小バルセロナ旅行
@hituziotoko
小バルセロナ旅行
僕は十八歳の六月、
大学の建物の二階にある教室でバルセロナへ旅をしていた。
もちらん想像上のバルセロナへということだ。
僕は生まれてからパスポートも取ったことはないし、
飛行機の乗り方もわからないのだからしょうがないことなのだ。
でも空想の世界で旅行するのも思ったより悪くない。
なんせ多少の想像力があれば、
一瞬で、税関も通らずに旅行に行ける。
教師はスペイン語の動詞の活用について話をしていた。
教師には申し訳ないが、とても退屈に感じられた。
僕にとってはvivo が vives になろうが、
viveになろうがどうでもよいことだったのだ。
バルセロナではなく、
東京の大学の教室にいる教師が形容詞についての説明に移ろうとしているとき、
僕はバルセロナのカタルーニャ広場の噴水のベンチに座っていた。
昔バルセロナが城壁に囲まれていた時代、
このカタルーニャ広場は城壁の外側に位置していた。
その後のイルデフォンス・サルダという都市計画家(都市計画家?)が設計した都市計画には
この広場は含まれていなかったが、
そののちにバルセロナ万国博覧会に向けて開発され現在の形となった。
そんな歴史事情に想いを馳せながら、
通り過ぎ行く人々をただ眺めていた。
平日の昼下がり、
すべてがうまくいくような明るい日差しが街を照らしていた。
街の人々もまるで誕生日の日の子供のようにはしゃいでいるように見えた。
その日の広場はパズルのピースがただの一つたりとも欠けてはいなかった。
すべてが満ち足りていた。
だから日が暮れるまでこうしていたかった。
心の底からそう思えた。
ところが、そうしているわけにもいかない事情があった。
僕にも生活があって、
広場の噴水に比べたらつまらないものだが仕事がある。
当然やりたくないこともやらなくちゃいけない。
たとえ妄想の世界であってもそうなのだ。
人は幸福なことだけを考えて生きることはできないのだ。
幸福というものにはかならず、
悲しみや苦しみといったものがついてくるものなのだ。
だからこそ幸福は幸福足りえるのだ。
そうして昼下がりの素晴らしいひとときに別れを告げ、
重たい腰を上げて元の世界―つまり指示形容詞の説明に入ったあの退屈な教室 に戻るため立ち上がろうとした。
その時、自分を呼びかける声が聞こえた。
「やぁ、よくバルセロナまで来てくれたね。」
その声はかなり聞きなじみのある声だった。
僕は口をあんぐり開けて、立ちすくしていた。
なぜなら僕に話しかけてきた人物はそのままそっくり僕と同じ姿形をしていたからなのだ。
それは同じような恰好をしているとか、
顔が似ているだとかそういう次元の話ではない。
まるっきり僕がもう一人目の前にいるのだ。
僕と同じ服装をしたクローンといっても差し支えないだろう。
だが、もちろん僕にクローンを作られた覚えはない。
「君が驚くのも無理はない。突然のことだしね。」
「いろいろと説明を加える前に、
とりあえず何か食べに行こう。
えーと、君は何が食べたい?」
パエリアが食べたいと僕は言った。
「奇遇だな。僕も同じこと思ったんだよ。」
僕は目の前の現象を脳内で処理することに精一杯で、
彼についていくほかなかった。
店まで歩いている間、
僕は周りの人は僕たちのことをどう見ているのか気になった。
同じ顔、同じ背丈、同じ服装の二人が歩いている。
傍目からみると、
いや僕から見たとしても、相当異様な光景だ。
だが意外なことに周りの人々は僕らには目もくれずに通り過ぎていく。
双子が歩いていると思われたのか、
それとも歩いている赤の他人の顔なんて気にしないものなのか僕にはわからなかった。
どちらにせよそれは僕にとって幸運なことだろう。
店につくと、
強い太陽光を防ぐパラソルがさしてあるテラス席に案内され、
魚介のパエリアとメロン・ソーダを二つ注文した。
店は感じのいい老夫婦が二人で経営しているようだった。
厨房で夫が黙々とバエリアを作り、
妻がホールを担当していた。
「君、今日は急ぎかい?」
「つまらないスペイン語の授業を除けば暇だね」僕は答えた
「そうか、それはよかった。僕と君で心ゆくまで話そう」
「今日僕が君のもとへ現れたのは、実は君自身に原因があってのことだ」
はぁ、としか僕は言うほかなかった。
僕自身にクローンを作られる原因があったというのだろうか。
それとも僕は十八年の人生のどこかで自らの半分を置いてきてしまったんだろうか。
「僕は君のドッペルゲンガーだ」彼ははっきり宣言した。
「そして、もう一人の僕である君に会えるということは、
君にそれなりのことが起きているってことだ。」
「それは、僕の死期が近いということを君の出現が伝えているということかな」
「都市伝説通りならそうだね。だが実際はそうじゃない」
「君は今分岐点にいる。
心が腐るか、腐らないか。
それは君の身体的な問題じゃなく、
内面的な問題だ」
彼の言うとおりだ。
少し僕の内面に目を向けよう。
僕は十八歳になってからというもの孤独感を徐々に強めていった。
少しずつ、部屋の酸素が減っていくように。
東京という街に僕は欺瞞を感じていた。
何か嫌なことをされたとかそういうことじゃない。
東京という街ではみんな演技をしている。
生き残るために。
自分の心を守るために。
だから僕は東京にいるみんなに助演男優賞・女優賞を与えたい。
主演賞は無理だけど。
それを強く意識したのがバルセロナへ旅をしたあのスペイン語の授業なのだった。
僕は言葉にはしようもない寂寥感を感じていた。
ちょうどマドリードへ旅立つとき『涙の海で抱かれたい』が流れていた。
そう僕の生活にはヴィーナスが足りない。
僕の生活はクレオパトラのいないエジプト王朝のようなものだ。
そんな物語で誰がアントニウスに同情するのだろうか。
僕は異性に自らの好意を正直に伝えるには臆病すぎたし、
自らの欲望に知らぬふりをするには若かすぎたのだ。
今まで恋愛的なことを何もしてこなかったわけではない。
でも僕の経験の無さか、
それとも生まれつきの間の悪さか、
うまくいった試しはないのだった。
なんと情けないことだろう。
僕はそういう、ある意味典型的な年ごろの青年だったのだ。
頭の中のCDプレーヤーのスキップボタンを押そう。
僕は聞きたい曲の聞きたい部分だけ聞くワガママなリスナーなのだ。
次はそう『エロティカ・セブン』。
一通りサザンを聞き終え、
目を開けるとそこは東京の大学の教室だった。
教師はまだ形容詞の説明を続けていた。
僕は腹を据えて、形容詞の活用を覚えることにした。
やはりバルセロナは実際行ってみるに限る。
小バルセロナ旅行 @hituziotoko
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