第5話 私たちの夜明け
嵐は、いつの間にか過ぎ去っていた。窓の外では、雨音が遠のき、代わりに静寂が部屋を満たしている。栞が用意してくれた清潔な布団が、私のベッドの隣に敷かれていた。二人きりになった部屋で、私たちはどちらからともなく、ベッドの縁に並んで腰掛けた。
先ほどの激情が嘘のように、私の心は凪いでいた。ただ、隣にいる彼女の存在だけが、確かな現実として感じられる。彼女が着ている、私の少し大きめのスウェット。そこから覗く、華奢な手首。その全てが、どうしようもなく愛おしい。
「…ごめんね」
先に沈黙を破ったのは、月島さんだった。
「ううん」
「私、凪ちゃんに、甘えてばっかりだ」
「別に、いいよ」
私は、短く答える。本当は、もっと気の利いた、優しい言葉をかけてあげたいのに、気の利かない言葉しか出てこない。
「凪ちゃんの家族、やっぱり、すごいね」
彼女は、ぽつり、と呟いた。
「湊さんも、栞さんも、潮さんも…。私が来た時、誰も、理由なんて聞かなかった。ただ、『ここにいなさい』って言ってくれた。…あったかくて、びっくりした」
「…それが、うちの普通だから」
「うん…。すごく、素敵な『普通』だよ」
彼女はそう言うと、私の肩に、そっと頭を寄りかかった。その重みと、伝わってくる温もりに、私の心臓が大きく跳ねる。私は、身じろぎもせず、その重みを全身で受け止めた。
「私ね、ずっと怖かったんだ」
彼女の声は、耳元で囁くように響く。
「お父さんや、お母さんの期待に応えられない自分が、怖かった。良い子じゃない私には、価値がないんだって、ずっと思ってた。だから、笑ってた。大丈夫なフリをして、ずっと笑ってた」
「……」
「でも、凪ちゃんといると、笑わなくてもいいんだって思える。クールな顔して、本当はすごく優しい凪ちゃんを見てると、私も、無理しなくてもいいのかなって思えるんだ」
彼女の言葉は、一本一本が、私の心の壁に突き刺さっていた棘を、優しく抜き去っていくようだった。
私も同じだ。私も、クールなフリをして、ずっと何かに怯えていた。この家族を、この感情を、誰かに否定されるのが怖かった。
「…私も、怖かったよ」
声が、震えた。
「うちの家族のこと、誰かに変だって言われるのが、怖かった。だから、誰とも深く関わらないようにしてた。自分の周りに、誰も入れないようにしてた」
私は、初めて、自分の本当の弱さを、言葉にして彼女に伝えた。
湊の言葉が蘇る。『自分の孤独を相手に見せる覚悟』。
「でも、月島さんは、違った」
私は、続ける。
「月島さんは、私の壁を、気にせずに入ってきた。そして、私の家族を見て、『素敵だ』って言ってくれた。…それが、どれだけ嬉しかったか、分かる?」
彼女は、黙って私の肩に顔を埋めている。その肩が、小さく震えているのが分かった。
「私が好きなんだ」
気づけば、言葉が口をついて出ていた。
「私が好きなのは、良い子で、いつも笑ってる月島さんじゃない。無理して笑って、本当は泣きたくて、それでも必死に立ってる、今のあんたが、好きなんだ」
告白。
それは、何の飾りもない、剥き出しの、私の心そのものだった。
もう、怖くなかった。彼女に拒絶されてもいい。ただ、この想いだけは、伝えたかった。
月島さんが、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、涙で濡れていたけれど、その奥には、強い光が宿っていた。
「…私も、好き」
か細い、けれど、はっきりとした声だった。
「私が好きなのは、誰にも心を開かない、クールな海野さんじゃない。不器用で、ぶっきらぼうで、でも、誰よりも優しい、凪ちゃんが、好き」
見つめ合う。
世界のすべての音が消え、この部屋に、私たち二人だけが存在しているかのように感じられた。
どちらからともなく、顔が近づいていく。
触れ合った唇は、少しだけしょっぱくて、でも、信じられないくらい、甘かった。
それは、嵐が過ぎ去った後の、静かで、確かな、私たちの夜明けだった。
私たちは、互いの孤独を曝け出し、互いの傷に触れ、そして、初めて本当の意味で、一つになったのだ。
もう、一人じゃない。その事実だけが、確かな温もりとなって、長い夜を優しく照らしていた。
翌朝、私は鳥の声で目を覚ました。
嵐が嘘だったかのように、窓の外には、洗い立てのシーツのような青空が広がっている。隣を見ると、陽詩はまだ、子供のような寝息を立てて眠っていた。その穏やかな寝顔を見ていると、胸の奥から、どうしようもないほどの愛おしさが込み上げてくる。
そっと部屋を出て階下に下りると、キッチンにはすでに栞と湊の姿があった。テーブルの上には、湯気の立つ味噌汁と、ほかほかのご飯、そして、少しだけ焦げた卵焼きが並んでいる。いつもの、海野家の朝だ。
「おはよう、凪」
「…おはよう」
私が席に着くと、栞が「陽詩さんは、まだ眠ってる?」と、優しい声で尋ねた。
「うん。疲れてるみたい」
「そう。ゆっくり寝かせてあげなさい」
湊は、黙って新聞を読んでいたが、ふと顔を上げると、私に言った。
「凪。お前、良い顔になったな」
「え?」
「嵐が去った後の、海みたいな顔だ。覚悟が決まった者の顔をしている」
その言葉に、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
やがて、目をこすりながら、陽詩がリビングに下りてきた。私のスウェットを着たままの彼女を見て、潮が「お、おはよー、新入り」と茶化す。陽詩は、恥ずかしそうに俯きながらも、「おはよう、ございます」と、小さな声で挨拶をした。
「さ、陽詩さんも座って。お腹すいたでしょう」
栞が、彼女のために新しいお椀と箸を用意する。その光景は、あまりにも自然で、まるで彼女が、ずっと昔からこの家族の一員だったかのようだった。
四人で囲む、少しだけいつもと違う朝食。
陽詩は、おそるおそる、栞の作った卵焼きを口に運んだ。そして、大きく目を見開く。
「…おいしい」
その呟きに、栞は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。たくさんお食べなさい」
窓から差し込む朝陽が、テーブルの上を、そして私たちの顔を、きらきらと照らしている。
これから、どうなるのだろう。
陽詩の家族との問題が、すぐに解決するわけではないだろう。私たちの前には、きっとまだ、たくさんの困難が待ち受けているに違いない。
けれど、今はもう、怖くなかった。
隣で、少ししょっぱい味噌汁を、美味しそうにすする彼女の横顔を見つめる。目が合うと、彼女は、はにかむように、ふわりと笑った。
その笑顔があれば、きっと、どんな嵐も乗り越えていける。
この、潮風と、マーマレードの甘さと、そして彼女の笑顔がある、この家でなら。
私たちの物語は、まだ、始まったばかりなのだ。
潮風とマーマレード 或 るい @aru_rui
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