雨の栞

或 るい

雨の栞

記憶とは、水のようなものだと思うことがある。

指の隙間からこぼれ落ち、留めておこうとすればするほど、掌から滑り出ていく。乾いたアスファルトに染みこんだ雨水のように、跡形もなく消えてしまうことさえある。


水上湊の記憶もまた、ゆっくりと、しかし確実に乾き始めていた。


三年前の、あの夏の日から。

蝉時雨が世界を揺らしていた午後、彼女、高槻千帆は、この世からいなくなった。あまりに唐突な事故だった。交差点の向こう側で、彼女は湊に気づいて、花が綻ぶように笑った。その笑顔が、湊の見た最後の彼女の姿になった。


悲しみは、時が癒すという。嘘だ。

時間は何も癒してはくれない。ただ、鋭利な痛みを鈍い疼きに変え、傷口の上に薄い皮膚を張らせるだけだ。そして、本当に恐ろしいのは、その薄皮の下で、大切な記憶が少しずつ腐り、輪郭を失っていくことだった。


千帆の笑顔は覚えている。陽だまりのような、温かい笑顔。

けれど、彼女の声が思い出せない。

湊の名を呼ぶ、あの鈴を振るような声が。冗談を言って笑う、少し低くなる声が。まるで、音の消えた映画を見ているように、彼女は湊の記憶の中で、ただサイレントに微笑むだけになった。どんな言葉を交わしたのか、その断片すら、霧の向こう側へ遠ざかっていく。


忘れることが、こんなにも怖いなんて知らなかった。

それは、二度目の死を彼女に与えるような、裏切りにも似た行為に思えた。


今日も雨だった。

梅雨時の空は、分厚いコンクリートのように重く垂れこめ、街全体が湿った灰色に沈んでいる。傘を打つ雨音だけが、湊の存在を証明するかのように単調に響いていた。会社からの帰り道、いつも使う駅を一つ乗り過ごしてしまったことに気づいたのは、見慣れない商店街のアーケードが車窓に見えた時だった。


「……まあ、いいか」


誰に言うでもなく呟き、電車を降りる。

目的もなく歩くのは、いつ以来だろうか。シャッターが下りたままの店が多い、少し寂れた商店街。雨に濡れたアスファルトが、ネオンの光を滲ませていた。


その一角に、その店はあった。

古い木枠のガラス戸。錆びた真鍮のドアノブ。軒先には、藍色の暖簾が静かに揺れている。そこに書かれた『時雨堂』という文字は、雨に濡れて一層深く、濃く見えた。

古書店。

湊は、本を読む習慣などもう何年もなかった。千帆が生きていた頃は、彼女に勧められるがままに、何冊か手に取ったこともあったが。


何かに引かれるように、湊は店の前に立ち止まった。

ガラス戸の向こうは薄暗く、本の背表紙が壁一面の模様のように連なっている。古い紙の匂いと、微かな黴の匂い。そして、なぜだろう。そこには、懐かしい時間が流れているような気がした。


ドアノブに手をかける。

ぎ、と軋むような音を立てて扉が開くと、カラン、と乾いた鈴の音が鳴った。


店内は、静寂に満たされていた。外の雨音が、嘘のように遠ざかる。埃を乗せてきらきらと光の筋が差し込む様は、まるで深海にいるかのようだ。本の森。そう表現するのが、一番しっくりきた。


「いらっしゃいませ」


奥のカウンターから、声がした。

顔を上げると、一人の女性が立っていた。大きな丸眼鏡の奥で、柔らかな瞳が湊を見ている。歳は、湊と同じくらいか、少し下だろうか。無造作に束ねた髪と、ゆったりとしたワンピースが、この店の空気によく馴染んでいた。


「……すみません、特に何かを探しているわけでは」

言葉が、途切れ途切れになる。人と話すのが、少し億劫だった。

「構いませんよ。雨宿りでも、どうぞ」

女性はそう言って、ふわりと笑った。その笑みは、千帆とは違う。けれど、どこか緊張を解くような、不思議な力があった。


湊は会釈をして、本の迷路へと足を踏み入れた。

背の高い本棚に囲まれると、自分がひどく小さな存在に思える。指先で背表紙をなぞると、ざらりとした感触が伝わってきた。文学、歴史、哲学、美術。名も知らぬ著者たちが紡いだ言葉の群れが、沈黙のうちに何かを語りかけてくるようだった。


何を、探しているんだろう。

自分でも、分からなかった。ただ、何かを失くしたという感覚だけが、胸の底に澱のように溜まっている。失くしたものが何なのか、それすらも曖昧になりかけていた。


ふと、一冊の本が目に留まった。

装丁が美しいわけでも、タイトルが珍しいわけでもない。ただ、その背表紙の色が、千帆の好きだったワンピースの色に似ていたから。淡い、空色。


手を伸ばしかけた、その時。

「お茶、どうぞ」

先ほどの店主が、湯気の立つカップを差し出していた。いつの間に、隣に来ていたのだろう。その気配のなさに、少し驚く。

「……ありがとうございます」

受け取ったカップは、手のひらにじんわりと温かい。

「甘茶です。少し、疲れた顔をされていたので」

そう言って、彼女はまた柔らかく笑った。

「私は、雨宮と申します。雨宮栞」

「……水上です。水上、湊」

名乗ると、栞は「まあ」と小さく声を上げた。

「雨に、水。なんだか、ご縁がありますね」

他愛のない言葉だった。けれど、その一言が、乾いた心にぽつりと染みこんでいくような気がした。


甘茶は、その名の通り、ほのかに甘かった。それは砂糖の甘さとは違う、草木が持つ、優しく、素朴な甘みだった。喉を通ると、強張っていた身体の力が、少しだけ抜けていく。


「このお店、古いんですか」

気づけば、湊は尋ねていた。

「祖父の代からです。私で、三代目」

栞は、愛おしむように店の隅々を見渡した。

「本も、人も、ここに来ると少しだけ時間を忘れるみたいです。だから、時を失う雨、と書いて『時雨堂』。祖父がそう名付けました」

時を、失う。

その言葉が、湊の胸に小さく突き刺さった。


湊は、結局その日は何も買わずに店を出た。

「また、いつでもどうぞ」

栞の声に送られ、外に出ると、雨は小降りになっていた。

胸に残ったのは、甘茶の優しい甘さと、栞という女性の不思議な佇まい。そして、『時雨堂』という名前の、静かな響きだった。




それから、湊は時雨堂に足を運ぶようになった。

雨の降る日も、晴れた日も。仕事帰りに、あの寂れた商店街へ向かうのが、いつしか習慣になっていた。

目的があるわけではない。ただ、あの静かな空間に身を置くと、胸の裡で絶えずざわめいていた何かが、少しだけ凪ぐような気がしたからだ。


栞は、湊が来るといつも「おかえりなさい」と言うかのように、静かな笑みで迎えてくれた。そして、カウンターで甘茶を淹れてくれる。二人の間に、多くの言葉はなかった。湊は本棚の間を彷徨い、栞はカウンターの奥で黙々と本の修繕をしている。その距離感が、湊には心地よかった。


彼女は、湊の過去について何も尋ねなかった。なぜいつも浮かない顔をしているのか、何をそんなに探しているのか。その沈黙が、何よりの優しさだと湊は感じていた。


ある日の午後、湊は文芸書の棚を眺めていた。

千帆が好きだったのは、どんな本だっただろうか。

彼女はよく、小説の登場人物について熱心に語っていた。まるで、自分の友人について話すかのように。でも、その本のタイトルも、作家の名前も、今となっては思い出せない。記憶の靄は、そんな些細な、しかし大切なディテールから奪っていく。


「探し物は、見つかりそうですか」

背後から、栞の声がした。

「……いえ。何を、探しているのかも、よく分かっていないので」

自嘲気味に呟くと、栞は「そうですか」とだけ言って、隣に並んだ。

「本は、不思議なもので」

彼女は、一冊の古びた本を手に取り、その表紙を優しく撫でた。

「探している時は見つからなくて、忘れた頃に、向こうからひょっこり顔を出すことがあるんです。それに、この本は誰かのものだったかもしれないけど、今はあなたのためのものかもしれない。持ち主を選ぶみたいですから」

その言葉は、まるで詩の一節のように、湊の心に響いた。


その時、店の扉が軋み、カラン、と鈴が鳴った。

入ってきたのは、腰の曲がった一人の老人だった。湊も何度か顔を見たことがある、常連客のようだった。

「柏木さん、こんにちは。今日はいいお天気ですね」

栞が声をかけると、老人は小さく頷き、いつもの指定席である窓際の古びたソファに腰を下ろした。彼は店に来ると、いつも決まって同じ場所で、一冊の分厚いアルバムを広げるのだ。


湊は、その老人の姿を、これまでも何度か遠目に見ていた。

彼は、決して誰かと話すわけではない。ただひたすらに、ページをめくり、そこに収められた古い写真たちを、慈しむように見つめている。その横顔は、ひどく穏やかで、同時に、深い哀しみを湛えているようにも見えた。


「あの方は……」

湊が尋ねると、栞は声を潜めて答えた。

「柏木さん。もう十年以上、こうして通ってきてくださるんです。奥様を亡くされてから、ずっと」

「あのアルバムは?」

「奥様との、思い出だそうです。少しずつ、記憶が薄れていってしまうのが怖いから、こうして毎日、思い出をなぞりに来ているんだって。忘れないための、儀式みたいなものなんでしょうね」


忘れないための、儀式。

その言葉が、また湊の胸を抉った。柏木さんの姿に、未来の自分の姿が重なる。自分も、こうして千帆の写真を眺め、薄れゆく記憶を必死に手繰り寄せるようになるのだろうか。

いや、もうすでに、そうなのだ。湊は毎晩、千帆の残した数少ない写真を見つめ、彼女の声を、言葉を、思い出そうともがいている。だが、写真は何も語ってはくれない。ただ、あの夏の日の笑顔を永遠に焼き付けているだけだ。


「……忘れるのは、怖いことですね」

湊の口から、思わず本音がこぼれた。

栞は、湊の顔をじっと見つめた。その丸眼鏡の奥の瞳は、すべてを見透かしているかのようだった。

「怖い、ですね。でも、」

彼女は少し間を置いて、言葉を続けた。

「すべてを覚えておくことも、きっと、とても苦しいことですよ」

その声は、甘茶のように優しく、そしてどこか寂しげだった。


その日、湊は一冊の本を買って店を出た。

栞が「持ち主を選ぶ」と言って手に取った、何でもない古びた小説だった。家に帰ってページを開くと、一枚の押し花が挟まっていた。誰が挟んだのかも分からない、名も知らぬ小さな紫色の花。それは、前の持ち主が残した、ささやかな記憶の欠片のように思えた。


湊は、その押し花をそっと指でなぞった。

千帆も、よく道端の花を摘んで、本の間に挟んでいた。押し花にするのが好きな人だった。彼女が挟んだ栞は、今どこにあるのだろう。彼女が愛した物語は、どの本棚で眠っているのだろう。


千帆の部屋は、三年前から時間が止まったままだった。

彼女の母親が、せめて一年はこのままにしておいてほしい、と言った。その一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年が経った。誰も、その部屋を片付けようとは言い出せなかった。そこにあるのは、千帆が生きていたという、あまりに生々しい証だったからだ。


湊は、押し花を握りしめたまま、千帆の部屋のドアノブに手をかけた。

開けるのが、怖かった。

彼女の匂いが、もう消えてしまっているかもしれないから。




千帆の部屋の空気は、ひんやりとしていた。

カーテンが閉め切られた部屋は薄暗く、時間が澱んでいる。ベッドの上には、彼女が最後に着ていたであろうカーディガンが無造作に置かれ、机の上には、読みかけの本が伏せられていた。


湊は、ゆっくりと部屋の中を見渡した。

壁に貼られた、色褪せたポストカード。二人で行った水族館のチケット。誕生日に湊が贈った、小さなオルゴール。すべてが、千帆が生きていた時間を雄弁に物語っている。なのに、彼女の姿だけが、そこにはない。この部屋の主は、永遠に不在だった。


彼女の匂いは、もうほとんど消えかけていた。

微かに残る、彼女が愛用していた石鹸の香り。それを吸い込むと、胸の奥がきりりと痛んだ。まるで、忘れていた傷口を無理やり開かれるような痛みだ。


何を探しに来たのだろう。

湊自身にも、分からなかった。ただ、何か、千帆の「言葉」に触れたかった。彼女の声が聞こえないのなら、せめて、彼女が書き残した文字だけでも見たかった。


本棚に、目が吸い寄せられた。

様々なジャンルの本が、ぎっしりと並んでいる。湊が知っている本は、一冊もなかった。千帆は、湊の知らない世界で、たくさんの物語と出会っていたのだ。その事実に、今更ながら、どうしようもないほどの距離を感じた。


一冊一冊、手に取ってみる。

パラパラとページをめくるが、そこに書き込みや栞は見当たらない。彼女は本を綺麗に読む人だった。


諦めかけて、机の引き出しを開けた。

一番下の段。古い手帳や、使いかけのノートが乱雑に詰め込まれている。その中に、一冊の大学ノートを見つけた。表紙には、彼女の丸い文字で『読書ノート』と書かれていた。


心臓が、大きく跳ねた。

指が震えるのを抑えながら、ノートを開く。

そこには、彼女が読んだ本のタイトルと、心に残った一節が、丁寧に書き写されていた。几帳面な、それでいてどこか温かみのある文字。それは紛れもなく、湊が知っている千帆の文字だった。


『星の王子さま』

「かんじんなことは、目に見えないんだよ」


『銀河鉄道の夜』

「ほんたうのさいはひは一体なんだらう」


ページをめくるたび、湊の知らない千帆の心が、少しずつ見えてくるようだった。彼女がどんな言葉に心を震わせ、どんな物語に涙したのか。その軌跡が、ここにはあった。

それは、彼女の声を思い出すよりも、ずっと確かな形で、彼女の内面に触れる行為だった。


そして、最後のページ。

そこには、一つのタイトルと、一文だけが記されていた。

これが、彼女が最後に読んだ本なのだろうか。


『忘れな草の栞』


そのタイトルに、湊は息を呑んだ。

そして、その下に書かれた一節を、何度も、何度も読み返した。


「忘れてもいい。思い出せなくてもいい。あなたが私を想ってくれた時間が、私の一部になったのだから」


涙が、ノートの上にぽつりと落ちた。

滲んだインクが、まるで泣いているように見えた。


忘れても、いい。

その言葉は、許しのように響いた。記憶が薄れていくことに罪悪感を覚え、自分を責め続けていた湊にとって、それはあまりにも優しく、そして残酷な言葉だった。

千帆は、分かっていたのだろうか。いつか自分が、彼女のことを忘れていってしまうかもしれないということを。そして、そのことで苦しむであろう湊の未来を。


湊は、ノートを胸に抱きしめた。

『忘れな草の栞』。

この本を探さなければならない。千帆が最後に何を想い、この言葉を書き留めたのか。それを知るまでは、前に進めない。


湊は、部屋を飛び出した。

傘も差さずに、雨の中を走った。濡れるのも構わなかった。目指す場所は、一つしかなかった。


時雨堂のドアを、勢いよく開ける。

カラン、という鈴の音が、焦る心にやけに大きく響いた。

「雨宮さん!」

息を切らしながら叫ぶと、カウンターの奥から、栞が驚いたように顔を上げた。びしょ濡れの湊を見て、彼女は目を丸くしている。

「水上さん、どうしたんですか、その格好……」

「本を、探しているんです。どうしても、読みたい本が」

湊は、震える声で言った。

「『忘れな草の栞』という本です。ここに、ありますか」


そのタイトルを聞いた瞬間、栞の表情が変わった。

驚きでも、困惑でもない。

まるで、ずっと待っていたものが、ようやく訪れたかのような。

そんな、静かで、穏やかな表情だった。


彼女は、何も言わずに頷くと、店の奥へと消えていった。

しばらくして、戻ってきた彼女の手には、一冊の古びた本が抱えられていた。淡い空色の装丁。それは、湊がこの店で初めて来た日に、手に取りかけた、あの本だった。


「……お待ちしていました」


栞は、そう言って、その本を湊に差し出した。

その声は、まるで運命を告げる巫女のように、静かに、店内に響き渡った。




『忘れな草の栞』は、湊の手に吸い付くように収まった。

淡い空色の表紙には、銀色の箔押しで、一輪の忘れな草が描かれている。それは千帆が好きだったワンピースの色であり、彼女が愛した空の色でもあった。


「お待ちしていました、とは……どういう意味ですか」

湊は、震える声で尋ねた。

「この本を探しに来る方は」

栞は、カウンター越しにまっすぐ湊の目を見て言った。

「皆さん、何かを、あるいは誰かを、失くした方ばかりなんです。だから、いつかあなたも、この本を求めに来るような気がしていました」


彼女は、すべてを知っていた。

いや、知っていたわけではない。ただ、感じ取っていたのだ。湊が抱える、言葉にならない喪失の重さを。

「最初の日に、あなたがこの本に手を伸ばしかけたのを見て、ああ、この人もそうなんだな、と」

栞は、静かに続けた。

「でも、あの時のあなたには、まだ早すぎた。この本と向き合うには、きっと時間が必要だったんです」


だから、彼女は待っていたのだ。

湊が自らの意思で、千帆の記憶と向き合い、この本の名前にたどり着くのを。


「この本は、祖父が自費出版したもので……ほとんど世には出ていないんです」

栞の言葉に、湊は驚いて顔を上げた。

「祖父も、若くして祖母を亡くしました。そして、私と同じ年頃だった娘……私の母も、病で。大切な人を失う痛みを知り尽くした人でした」

彼女の瞳が、遠い日を見つめるように揺れた。

「祖父はよく言っていました。忘れることは罪じゃない。忘れられてしまうことこそが、本当の悲しみなんだ、と。だから、忘れないための、そして、忘れてもいいと許すための物語を、残したかったんでしょうね」


栞は、新しいカップに甘茶を淹れてくれた。

その湯気が、凍えた湊の心を少しずつ溶かしていく。

「どうぞ、読んであげてください。この本も、きっとあなたを待っていましたから」


湊は、時雨堂の、あの窓際のソファに腰を下ろした。

柏木さんがいつも座っている、思い出をなぞるための指定席。

表紙をめくると、見返し部分に、一枚の栞が挟まっていた。

それは、湊が以前この店で買った本に挟まっていたのと同じ、小さな紫色の押し花だった。


栞が、そっと声をかける。

「それは、祖母が好きだった花なんです。祖父が、本が出来上がった時、一冊一冊に挟んだんですよ。いつか、同じ痛みを持つ誰かの、道標になるように、と」


湊は、その押し花の栞を指先でなぞった。

なんという、静かで、優しい繋がりだろうか。

見ず知らずの、何十年も前に生きていた人の悲しみが、時を超えて、今ここにいる自分の心を温めている。


ページを、一枚、また一枚と、ゆっくりめくっていく。

物語は、愛する人を突然失った画家の話だった。

彼は、恋人の顔を思い出そうと何度もキャンバスに向かうが、どうしてもその輪郭を描くことができない。彼女の笑顔が、声が、記憶の彼方へと遠ざかっていくことに絶望し、筆を折ってしまう。

その姿は、あまりにも湊自身と重なっていた。


彼は、恋人が残した日記を頼りに、彼女が愛した場所を旅する。

海、山、見知らぬ街のカフェ。

そこで出会う人々との何気ない会話の中に、彼は恋人の面影を見出す。彼女がなぜその場所を愛したのか、そこで何を感じたのか。その軌跡を辿るうちに、画家の心は少しずつ癒されていく。


彼は気づくのだ。

恋人の顔や声を、無理に思い出そうとする必要はないのだ、と。

彼女が愛した風景、彼女が大切にした言葉、彼女と過ごした時間。それらすべてが、自分という人間を形作っている。彼女は、自分の中に、生きているのだ、と。


物語の終盤、画家は再びキャンバスに向かう。

しかし、彼が描いたのは、恋人の肖像画ではなかった。

彼が描いたのは、彼女と共に見た、朝焼けに染まる海の絵だった。

その絵には、彼女の姿はない。けれど、そこには確かに、彼女の存在が息づいていた。寄せる波の音、潮の香り、肌を撫でる風。そのすべてが、彼女の記憶そのものだった。


そして、最後の一節。

千帆が、読書ノートに書き写していた、あの言葉。


「忘れてもいい。思い出せなくてもいい。あなたが私を想ってくれた時間が、私の一部になったのだから。私の愛したこの世界を、あなたが愛し続けてくれるなら、私は、あなたの見る景色のなかに、ずっといる」


湊の頬を、熱い雫が伝った。

それは、悲しみの涙ではなかった。

許されたことへの、安堵の涙だった。


忘れても、いいんだ。

千帆の声を、言葉を、思い出せなくても。

彼女を愛したという、この胸の疼き。彼女と過ごした時間が、今の自分を作っているという、揺るぎない事実。それさえあれば、いいんだ。

千帆は、湊の見る景色の中に、生きている。湊がこれから歩んでいく未来の中に、ずっと一緒にいてくれる。


湊は、本を閉じた。

顔を上げると、栞が静かに微笑んでいた。

「……ありがとうございました」

声が、震えた。

「いいえ」

栞は首を横に振った。

「本と、あなたが出会っただけです。私は、そのための場所にすぎませんから」


窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。

雲の切れ間から差し込む西日が、濡れたアスファルトを黄金色に照らしている。

それは、まるで、涙の跡が乾いた後の、世界の輝きのように見えた。




それから、一週間が経った。

湊の世界は、何も変わらない。同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じ仕事をする。

けれど、湊自身の内側で、何かが確かに変わっていた。


胸の底に澱のように溜まっていた、あの重たい罪悪感が、消えていた。

千帆のことを忘れていく恐怖に、苛まれることもなくなった。

彼女の声を思い出そうとするのを、やめた。無理に、記憶の断片を繋ぎ合わせようとすることも。


代わりに、湊は、千帆が愛したものを大切にしようと思った。

彼女が好きだった音楽を聴き、彼女が好きだった映画を観た。彼女が「綺麗だね」と言っていた夕焼けを、立ち止まって眺めるようになった。

そうすると、不思議なことに、ふとした瞬間に、彼女の気配を感じるのだ。


夕焼け空の中に、彼女の笑顔が重なる。

優しいメロディの中に、彼女の笑い声が聞こえる気がする。

それは、記憶の再生ではない。もっと穏やかで、温かい、魂の感応のようなものだった。

千帆は、湊の見る景色の中に、確かに生きている。


週末の午後、湊は再び時雨堂を訪れた。

カラン、と軽やかな鈴の音が迎える。

「いらっしゃいませ」

カウンターの奥で、栞が顔を上げた。湊の姿を認めると、彼女はふわりと微笑んだ。

「水上さん」

その声には、親しい友人を迎えるような響きがあった。


「この間は、ありがとうございました」

湊は、深々と頭を下げた。

「おかげで……少しだけ、前に進めそうです」

「よかった」

栞は、心からそう言うように頷いた。

「顔つきが、少し変わりましたね。憑き物が落ちた、というか」

「そうですか?」

湊は、自分の頬に触れた。自分では、よく分からない。


「あの本……『忘れな草の栞』は、僕が持っていていいんでしょうか」

「もちろんです。それはもう、あなたの本ですから」

栞はそう言うと、悪戯っぽく片目をつぶった。

「ただ、もし、いつか、あなたと同じように道を失くした人に出会ったら……その時は、この店のことを教えてあげてください。次の誰かのために、本はここで待っていますから」


「はい。必ず」

湊は、力強く頷いた。


湊は、一冊の本を手に取り、カウンターへ向かった。

それは、千帆の読書ノートにあった、『星の王子さま』だった。

「これ、ください」

「……はい」

栞は、何かを察したように、静かに本を受け取った。


会計を済ませ、店を出ようとした時。

「水上さん」

栞に呼び止められた。

「一つ、聞いてもいいですか」

「何でしょう」

「その……あなたの大切な人は、どんな方だったんですか」

それは、彼女が初めて踏み込んできた、湊の領域だった。

しかし、もう痛みは感じなかった。


湊は、少しだけ空を見上げて、それから、栞の目をまっすぐに見て答えた。

「船が、たくさん集まる場所みたいな人でした」

「船が、集まる場所?」

栞が、不思議そうに首を傾げる。

「はい。いつも賑やかで、明るくて、どんな時でも、そこに帰れば安心できるような……港、みたいな人でした」


その言葉を口にした瞬間、湊の脳裏に、一つの光景が鮮やかに蘇った。

海辺の街。二人で訪れた、小さな港。

夕暮れの光の中、たくさんの漁船が停泊しているのを眺めながら、千帆が言ったのだ。

「湊くんの名前って、いいよね。たくさんの船が帰ってくる場所。私も、いつかそんな場所になりたいな」


そうだ。彼女は、そう言った。

忘れていた、彼女の言葉。

忘れていた、彼女の声。

それが、今、確かに湊の心に響いた。

それは、思い出そうとしていた声とは少し違う、もっと自然で、温かい響きだった。


湊の目から、一筋の涙がこぼれた。

でも、それはすぐに笑顔に変わった。

「ありがとうございます、雨宮さん」

「え?」

「いえ……なんでもないです」


湊は、時雨堂を後にした。

商店街のアーケードを抜けると、空はどこまでも青く澄み渡っていた。

もう、雨の気配はない。


湊は、自分の本棚に、『忘れな草の栞』と『星の王子さま』を並べて置いた。

失われたものを嘆くための場所ではない。

これからを生きるための、始まりの場所として。


記憶は、水のようなものだ。

こぼれ落ち、乾き、消えていく。

けれど、その水が育んだ土の上には、新しい草花が芽吹く。

失われたものの欠片は、決して無駄にはならない。それは、残された者の心に根差し、未来を照らす、ささやかな光となるのだから。


湊は、窓を開けた。

初夏の、心地よい風が部屋を吹き抜けていく。

その風の中に、湊は、陽だまりのような彼女の微笑みを感じた。

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