖を揺らすのに、額には汗が滲んだ。
17時。
その瞬間、砂利を踏む小さな音が聞こえた。
木製フェンス沿いの通路から、ゆっくり歩を進める影。
現れたのは──
カメラでも、キャップでもなく、ごみ拾い用トングを手にした小柄な老人だった。
……ちがう。
じいさん、今じゃない。
ごみ拾いをしているだけの老人に、「今じゃない」と文句を言うのもどうかと思うが、
コントのようなタイミングで現れたその姿に、思わず敵意にも似た感情が湧いてしまった。
老人は僕の存在に気づかぬまま、キノコと僕のあいだを横切り、静かに去っていった。
膝上に置いた手から、ふっと力が抜けた。
だけど、胸の奥で鳴っていた鼓動はまだ収まらない。
──それから10分。
公園は相変わらずひっそりとしている。
空も風も変わらないのに、時間だけが重さを増していく。
視線の先で年老いたキノコがじっと佇む。
──そういえば、あれでよく遊んでたな。
中に誰かが入っているときに、上に飛び乗ると「ドーン!」とものすごい音が響く。
びっくりして飛び出してきたやつを見て、みんなで爆笑したっけ。
今やったら、たぶんへし折れる。
いや、その前にこっちの膝が先にいかれるか。
そんなことを思い出して、ひとり苦笑いが洩れた。
──ほんと、くだらない遊びばっかしてたな。
でもあの頃のくだらなさは、確かに宝物だった。
手の中の手紙を見つめる。
……来るかな。
風がわずかに強くなり、木々がざわめいた。
──あと数分で17時半。
遠くで車のクラクションが一度だけ鳴り、再び静けさが降りる。
僕は息を大きく吸い込み、キノコ横の小さな砂場へ視線を滑らせた。
誰かがつくった半壊の砂山。
景色だけが、時間に取り残されたように静かだった。
──もう、来ないのかもしれない。
そう諦めかけた刹那、背後で
ザッ──。
砂利を踏みしめる、やや重たい足音がした。
ゆっくりと振り返る。
──いた。
黒いキャップを深く被り、色褪せたネイビーのスウェットに、右肩にかけたリュック。
昨日とまったく同じ格好だ。
胸の奥で固い音が弾ける。
──そうだ、柊斗はいつもこうだった。
時間ぴったりに来ることなんて、ほとんどなかった。
「ギリギリがいちばんスリルある」なんてくだらない理屈を並べて。
……いや、余裕で遅れてんじゃん。
思わず小さく息が漏れる。
柊斗は両手をポケットに突っ込んだまま、フェンス沿いを淡々と歩いてきた。
カメラもスマホも持たず、ただ足取りだけが目的地を知っている。
──来た。
ちゃんと、来てくれた。
歓喜より先に、指先の血が引く。
届くかもしれない。
いや、届かないかもしれない。
その狭間で心が鷲づかみにされ、身動きが取れなくなる。
静かに立ち上がり、ベンチに置いた手紙へ視線を落とす。
一度だけ深呼吸──そして待った。
柊斗はキノコの前で立ち止まり、見上げ、口角をわずかに揺らした。
──覚えてるんだな。
あの、上から飛び乗って中のやつを驚かせるっていう、くだらない遊び。
柊斗もよくやってた。笑いながら、真っ先に。
そのタイミングで手紙を風に預ける。
ふわり、と浮き、ゆっくり舞い落ちて柊斗の靴先、わずか数十センチ手前。
彼の体が強張る。
落ちてきたというより“現れた”かのような反応。
警戒して半歩退き、視線を紙に縫い付ける。
……まぁ、そりゃそうか。
わけのわからない脅迫文に従って公園まで足を運んだら、
誰もいないのに、いきなり足元に手紙が落ちてくるんだもんな。
僕だって、ビビる。
やがて彼は小さく息を整え、前屈みになって紙をつまみ上げた。
熱いレトルトカレーでも扱うみたいに指先を収縮させながら──。
折り目をなぞり、静かに読み始める。
僕は息を潜め、その様子を見守った。
──読んでくれ。
届いてくれ。
あの日の、あの言葉の続きを、どうか。
──柊斗へ。
急にこんな手紙を読ませて、ごめん。
でも、どうしても柊斗に伝えたいことがあるんだ。
たしか、高校二年の冬だったと思う。
この“きのこ公園”で、「将来、何がしたいか分かんない」って、柊斗に相談した時のこと、覚えてる?
進路希望調査が始まって、周りの友達がどこの大学に行くとか言い出した頃、僕は全然わからなくて、焦ってた。
柊斗はもう、専門学校に行くって決めてたよね。
それでも、僕の話をちゃんと真剣に聞いてくれて。
「大学はよくわかんないけど、蓮也は信用できるやつだと思うけどなー」
って笑いながら言ってくれたの、今でも覚えてる。
「周りに合わせてばっかだけど、卑怯な感じはしない。なんか、本気で周りのことを考えた結果、そうなってる気がする」
って。
あのとき、すごく救われたんだ。
なにか劇的に変われたわけじゃないけど、その言葉のおかげで、完全に自分を見失わずに済んだ気がする。
……とはいえ、いろいろあって、今の僕は“自分の姿”すら見失ってしまってるんだけど。笑
それでも、僕は、今ここにいる。
だから、思い出してくれ。
この場所で、
くだらない話をしたり、
真面目な話をしたり、
なんでもないことで笑い合ってた──
成瀬蓮也のことを。
……それだけ、伝えたかった。
ありがとう。
そして──どうか、僕の名前を呼んでくれ。
──蓮也
柊斗は読み終わっても動かなかった。
視線は紙の上、肩も指先も微動だにしない。
──届いてない?
胸の奥で小さな氷が軋む。
けれど次の瞬間、紙を握る手がわずかに震えた。
微かな反応。そのひと揺れが、消えかけた火種に空気を送る。
まだ終わっていない──そう思わせるには十分だった。
「……柊斗、頼む。蓮也って、言ってくれ……」
祈るような声が風に溶けた瞬間、柊斗の肩がびくりと震えた。
「……え?」
小さく漏れた声。
彼はゆっくり顔を上げ、視線を彷徨わせる。
姿は見えない。けれど耳は確かに僕を捉えている。
両親のように完全に取り乱してはいない。
ただ、いま目の前の現象に脳が追いつかず戸惑っているだけだ。
間髪を入れず、言葉を投げる。
「なあ、柊斗──」
「中学の修学旅行の夜、覚えてる?」
「先生が見回りに来た瞬間にお前が屁こいてさ。
みんな必死で寝たふりしてたのに爆笑して台無し。
でも先生も笑っちゃって、結局怒られなかったろ?
……あのタイミング、マジで天才だったわ」
柊斗の眉がわずかに動く。
僕は祈るように畳み掛ける。
「それとさ──中一の球技大会、覚えてるか?」
「バレーボールで柊斗がスパイク空振りしてさ。
なのに、ボールが顔面に当たってそのまま得点入ったやつ。
あれ、担任が一番笑ってたよ。“体張ったファインプレーだ!”とか言って、勝手にMVPにされてたし……」
「……柊斗ってさ、担任を笑わせる才能、抜群だったよな」
言いながら、自分でも気づかぬうちに笑っていた。
懐かしさと愛おしさで目の奥が熱い。
──そのとき。
一瞬だけ、柊斗と目が合った気がした。
そして柊斗の唇が震え、微かな声がこぼれる。
「……れん、や……?」
その瞬間、世界が音を取り戻した。
僕という存在が、柊斗の声と、この世界に──返事をした気がした。
地面を踏みしめる足の裏の感覚。
重力が、改めて体を引き寄せるようにまとわりついてくる。
風の音。葉の揺れる気配。
遠くから響く子どもの声。犬の鳴き声。車の走る音。
そのすべてが、今僕に向かって届いている気がした。
「……柊斗?」
震える声。それでも、確かに言葉になった。
彼は、そこにいた。
僕のほうを見て、目を見開き、息を呑んだ。
まるで、信じたくても信じられないものを前にしたときのような顔で。
数秒の静寂のあと──
「……れんや?」
今度ははっきりと名を呼んだ。
揺れも滲みもない、懐かしいイントネーション。
「なにやってんだよ、お前。
……どうしてこんなとこにいるんだ?」
まるで最初から姿が見えていたかのような、ごく自然な調子で。
声にならない。
込み上げた何かが喉を塞ぎ、それでも胸は熱で膨張した。
──十分だ。
この世界に、僕を“覚えている”人間が確かにいる。
それだけで。
柊斗は眩しげに空を仰ぎ、
「てかさ、マジで久しぶりだよな。何年ぶり? え、最後に会ったの……成人式?」
と、今朝コンビニで再会した友人のような軽さで言った。
「……うん、たぶん、それくらい」
呼吸はまだ乱れ、重力の感触が定着しきらない。
ふと視線を落とした僕の顔を、柊斗が覗き込む。
「……おい。なんで泣いてんだよ」
僕は泣いていた……らしい。
気づいたときには、もう頬が濡れていた。
「……別にいいだろ。今は泣かせてくれ」
「はは、相変わらず意味分かんねぇな、お前」
背中をポンと叩かれ、肩越しに笑みが落ちてくる。
「腹減ったし、なんか食いにいこうぜ」
「……今?」
「いや、今だろ。話したいこともあるしさ」
駅へ向かう途中、信号待ちで柊斗がぽつりとこぼす。
「おれさ、実はあのとき──蓮也に救われてたんだよな」
「……あのとき?」
「高校んときさ。進路、親と揉めててさ。
でも、お前が“柊斗の写真、なんかすげえ好きだわ”って言ってくれたの、たぶん、あれが最初だったんだよ。
真面目に、俺の“やりたいこと”を肯定してくれたやつ」
僕は、何も言えなかった。
「だから進学決めたときも、“誰か一人が信じてくれたならいいか”って思えた。……まあ、あんとき言えなかったけど、ありがとな」
柊斗は照れたように笑って、前を向いた。
──あの頃も、今も。
気づかぬうちに、僕らは互いに背中を支え合っていたのかもしれない。
商店街のシャッターが一枚ずつ下り、夕刻の色が街を閉じ込める。
かつての時間に、そっと鍵が掛けられた。
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