第26話『この夜に、言葉がなかったとしても』

防寒用の銀色のシートが、わずかに擦れる音を立てる。乾いた体育館の床に敷かれたそれは、やわらかくも頼りなく、まるでこの国のセーフティネットそのもののようだった。


 奈緒はシートの上で膝を抱え、しばらく瞬きを止めていた。瞼を閉じることも、開けたままでいることも、どちらも無意味に思えて、ただ黙っていた。


 明かりは、非常灯だけ。

 隣に横たわる老婆が、小さく寝息を立てている。その息のかすかな音が、妙に安心感をくれるのが不思議だった。


(言葉なんて、もういらないかもしれない)


 心の中でそんなことを思っても、実際は、言葉を求めていた。話しかける勇気が出せないだけ。優しい言葉がほしい。誰かに名前を呼んでほしい。……そんな当たり前の望みが、どうしてこんなにも遠いのだろう。


 少し離れたところで、子どもが目を覚まし、母親に甘える声が聞こえた。

 「ママ、お水……」

 「はいはい、ちょっと待っててね」

 その声のやりとりだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


 奈緒には、誰もいない。家族も、恋人も、友人も。

 彼女の世界は、いつしか「誰かの物語の背景」になり、気がつけば、中心にいたはずの自分自身が、舞台から降ろされていた。


 ポケットの中のスマホを取り出す。

 充電は、もう十パーセントを切っていた。

 SNSを開いてみる。

 だれも、自分のことを書いていない。もちろん、当然だ。

 「さみしい」と投稿すれば、誰かが反応してくれるかもしれない。

 でも、それは“慰め”ではない。

 ただの“ノイズ”だと、知っている。


 そっとスマホを伏せる。

 そのとき、誰かが奈緒の隣に腰を下ろした。


「……寒いですね」


 静かな声だった。

 見れば、炊き出しの列で何度か見かけた女性だった。年齢は少し上かもしれないが、同じように疲れた目をしていた。


「はい……」

 それだけ返すのがやっとだった。


 彼女はバッグから毛布を出し、二人の間にそっと広げた。

「もしよかったら、これ……半分ずつ使いませんか?」


 奈緒は、戸惑った。

 だれかと暖を分け合うなんて、何年ぶりのことだろう。


 ゆっくりと毛布に手を添える。

 そのぬくもりが、ほんの少しだけ、心の氷を溶かした。


「ありがとう……ございます」


 その言葉を言うまでに、どれほど時間がかかっただろう。


 その夜、奈緒は久しぶりに、夢を見た。

 それは誰かと笑い合っていた日々。

 たとえ言葉が交わせなかったとしても、人は人に支えられて生きている。


 この夜に、言葉がなかったとしても——

 そっと重なった毛布のぬくもりが、語ってくれていた。


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『おかえり、という声がしない夜に』 ―アラフォー独女・奈緒の三千夜記― 常陸之介寛浩◆本能寺から始める信長との天 @shakukankou

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