エピローグ シアワセのその先へ
数日後の放課後。校舎には、どこか満ち足りた空気が漂っていた。
開け放たれた窓から入り込む初夏の風が、カーテンをふわりと膨らませ、淡い光が床をやさしく照らす。千鶴とトモヤは、校舎の中を歩いている。
教室の中では、何人かの生徒が机を寄せ合い、静かに課題に向き合っている。
ページをめくる音と、時おり交わされる笑い声が、心地よいリズムのように重なっていた。黒板の前で、先生がチョークを持ったまま生徒の質問に耳を傾け、うなずきながら丁寧に説明している。
廊下を歩けば、理科室から試験管がぶつかる澄んだ音と、楽しげな歓声が漏れてきている。
窓の外、風が校庭の木々をそよがせ、白い雲がゆっくりと流れていく。その一瞬、世界には不安も影もなく、ただ平穏が広がっているように思えた。
図書室の奥では、本を抱えた女生徒が椅子に腰かけ、物語の世界に没頭していた。ページを繰る指先の動きは穏やかで、時折、小さく微笑む唇が柔らかな陽だまりに溶けていた。
職員室では、教師たちが次の授業の準備に余念がない。コーヒーの香りが漂い、試験問題の束を前にした数学教師が、ふと窓の外の青空に目をやる。
その瞳には、教え子たちの未来を思う、柔らかな光が宿っていた。
グラウンドでは、運動部の掛け声が青空に吸い込まれていく。ボールを追う生徒たちの影が、土の上で軽やかに跳ね、時折風が吹くと、汗に濡れた額に笑顔が広がる。
ベンチでは引退した三年生たちが、後輩たちの成長を見守るように談笑し、どこか誇らしげだった。
世界がほんのひととき、穏やかな安らぎに包まれている──。それは誰もが気づかぬほど、儚くも確かな幸福だった。
千鶴とトモヤは中庭のベンチに並んで腰を下ろす。赤い教室の残響も、幸福度スコアに怯える日々も、もうここにはない。風に揺れる木々の葉の音と、グラウンドから聞こえる笑い声が、かつてとは違う柔らかさを帯びている。
「……こうしてるだけで、不思議と落ち着くね」
トモヤが空を見上げながら言った。
「うん。あの頃は、ただ息をするだけでも、どこかに監視されてる気がしてた」
千鶴は小さく笑みを浮かべ、ひび割れた懐中時計をそっと撫でる。止まったままの針は、もう焦りを告げることはなかった。
二人の間に、言葉のいらない時間が流れる。
ただ一緒にここにいること、それだけで十分だと思える穏やかさがあった。
――――――――――
鬼システムが消えてから一週間たった。学園には、いまだ混乱の残滓が漂っている。
幸福度ランキングがなくなったことで、誰もが一様に戸惑い、何を基準に動けばよいのか分からなくなっていた。けれど、廊下を行き交う声には、以前のような張りつめた緊張はもうなかった。
教室の壁から消えた巨大モニターの跡には、今では色とりどりの『メッセージカード』が貼られている。
――「今日もありがとう」
――「一緒に笑ってくれて嬉しかった」
――「おかえり」
評価も点数もない、ただの言葉。それでも、書いた者も受け取った者も、ほんの少しだけ顔が緩む。
昼休み、中庭では『やり直しノート』を囲んで笑い合う輪が、大きく広がっていた。以前は互いに距離を置いていた生徒たちが、今では迷いながらも少しずつ会話に混ざっていく。
「ありがとう」や「お疲れさま」という言葉を交わすたび、学園全体にかすかな風穴が広がっていっている。
教師たちもまた、子どもたちに触発されるように、少しずつ歩み寄っている。
授業中に「今日の気分は?」と問いかけるだけの取り組みが始まり、職員室では「数字では測れない安心感」の話題が上がるようになった。
もちろん、赤い教室の記憶はまだ消えない。夜になると、校舎の片隅で誰もいないはずの笑い声が響くという噂も残っている。
それでも、千鶴にはその囁きが、もはや恐怖ではなく『遠い残響』として感じられていた。
その声は、あの空間で消えていった仲間たちの名残のように思えた。
かつては耳を塞ぎたくなるほどの恐怖だったそれが、今では「忘れないで」とそっと背を押す声に聞こえる。ふと立ち止まると、風に混じって「あの日の笑顔」が確かにそこにある気がした。
千鶴は目を閉じ、胸の奥で小さく呟く
――「確実に、学園は変わり始めている。だから、もう大丈夫、私たちは一人じゃないから」
放課後の校舎屋上。西日が差し込むその場所で、千鶴は壊れた懐中時計を両手に乗せ、静かに見つめていた。針は、あの日から止まったまま――瑞穂が最後に託してくれたままの時刻を刻んでいる。
「……直せるかな?」
無意識に、言葉が溢れる。
「やってみようよ」
背後から聞こえた声に振り向くと、トモヤが小さな工具箱を抱えて立っていた。
「直したいんだろ?」
千鶴は頷き、震える手で時計を差し出した。
二人で慎重に作業を始める。ひび割れたガラスを取り外し、歪んだ歯車を一つひとつ確認する。そのたびに、竜二の笑顔や、お松の声、赤い教室に取り込まれた人たちの想いが胸を過ぎった。
――止まった時を、もう一度進めるために。
やがて、最後の歯車が噛み合い、トモヤが静かに告げる。
「……これで、動くはずだ」
千鶴は息を呑み、ゼンマイを巻いた。
――カチ、カチ、と規則正しい音が耳に届く。
止まっていた針が、再び時を刻み始めた。音は小さいのに、世界が確かに変わったとわかるほどの力強さだった。千鶴は息を呑み、胸の奥でひとつの答えを見つける。
――「私はもう、止まらない」
胸の奥で、何かがほどけるような感覚が広がる。瑞穂が残した重みは、もう『過去の鎖』ではなかった。これからを生きるための、確かな『繋がり』として息づいていた。
時計の針が刻む音が、夕焼けに染まった屋上にやさしく溶けていく。千鶴は、両手に包んだ懐中時計の温もりを確かめるように目を閉じた。
あの日から止まっていた時が、確かに動き出した――それは、過去を捨てるのではなく、背負ったまま未来へと踏み出す合図だった。
胸の奥に残っていた重苦しい痛みが、少しずつ形を変えていく。竜二やお松、赤い教室で消えていった仲間たちの想いが、今は背中を押す力になっているのを、はっきりと感じた。
「……ありがとう、竜二。お松さん」
頬を伝う涙を、千鶴は拭わなかった。その涙は、痛みではなく、確かに希望から生まれたものだったからだ。
トモヤが笑みを浮かべる。
「これで……僕らも、ちゃんと前に進めるね」
時計の針が時を刻む音が、夕暮れの空気に溶けていく。千鶴は空を仰ぎ、未来へと視線を向けた。
――あの赤い教室は、もうどこにもない。
けれど、失われた者たちの想いと、残された者たちの決意が、確かにここに息づいている。
「行こう、トモヤ。私たちの、新しい時間を作りに」
二人は並んで屋上を後にする。背後には、針を刻み始めた懐中時計の音が、希望の証のように響き続けていた。
――――――――――
千鶴は一人、あの場所へと足を進めていた。風に揺れる樹々の隙間から、かつての旧校舎へと続く道を歩く。
数え切れない夜を恐怖と混乱の中で過ごした場所――だが今は、重苦しい空気の代わりに、初夏の柔らかな陽光が静かに降り注いでいる。
足を踏み入れるたび、胸の奥に焼き付いたあの日々の残響がかすかに揺れ、呼吸の度に痛みと共に遠ざかっていく。
――赤い教室は、面影すら、もうどこにもなかった。
かつて鬼システムが埋め込まれていた校舎の一角は、今はただの更地になり、朝焼けに染まった風が静かに吹き抜ける。瓦礫の破片も、あの赤黒い光の痕跡も、もう何ひとつ残っていない。
千鶴は、そこにひとり立ち尽くす。足元を踏みしめるたび、砂を噛む音がわずかに響いた。
その一歩ごとに、胸の奥に積もったあの日々の残響が、かすかに揺れる。
――竜二の最後の笑顔。お松の声。赤い教室に囚われ、消えていった仲間たちの想い。
それらは今も鮮やかに、彼女の内側に生きている。
「……シアワセとは、めぐりあわせ。良いも悪いも、すべて因果の中で生まれるもの」
独りごちる声は、ひんやりとした朝の空気に溶けた。
数日前までこの学園を覆っていた狂気は消え、幸福度ランキングも、数値の支配も、もう存在しない。
日に日に、教室の空気は少しずつ柔らかさを取り戻し、生徒たちは互いを測ることなく「おはよう」や「ありがとう」と言葉を交わしている。
ほんの小さな変化だが、そのたびに、過去の呪縛は確かに遠ざかっていく。
それでも、痛みや喪失は消えない。けれど、千鶴は知っている。それらもまた、今の自分を形づくるものなのだと。
懐中時計を取り出し、掌にそっと乗せる。
止まっていた針は、再び動き出した時から、途切れることなく、ゆっくりと、けれど確かに、時を刻み続けていた。
竜二が命を懸けて託したその重みが、今も彼女を前へと押し出している。
「……シアワセとは、めぐりあわせ。良いも悪いも、共にあって今がある」
東の空から差し込む光が、校舎の壁と更地を淡く染め上げる。闇の中で必死に求め続けた『朝』が、確かに訪れていた。
千鶴は瞼を閉じ、深く息を吸い込む。
赤い教室で失われた多くの声が、どこか遠くで聞こえた気がした。
――『忘れないで』
――『前へ、進んで』
まぶしさに目を細め、千鶴の口元に、微かな笑みがほころぶ。
竜二やお松、そして赤い教室で消えていった多くの声が、確かに今も背中を押していた。痛みも、喪失も、過去も、すべてを抱えたまま、それでも、私たちは歩き出す。
――だって、そう、これは私たちのシアワセになるための物語なのだから。
シアワセの物語 揺らぎ @haru-yuragi
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