#57 お仕事マッチ、決着。


 


 均衡の軋みが、耳の奥でかすかに弾けた気がした。ノヴァの盾が入口に斜めの壁を置き、ヒナは床に頬を寄せたまま穴を広げていく。チェリーはゴンドラの影に身を沈め、短射の温度をゆっくり上げる。グリーンは浅い角を守り、イエローは影の呼吸で隊の拍を揃える。レッドの針が、看板の脚に細い傷をひとつ刻んだのだった。


 実況・末永【二階の入口、射線は割れたまま。双方、形の編集を継続】

 解説・潮崎【盾で一本消し、床で一本増やす。相殺ではなく、見え方の差配です】


『ノヴァの盾の角度、好きだ』

『チェリーの短射、次は刺さる』


 天井隅の赤い点が点り、空気の匂いがわずかに変わる。閃光と硝煙の閾値を越えたのだろう。スプリンクラーがぱちりと開き、細い雨が通路と店内に降り始めた。水は床のワックスを薄く溶かし、照明の反射が曖昧な揺れに変わる。胸の温度がひとつ下がる。


 ヒナは頬を床に寄せたまま、呼吸だけを整え直す。濡れたガラス片が滑り、入口の裂けはさらに平たく広がっていく。ノヴァは盾の縁を低く保ち、足裏の置き方だけを微かに変えた。チェリーのスコープに水滴がひとつ落ち、視野の輪郭が鈍る。


 実況・末永【防災作動。局所で視界と足元が変わりました】

 解説・潮崎【濡れは射点の持ち時間を削る。動く側がやや有利になるかもしれない】


『水、やだ……』

『でもイエローのサプは水でも音が薄いの強い』


 レッドは一段だけ前へ。吊り広告の金具を音にならない角度で撃ち、紐の湿りを伸ばす。広告板が斜めに落ち、通路を横切った。ノヴァの斜めの壁と倒れた板で、また一本、射線が潰れる。視界の端が少し暗くなる。


 ヒナは変化を呑み込み、入口の縁へ三連を短く置いて裂けを押し広げた。跳ねた水が光を濁し、支柱の根本にたまる。チェリーはゴンドラと壁の隙を半歩ずらし、濡れた視野の中で肘の角度だけを揃える。言葉にしない集中が、体の奥で静かに締まる。


 グリーンは浅さを守る。踏み過ぎず、入口の形だけを壊し返す。イエローは柱の影から、サプレッサ越しに二発。音は薄いが、存在は濃い。ヒナはその〈居る音〉の密度を測り、頬を床に寄せた姿勢のまま、わずかに位置を切った。


 スタジオ・結海【水で止まる勇気が要りますね。今のヒナの低さ、好きです】


 チェリーは呼吸を細く刻み、短射の針を一本だけ。ゴンドラの脚の間、濡れて暗い床面へ、イエローのブーツ縁を掠める高さ。跳ねた金具が小さく鳴り、イエローの前腕が一拍だけ泳ぐ。ヒナが入口縁から三連を重ね、グリーンは即座に浅い角で呑み込んだ。撃ち合いではなく、入口の居心地をまた悪くする。胸の中で、静かな優位がわずかに芽を出す。


 解説・潮崎【効きは取れている。だが、仕留める距離ではない。崩し切るには、もう一本が要る】


『もう一本、どこから?』

『レッドの次の針が怖い』


 ノヴァが腹の底で上げると決める。盾の縁で倒れた広告の端を押さえ、通路に低い壁を作った。入口に半歩詰めて、ヒナのための安全圏を一枚増やす。濡れで足が滑る前に踏み替え。動きは短く、呼吸は深い。言葉は要らないが、声は届く。


「ヒナ、あと一手。入口を穴に」


「了解」


 ヒナは低さを保ったまま、枠の残骸へ二連。割れたガラスが水に乗って流れ、縁取りが崩れていく。チェリーは短い呼気とともに一針を空へ置いた。撃つのではなく、〈撃てる〉を知らせる。イエローの肘がもう一度だけ揺れる。


 その瞬間、レッドが角度を変える。看板裏のミラーコートを使い、濡れた照明の反射でヒナの位置をほんの一瞬だけ見せた。サプレストの針が床縁を撫でる。ヒナは即座に身を沈め、弾は濡れた床で死ぬ。だが、位置は一度だけ過去形で見えたのだった。


 実況・末永【反射の利用。レッド、直接ではなく見方を変える針】

 解説・潮崎【見えた痕跡は、それだけで効能がある】


 グリーンが半歩踏む。浅さのまま、入口敷居へ一発だけ置き、ヒナの再侵入に間を作った。イエローはその間に、チェリーのゴンドラ列の縁へ針を一本。袋物の陳列が水で重くなり、視野がまた細く削られる。


 チェリーは刺さず、移すを選ぶ。バックヤード扉の陰から右奥へ滑り、濡れた床で足を取られないよう、視線の先に体を置く。短い呼吸。今度は左列の端。新しい短射点が、静かにひとつ生まれた。


『チェリー、うまい移し方』

『でもレッドが近い』


 ノヴァは盾の縁をさらに低くし、入口に半身の壁を据える。グリーンの浅さを強要し、ヒナの三連は途切れない。レッドの針は看板の支柱で一度死に、次は柱影に痕跡だけを残す。小さな波紋が胸の奥で生まれては、すぐ沈んだ。


 均衡はまた少し、ガーデンフォース側へ傾いたように見える。崩し切れば、勝ち筋が見える。だが、水は誰にも偏らない。濡れた広告板の端を、グリーンが靴裏でそっと押し込む。入口寄りの低い壁がわずかにずれ、ノヴァの盾に小さな死角が開いた。


 解説・潮崎【入口前の低い壁、位置がずれた。死角が生まれています】


 レッドの針がそこへ置かれる。縁は守れる。だが、縁の外は滑る。弾は直撃ではなく、床金具で跳ねてノヴァの足首外側を撫でた。体勢が半拍だけ揺れ、盾の角度が一点だけ浮く。息が浅くなる。


 ヒナは見逃さない。浮いた角度の下で、入口の縁をさらに穴へ変える。三連の最後が水面に細い輪を広げ、チェリーはその輪の外側に針を重ねる準備を整えた。


 けれど、次に来たのは戦場変華の〈無理をしない一歩〉だった。グリーンは踏まず、イエローは撃たず、レッドは一度引く。三つの動作が同時に止まり、向こう側の空気だけが入れ替わる。静けさが形を動かす。


 実況・末永【止まりましたね】

 スタジオ・唐沢【止まるの、こわい……】


 止まった分だけ、見え方が変わる。ヒナの弾は穴を作り続けるが、その穴に入る相手はもういない。グリーンは浅さのまま角を変え、イエローは柱からカウンター気味に店内の音だけを叩く。レッドは一段引き、倒れ看板の先で、まだ見えていない角度を探っていた。


 チェリーは短射の針を一本、ゴンドラの足元へ置く。返ってきたのは空の音。そこにいない、という情報が、思った以上に重い。次の射の前に、首筋の湿りを拭い、視界の輪郭を静かに戻した。


 ノヴァは足首の揺れを収め、盾角を元へ戻す。呼吸が深くなる。濡れた床で立ち続けるだけで、体力が削られていくのを自覚する。ヒナは息を整え、入口の裂けの形を持続させた。


『止まったの、上手すぎる』

『形だけで押し返された』


 静かな数秒ののち、転機は脇から来る。イエローが通路側へずらす。レッドの過去の針が作った倒れ看板の影、そのさらに外だ。サプレッサ越しに一発、ゴンドラ上段のアクリルを叩く。水を含んだ布袋がずるりと落ち、チェリーの左視野が消える。


 同じ拍で、グリーンが最浅で半身を出す。撃たない。入口の敷居に〈存在の影〉だけを置き、ヒナの視線を一つだけ奪った。レッドの針は戻らない。まだ溜める。イエローがもう一発、レジ上の鏡面POPを割る。乱反射した白を、濡れたスコープが一瞬拾った。


 その白に重ねて、レッドの針が通る。致命ではない。スコープ縁を弾き、チェリーの頬に水飛沫が散る。視界が崩れ、短射が一拍遅れた。その遅れへ、イエローの薄い一発が届く。肩を掠める高さ。銃口が床を向き、身体が壁へ預けられる。胸の奥で、悔しさが小さく残った。


 実況・末永【二階、まずはチェリーが後退を余儀なくされます】

 解説・潮崎【反射で見え方を乱し、短射を遅らせ、薄い一発で効かす。派手さはないが、整った手順】


『チェリー……』

『いまの取り方、綺麗すぎる』


 ノヴァはすぐ理解する。盾で入口を持ったまま、店奥へ短く声を送る。


「下がっていい。生き残る」


「了解」


 チェリーは最短でバックヤードへ退いた。ヒナは入口を持ち直し、ノヴァの死角を埋め直す。レッドの針は追わない。追えば崩れる距離だとわかっている。代わりに通路の逃げ道へ音を一つ置き、〈逃げられるが戻りづらい〉を作った。


 数は二対三。それでも入口の裂けは、まだガーデンフォースの形だ。ノヴァの盾とヒナの低さが、二階の空気を押し返している。戦場変華は無理をしない。無理をしない分だけ、反撃の角度が増えていく。


 グリーンが濡れた板の端を、もう一度だけ靴で押した。わずかなずれの先に、小さな死角。盾の縁と床の間に細い影が生まれる。イエローは撃たない。レッドも撃たない。撃つのは入口の音。ヒナの呼吸に合わせて床へ二発置く。ヒナがわずかにずれる。そのわずかが、入口の縁を半拍だけ開けた。


 グリーンがやっと踏む。滑りを織り込んで膝を落とす短い踏み。撃つのは一発だけ。敷居と盾縁の薄い間。ノヴァの足元が再び揺れ、盾角がまた浮く。ヒナが即座に穴を埋める。埋めるが、呼吸が速くなる。声にならない息が胸に引っかかった。


 実況・末永【浅いままの一歩。グリーン、やっと踏みました】

 解説・潮崎【踏むための前置きが揃っていた。無理のない踏み】


 ここで勝ち筋が見える。戦場変華は入口を壊すのではなく、入口を入口でなくしていく。ノヴァの盾が壁である限り、穴は広がっても通り道にはならない。だから、通り道そのものの意味をずらすのだ。


 レッドが看板残骸の裏から角度を替え、通路側の床金具を叩く。跳ねた水が小さな波紋を作り、ノヴァの足裏の摩擦が一瞬だけ薄れる。同時にイエローが柱影から、盾の外側の空間へ薄い一発を置いた。何もない。ただ危い気がする空白。ノヴァは本能でそこを避け、盾角をさらに寝かせる。視界の縁が白む。


 ヒナは入口縁を守る。低い三連で入射角を刺し続け、グリーンはまた浅く止まって床へ一発。入口はもう裂けではない。濡れた板と倒れ看板と盾の縁で、〈通らない形〉ができつつある。そこへ、最後の一手。


「今」


 囁きに、イエローがうなずく。レッドは一段引き、音を消す。ヒナが次の三連を置く、その直前。イエローの薄い一発が入口縁の音へ重なり、ヒナの呼吸が半拍だけずれた。グリーンは最浅の位置から敷居を跨がず、盾の縁へ一発。角度が崩れ、壁が斜めに傾く。


 ヒナは崩れた角を埋めようとする。だが水は公平で、濡れた床が半歩だけ足をもつらせた。看板の向こうから、レッドの針が穴の中心へ一本。致命ではないが、位置を奪う高さ。ヒナは低さを保ったまま銃口を床へ下げ、入口から一歩、引かざるを得ない。胸の中で、悔しさが静かに沈む。


 実況・末永【入口、通れなくなりました】

解説・潮崎【入口を壊すのではなく、入口を入口でなくす。勝ち筋が見えます】


 ノヴァは理解して、決める。撤退ではない。ここで大きく引けば、三階と二階の射線が檻になる。盾角を戻して一歩踏み替える。だが濡れは薄い。縁がまた滑り、グリーンの浅い一発が膝下に沈む音を置いた。身体は動ける。けれど、動けば崩れる。


『ノヴァ……』

『ここで引くな、でも引け…… つらい』


 バックヤードから、チェリーの声。


((戦闘継続は不可。退避を提案))


 ノヴァは短く息を吐き、決めた。ヒナを先に、盾で入口の形を守りながら、濡れた通路を南へ下げる。戦場変華は追わない。追えば崩れると知っている。グリーンは浅い角に〈居る音〉を置き、イエローは柱影で追撃の気配を消す。レッドは最後に看板の脚を一度叩き、戻れない線を一本だけ引いた。


 実況・末永【ガーデンフォース、戦術的後退を選択。二階は戦場変華が制圧】

 解説・潮崎【入口の意味を書き換えた勝利。火力ではなく、形と時間で取った点です】


『静かな勝ち……』

『グリーンの浅さ、最後まで美しかった』


 水はまだ降っている。戦場変華の三人は、誰も声を上げない。グリーンは敷居へ視線を一度落とし、濡れた板の端を靴裏で戻す。イエローはサプレッサを外し、水滴を払う。レッドは看板の影から出て、倒れた広告を起こし、通路の見え方をそっと元へ返した。


 スタジオ・結海【勝ち確の静けさ、でしたね】

 唐沢【形で勝つって、こんなに絵になるんだ】


 巧翔は腕を組んだまま、モニターの水の粒だけを目で追う。ちゆきは浅く息を吐き、胸の中で何かがそっと落ち着くのを感じていた。


「ちゆき。今の、反射で見せて、音で遅らせて、薄く効かす…… 自分なら、どこで止まるか、もう一度だけ考えてみよう」


「はい」


 水の匂いが薄れていく。戦場変華の勝利は派手ではない。けれど、静かで、確かなものだった。

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『ヴァルキリアサバイブ』 九十九沢 美勇 @tukumosawa-mihaya

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