融点
草群 鶏
融点
かりん、と澄んだ音に思わず目を向ける。肩ごしに見下ろした足元は薄暗く、椅子の脚やら足置きのバーやらが入り組んでどうにも見づらいが、ざらりとした三和土のフロアにはなにか底光りするものが転がっていた。
角皿に点々と残るタレのつや、汗をかいたビール瓶。馴染みの焼き鳥屋のカウンターは橙の明かりに煙がぼかしをかけて、ざわざわとした空気が一人客にも心地良い。ちょうど左隣で飲んでいた背の高い男が帰るところで、壁にかけたハンガーからフライトジャケットを引きずり落としながら、店員とカウンター越しに軽く挨拶を交わしている。
(落とし物かな)
お節介心が頭をもたげる。私は口元にあったロックグラスをそっと置いて、カウンター下に潜り込んだ。
つるりとした手触り。拾い上げたものは半透明で平たく、大振りな二枚貝ほどの大きさをしていた。ガラスというには不均質で、宝石というには無造作な、紫陽花の萼に似たなにか。少し傾けると薄い青が紫を帯びる。なにかのパーツだろうか、とりあえず訊いてみないことには。
「あの、おにいさん」
立ち上がって声を発したとたん、ぐっと胸が詰まって目元が熱くなった。
視界がぶわわと歪んで、こちらを振り向いたはずの相手の顔が見えない。ぼたぼたと涙をこぼして嗚咽を漏らす自分にびっくりして慌てて顔を隠すと、ぐっと距離を詰めた影が私を覆って、手にした拾い物を取り上げた。
「大丈夫ですか」
落ち着いた男の人の声。なにかを手放した心地で、気持ちがすうと軽くなる。指先に深いかなしみの名残り。覚えのない感情に頭が混乱して、とりあえず鼻を啜った。
「どうしたの」
「いやちょっと、私もよくわかんない。呑みすぎたかも」
仲良しの店員さんに心配されて、目をぱちくりさせながら変な返事をしてしまった。瓶ビール一本に梅酒ロックで呑みすぎたもなにもない。いつもならこの倍の量でけろっとしているのをこの店の人たちはようく知っている。
料理はあらかた食べ終えていて、飲み物もグラスに薄く残るばかり。切りはいい。
「お会計で」
「はあい、ちょっとまってね」
落とし物を受け取ったかれは、私が会計を済ませるのをおとなしい大型犬のように待っていた。
待っていてくれたので、自然と並んで店を出る格好になった。
「どうもすみませんでした」
「お兄さんのだったんですね、よかった!」
酔っ払って人前で泣くなんて。恥ずかしさ半分でやたら元気よく返してしまって、新たに後悔を重ねることになった。消えたい。せめて笑ってくれ、と相手の表情を窺ったら、笑うどころか神妙な様子。つられてこちらも真顔になってしまう。
「ぼくのせいで泣かせてしまって」
「いや、あなたのせいじゃないですよ」
「ぼくのせいなんです」
今日は平日。同年代か少し年下のかれはラフな服装のわりに前髪をすっきりと上げていて、日中はこの格好で仕事をしていたのだろう。そう察せられるだけに、こうもまともに頭を下げられるとこちらも仕事モードに切り替わる。
「あの……よくわからないんですが」
「ですよね……」
かりん、と再び落下音。今度は明らかにかれの足元に落ちて、繁華街のアスファルトの上で淡い薄紅を帯びていた。
「それ」
「体質なんです」
「体質?」
かれはさっとしゃがんで拾ったものをポケットに突っ込むと、言いづらそうに、しかしはっきりと告白した。
「感情が表に出る体質なんです。いまみたいに、物理的に」
「へえ……?」
これが安藤くんと私の交流の発端だった。
「あ、いる」
「こんばんは」
「なに呑んでるんですか」
気を利かせた常連さんたちがさっと席を空けてくれて、礼を言いながら隣に腰掛ける。カウンターを店員さんが手早く拭い、新しい箸と小皿、続いておしぼりにお通しがトントントンとリズムよく渡された。
「アンちゃんが呑んでるのはこれ。この時期しか出回らない限定仕込み」
「うわ」
煙のような淡いグレーにきりりと白いラベルの一升瓶を見せられて、ぐらりと心が傾くが辛うじて手のひらを見せて意思表示する。
「はじめはやっぱり、瓶ビールで」
「揺るがないね!」
店員さんと私のやりとりを、安藤くんは楽しそうに見守っている。物理的に感情がだだ漏れてしまう彼とは、この店で会えば並んで酒を酌み交わす、よき飲み友達になっていた。
よく冷えた小ぶりのグラスに、すでにうっすら頬の赤いかれがビールを注いでくれる。このやりとりも慣れたものだ。
「はいかんぱーい」
「乾杯」
あまりはしゃいだり大げさな反応をしないのはもしかして体質のせいなのか、とこのあいだ訊いてみたのだけど、「どうだろう、そうかも」と素っ気ない答えが返ってくるのみ。気を悪くしたかと問えば「べつに。それよりこれうまいですよ」と手元の料理を勧めたりするので、ああこの人はこういう人なんだなと気にしないようにしている。
「あれから溜まりました?」
「そんなに出ないですよ、人を何だと」
かれは例の欠片をただ〈石〉と呼ぶ。そのままにしておくと怪しまれるし捨てるのも忍びないと、気付けるかぎりは拾っておくのだそうで、私は会うたびに日々の〈成果〉を見せてほしいとせがんだ。
ころころと並べられた石はみっつ。透明に近い青、みかんゼリーのような橙、レバーと見紛う濃厚な赤。
「もしかしてすごい怒ったりしました?」
「ああ、まあ、仕事で」
色合いからそのときの感情を想像して、これをきっかけに互いの近況報告。といってもなかなか頻繁に出くわすので、日々の他愛もない話ばかりだ。
「はい、水茄子のかつぶし和え」
「うわあい」
「うわあいて」
「美味そうに食うなあ」
もも、ヤゲン、砂肝、途中に豚バラトマト串をはさんで白レバー。店員さんたちどころか他のお客さんにも笑われながら、でもうまいものはうまいので仕方ない。
安藤くんは食べるのとリアクションに忙しい私に代わって、漬物を齧りながら最近見た映画の話や仕事で会った面白い人の話をしてくれる。
「落ち着いてるのに話すのうまいですよね。深夜のラジオみたい」
「おい」
場が温まると口調も砕けて、俺はラジオじゃないぞと凄んで見せる。皿にたまった串を取り上げて串入れに放り込む気だるい仕草に、お酒が進むなあとにこにこしてしまった。
「今日もよく食べるね」
「そんな私もかわいいでしょう」
「うん」
「あら」
「あっ」
冗談で言ったつもりだったのに。そっぽを向いたかれの膝の上にのせた袖口から、かりん、かりんと澄んだ音がこぼれる。
「拾っていい?」
「……どうぞ」
興味本位でいそいそと拾い上げると、とろける薔薇色の石がふたつ。指先からじんわりとあたたかいものが伝って、私の頬にも朱がのぼる。
「出さないように、してたのに」
安藤くんは顔を覆ってしまった。いま無性にその顔を見たいと烈しい衝動が起こったが、私ばかりが暴きたてるのはフェアじゃない。伸ばした手はなんとか引っ込めて、石をカウンターにすべらせる。
気づかないふりをしてたけど、融かされた気持ちはもう隠せない。
「わたしも」
いつもは茶々を入れに来る店員さんたちもいまはみんな背を向けていて、時刻は午後一〇時半。
まもなくラストオーダーだ。
融点 草群 鶏 @emily0420
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