第25話『それでも人は、誰かを待っている』

朝の光は、容赦がなかった。

 それは優しさではなく、ただ時間が進むという冷酷な証明だった。


 奈緒は、まぶたを閉じたまま布団の中で丸くなる。背中を向けるようにして、窓から差し込む陽の気配を拒む。けれど、耳だけは起きていた。薄い壁の向こう、炊き出しの準備を始める音。プラスチックの容器が重ねられ、鍋が火にかけられる金属音。足音。咳払い。誰かが誰かに話しかける声──自分に向けられた言葉ではない。


 昨夜は、床に敷かれたマットレスで眠った。隣に眠っていた初老の女性は、時おり悪夢にうなされるように寝返りを打っていた。奈緒もまた、眠った気がしなかった。ふいに思い出した昔の夢。十代のころ、駅前のカフェでバイトしていたときのこと。店長の優しかった声。常連の年配客が「君の笑顔でコーヒーが旨くなる」と言ってくれた日。──その記憶の向こうに、現在の自分の姿がある。


 髪は乱れ、肌は荒れ、目の下にはくっきりとした影。鏡を見ない日が増えた。


 だが。

 奈緒は、布団から起き上がった。

 体が鉛のように重く、どこにも行きたくなかった。何もしたくなかった。けれどそれでも、起き上がった。


 理由は、自分でもわからなかった。ただ、炊き出しの列に並ぶ人々の中に、昨日少しだけ言葉を交わした青年──アラタという名の、無口だが目の強い青年の姿を思い浮かべていた。


 「……おはようございます」


 声を出すまでに時間がかかった。炊き出しの列に並ぶとき、隣の老婦人がそっと会釈をくれた。奈緒も小さく頭を下げた。

 湯気の立つ味噌汁の香り。固めに握られたおにぎり。たったそれだけのものが、朝という時間に意味を持たせてくれる。


 「……温かいな」

 誰ともなく、そう呟いた。すると背後から、アラタの声が聞こえた。


 「温かいって、すごいよな」


 奈緒は驚いて振り向いた。彼はまっすぐこちらを見ていた。笑ってはいない。でも、目が、まるで熱を持っているように見えた。


 「昨日、助けてくれて、ありがとうございました」

 奈緒が言うと、アラタは肩をすくめた。


 「別に。俺も昔、炊き出しの列で騙されたことあってさ。財布ごとやられた。怒るより、情けなくて泣けた」


 奈緒は口を結び、何も言えなかった。


 ──怒るより、情けなくて泣けた。

 それは、あの日、生活保護の窓口で門前払いされたときの自分と、まったく同じだった。


 「だから、見てた。あいつ、変な動きしてたから」


 アラタはポケットから小さな紙包みを取り出し、奈緒に手渡した。


 「これ、昨日の炊き出しで余ったやつ。持ってけよ」


 中には、小さなクッキーが2枚入っていた。

 乾いたクッキーだった。けれど、その甘さが、奈緒の喉を焼いた。


 「ありがとう……」


 ようやく出たその言葉は、喉の奥で少し詰まり、でも、たしかに空気に乗って伝わった。


 そのあと、ふたりは特に言葉を交わさなかった。ただ、並んでおにぎりを頬張り、味噌汁をすすった。


 人間は、ひとりでも生きていけるのかもしれない。

 けれど、誰かと一緒に「食べた」その記憶が、心の中のなにかをほんの少し温める──そういうことは、たしかにある。


 食事のあと、奈緒はアラタと別れて、避難所の廊下を歩いた。

 その途中、幼い女の子が描いたらしい壁の絵が目に入った。

 大きく開いた口。にっこりと笑った顔。その横に「まま だいすき」とクレヨンで書かれている。


 誰かを、まっすぐに好きだと思えた日々。

 それを失っても、人はまた誰かを、あるいは過去の自分を、待ち続けてしまうのかもしれない。


 奈緒は、壁の絵に背を向け、歩き出した。


 今日は泣かなかった。


 そしてその日の夜、布団に入ると、奈緒はスマホの電源を入れた。


 バッテリーは、まだ残っていた。


 未送信フォルダに、かつての同級生宛に書いたメッセージがあった。


 『元気ですか? わたしは、なんとか生きています』


 指先が震えた。だが、そのまま、奈緒は「送信」を押した。


 ──それでも人は、誰かを待っている。

 その誰かが、自分のことを思い出してくれる日が来るかもしれない、そんな夢を見ながら。


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