第24話『“ありがとう”が喉につかえて』
手のひらの温もりが残ったまま、奈緒は言葉を飲み込んだ。
「……ありが……」
その先が、喉の奥でひっかかって出てこなかった。ごめんなさい、も、ありがとう、も、この数年まともに誰かに言った記憶がない。言おうとすると胸の奥がむず痒くて、逃げ出したくなる。
避難所の隅に腰を下ろすと、壁にもたれながら持ち帰った紙コップの味噌汁をすする。ぬるくなった大根の味が、やけに沁みた。隣では、昨日出会った女性──瑞穂(みずほ)が、静かに髪をまとめている。
「昨日は、助かった。あんた、足、速いんだね」
瑞穂の言葉に、奈緒は小さく頷いた。
「……昔、運動部だったから。もう何年も走ってないけど」
「でもさ、逃げるって、悪いことじゃないと思うよ」
その言葉が、不意に奈緒の胸に落ちた。逃げることに、いつしか罪悪感を感じるようになっていた。「我慢こそ正義」「逃げたら負け」──そう刷り込まれていた。
「……逃げてばっかりだよ、私」
「それで、今、生きてるんだからさ。勝ちでしょ」
瑞穂の笑いに、奈緒は不意に口元を歪めた。泣くでも笑うでもない、けれど確かにその瞬間、頬がゆるんでいた。
そこへ、炊き出しをしていたスタッフの一人が近づいてくる。
「おふたりとも、おにぎり、もう一つ食べますか?」
奈緒は一度断ろうとして──だが、何かが変わった。
「……もらえますか。できれば、焼きたらこじゃないやつ」
「ありますよ。梅でいいですか?」
「……うん。ありがとう」
今度は、はっきりと言えた。
声は小さいけれど、たしかに口から出た。
小さなやり取り。でも、こんなにも難しかった。
食べ物をもらうだけで、感謝を伝えるだけで、胸の奥がぎゅっとなる。
紙ナプキンで包まれた温かなおにぎりを両手で受け取ったとき、奈緒はふと、母の手を思い出していた。
あの日、朝、眠そうな目でにぎってくれた小さな海苔巻き。
「寒い日こそ、おにぎりは温かい方がいいのよ」
そう言って、炊きたてのご飯をふうふうしながら握ってくれた手。
「……梅、おいしいね」
「でしょ?」
並んで食べながら、奈緒は初めて、瑞穂に視線を向ける。
夜明けの光が、彼女の横顔をやわらかく照らしていた。
どこかで、誰かが静かにギターを弾いていた。避難所の一角に流れる、掠れたコード。
日が昇るたび、世界はほんの少しずつ変わっていく。
奈緒の中でも、ほんの少しだけ、何かがほどけ始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます