第3話

午前四時。

 過剰なまでに早く設定された目覚ましが、けたたましく部屋を引き裂く。

 まぶたの裏から朝が染み込んできて、僕は否応なしに現実に引き戻された。


 目覚めとともに、昨日の続きを思い出す。だが、不思議と心は重くない。

 暴れて、泣いて、それでも、少しだけ納得していた。


 僕は、彼女を掃除した。

 そのことに、誇らしさを覚えている。

 それはきっと、誰にも言えないし、僕自身でも理解できない誇らしさだ。


 すがすがしい気持ちで、半袖のシャツに腕を通す。


 エアコンをつけずに寝たせいで、顔は汗ばんでいた。

 洗面台に向かい、たっぷりと水をすくって、それを思いきり顔にこすりつける。

 夏の暑さが、水の冷たさをより際立たせていた。


 そして、鏡を見た。


 そこに映るのは、正真正銘の僕だった。

 昨日の出来事がどれほど異常であれ、それをやったのは、まぎれもなく僕なのだ。


 たとえ記憶が曖昧になっていたとしても、その自覚だけは揺るがない。


 ならば、僕は安堂明美との約束を果たす。

 彼女の要望通り、死体は処理した。だが、それだけじゃない。


 彼女の“生きていた証”、彼女の“思い出”、

 そして周囲が彼女へ向ける関心――

 それらすべてを、なかったことにする。


 そこまでやって、はじめてあの瞳に応えられる。

 あの瞳を見た日から、僕にはその責任がついて回っているのだ。


 昨日、机の上に置いたままだった食パンの袋を開け、一枚を取り出す。

 パンをかじりながら、僕はゆっくりと、学校へ向かった。


 *


 学校に着くと、僕はそのまま門を開けた。

 普段掃除をして学校に残ることが多いからか、僕は戸締まりの鍵を預かっている。

 誰にも頼まれたわけではない。

 ある日、職員が無造作に鍵を手渡してきた。それきり、僕は黙ってそれを引き受け続けている。


 門の軋む音が、静まり返った朝の校庭に吸い込まれていく。

 僕はいつものように靴を履き替え、真っ直ぐに校舎内へと足を踏み入れた。


 教室には、当然まだ誰もいない。


 やるなら今だな。


 そう思った僕は、自分の席に鞄を置き、ビニールの袋を取りに行った。


 朝の校舎には、音がない。

 いつもより深く沈んだような空気が漂っている。

 昨日と同じ場所を通るたび、胸の奥に小さな鈍痛が走った。

 けれど、それに立ち止まることはなかった。

 すでに、自分のやるべきことは決めている。


 *


 まず、安堂明美の席を確認する。


 窓際から二番目、後ろから三番目。

 彼女はいつもここに座り、授業中は窓の外を見つめていることが多かった。


 机の表面を見る。木製の天板には、シャープペンシルで引っ掻いたような小さな傷跡がいくつもある。よく見ると、その中に隣の席の前沢へ向けた悪口が薄く刻まれているのが見えた。

(彼女らしい……)


 僕は教室の窓を全て開け放つ。風通しを良くして、作業中の汗や息づかいによる微細な証拠を残さないためだ。そして制服のポケットから、昨日家から持参したビニール手袋を取り出す。薄手の使い捨てタイプだが、指紋の付着を完全に防げる。


 手袋をはめると、まず机の引き出しを開けた。

 中には教科書、ノート類、筆箱、そして小さなビニール袋に入った錠剤が数個。

 睡眠薬か何かだろうか。

 錠剤は後で処理する。まずは一つ一つの物品を慎重に取り出していく。

 教科書は五冊。国語、数学、英語、理科、社会。どれも使い古されており、ページの端が折れていたり、重要だと思われる箇所にマーカーで線が引かれている。授業には案外真面目に取り組んでいたようで、少し意外だった。


 僕は教科書を一冊ずつビニール袋に入れ、密封する。これらは後で確実に処分しなければならない。


 次にノート類。

 どれも使い古されており、そろそろ変え時といった感じだ。

 数学のノートを開くと、途中から計算式ではなく、死に関する言葉が羅列されていた。


 死といってもネガティブな内容ではない。

「どうしたら格好よく死ねるのか」、「生きたあかしを残せるのか」、なんて内容が大きな文字でつづられている。

 なんだか、死に前向きな考え方が、昔の哲学者みたいでかっこいいと思った。


 彼女の筆跡で書かれたこれらの言葉を見ているうちに、時間は刻々と過ぎていく。

 ふと、時計の針を見て我に返る。感傷に浸っている時間はない。


 僕は各ノートのページを一枚一枚確認し、彼女の心境が表れている部分を特に注意深くチェックした。警察が来た時、これらは確実に「自殺の動機」として注目されるはずだ。


 そして筆箱。

 中身は一般的な文房具だったが、シャープペンシルの軸に小さく「A.M. 20○○.7.15」と彫られているのを発見する。イニシャルと日付。恐らく彼女が死を決意した日だろう。

 この筆箱も回収対象だ。


 机の表面、引き出しの内側も入念に拭き取る。アルコール系の除菌シートを使い、指紋や皮脂、唾液などのDNA痕跡を完全に除去していく。木材は多孔質で、わずかな体液も吸収してしまうため、念入りに、何度も拭き取る作業を繰り返した。左から右へ右から左へ天板を拭く引き出しを拭く奥の角を拭く手前の角を拭く机の脚を拭く一本目二本目三本目四本目椅子の座面を拭く背もたれを拭く肘掛けを拭く脚部を拭く一本目二本目三本目四本目彼女が足を組む癖があったことを思い出す椅子の脚の靴跡を探す右足の脚部に薄い汚れ発見除去する床との接触面をチェック黒い跡を発見除去する窓の鍵を拭く電気のスイッチを拭く黒板の縁を拭くドアノブを拭く壁を拭く一面二面三面四面ロッカーの扉を拭く取っ手を拭く内側を拭く上面を拭く側面を拭く底面を拭く南京錠を拭く番号ダイヤルを拭く床に四つん這いになって髪の毛を探すない探すない探すない一本発見回収する右へ移動また探すまた探す見つからない左へ移動また探すまた探すまた探す見つからない前へ移動また探すまた探す二本目発見回収する後ろへ移動また探すまた探すまた探す見つからないアルコールクリーナーで床を拭く一平方メートル二平方メートル三平方メートル四平方メートル完了。


 ロッカーの内部の確認。

 彼女の番号は24番。南京錠がかかっているが、いつしか聞いた彼女の誕生日「0427」を試すと、あっさりと開いた。


 中には体育着、上履き、そして小さな日記帳。


 日記の最後のページには、昨日の日付と共にこう書かれていた。

「明日、市松くんに頼んでみる。きっと、彼ならやってくれる。」


 僕の手が震える。

 彼女は本当に、最初から僕に頼むつもりだった。そして、そのことがこんなにも淡々と、ほかのページと何ら変わらない文字で、あたかもそれが当然のような態度なのだ。


 日記帳も回収し、ロッカー内を徹底的に清拭する。金属表面は指紋が付着しやすいため、特に念入りに作業を行う。


 上履きと体育着にも彼女の皮脂や汗が付着している。これらも持ち帰って処分するしかない。


 警察は行方不明者届を受理したら、まずその人物の生活痕跡を詳細に調査するはずだ。学校という場所は、生徒が長時間を過ごす場所として必ず重点的に調べられると考えられる。


 僕は教室内を再度見回し、彼女が触れた可能性のある全ての表面をもう一度清拭していく。

 指紋は証拠能力が高く、警察捜査でも重要視されることくらい僕でも知っている。一つでも残せば大きなリスクだ。


 作業開始から約一時間。

 僕は彼女に関わる物品を全てビニール袋に回収し、接触した可能性のある表面を全て清拭し終えた。

 最後に、教室全体を見回す。

 安堂明美が存在した痕跡は、もうどこにも残っていない。

 まるで最初から彼女などいなかったかのように。

 僕は回収した物品の入ったビニール袋を教室の隅に隠し、後で回収することにする。


 今は他にもやるべきことがあった。

 図書館、体育館、彼女が立ち寄った可能性のある場所は他にもある。


 そして何より——昨日、彼女が最後にいた校舎裏。

 あの場所にも、まだ何かが残っているかもしれない。


 時計を見る。午前六時半。

 まだ時間はある。

 警察が来る前に、全てを終わらせなければならない。

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市松宗二の後始末 堀勃男 @harutoshi_suzuki1812

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