あいつの居る場所

@sunahukin

あいつの居る場所

 俺は若い頃、徴兵されて陸軍の兵舎で暮らしていたことがある。兵舎ではみんな、大部屋で共同生活をする。

 これは俺の持論だが、人が生活している場所には、その人の習慣が表れる。人ごとにそれぞれがまとう秩序があらわれる、と言ってもいい。大勢が寝起きを共にする環境にいたからだろうか。俺はそういう人ごとに異なる秩序が、持ち物の置き方だったり、枕のへたれ具合なんかにそこはかとなくあらわれているのを見るのが好きだった。


 同室に、羽田野という男がいた。

 物静かで頭のいい男だった。休みのときにはいつも、部屋の中でいちばん日の当たる窓際に座って、本を読んでいるような奴だった。風の通り抜ける明るい窓際で、ことさら真面目くさった顔をしている羽田野を、幾度見たことか。

 あれはいつのことだったか、その羽田野の平穏な秩序が脅かされたことがあった。


「にゃーーん」

 部屋にいた俺は、聞き慣れない甘ったるい鳴き声に驚いて顔を上げた。見ると、窓際に陣取った羽田野と目が合った。

「武川、こいつをどかしてくれ」

 羽田野が身を縮めながら俺に訴える。

 覗き込むと、羽田野の足元に1匹の猫がいた。

猫はしきりに、羽田野をまたいで窓際に行きたいような素振りを見せている。

「佐藤が拾ってきた猫だな」

「よせ。来るな、厚かましい畜生め」

 大胆にも猫は、羽田野の身体によじ登り始めていた。普段は無口で、どちらかというと言葉を選んで発言する羽田野の罵倒に、俺は思わず噴き出した。

「なんだよお前。猫が苦手なのか?」

 俺は、羽田野の軍服に爪を立て、登頂を目指す猫をひょいと抱き上げる。猫は不満そうにぐぅぅと鳴いた。

「苦手じゃない。苦手なものなんて無い」

 悔しそうにそう言いながら羽田野は、軍服についた猫の毛を執拗に払う。そして苦虫を嚙みつぶしたような顔で猫を見た。

 羽田野は、本だとかノートだとか持ち物は多いが、普段から埃ひとつ残さないように拭き掃除を怠らない男だった。だから羽田野の寝床の周りは、周囲と比べてもひと際清潔で清々しかった。その清潔な中に、たくさんの本が少し乱雑に積まれている様子を、俺は居心地がいいと感じていたものだ。羽田野がまとう秩序が心地よかったのだ。

「ほら、こいつにも日向ぼっこさせてやれ」

 俺は羽田野のそばに、そっと猫を置いた。猫が羽田野に向かって非難がましい顔を向ける。それ以上に非難がましい顔を、羽田野が俺に向ける。しかし俺が答えない様子を見て、しぶしぶといった様子で猫に向き直った。

「仕方ないな。おい厚かましい畜生、この線よりこっちに来るなよ……痛っ」

 境界線を示す羽田野の手に、猫がパンチを繰り出した。

 それ以降、窓枠の三分の一を猫が、三分の二を羽田野が陣取るかたちで折り合いがついたらしい。天気のいい日は、一人と一匹が仲良く……いや、お互いに領域を侵犯させまいと若干ひりつきながら、ひだまりを分け合っている姿を見るのが恒例となった。


 そのすぐ後、羽田野は若くして戦場で死んだ。俺は生き残り、軍を離れ、家業を手伝うなどして数十年が経った。

 羽田野が死んだ戦場には、今は慰霊塔が建っている。遠い異国の地に建つ慰霊塔。遠すぎるからと、理由をつけてなかなか来られずにいたが、今日やっと俺はここを訪れることができた。

 晩秋とはいえ暖かい、麗らかな日だった。俺は慰霊塔までの山道を登り、見晴らしのいいその場所に辿り着いた。あたりには誰もいない。鳥の声も、虫の声も聞こえない、完全な静寂に包まれている。しかし不思議とさびれた印象も、重苦しい印象もなかった。おだやかな陽光が慰霊塔の一帯を照らしていたからかもしれない。慰霊塔のある場所から、紺碧の美しい海が見えたからかもしれない。故郷に帰れなかった若者たちの魂を慰撫するかのように、ただ穏やかさがあたりを包んでいた。

 俺は持ってきたお猪口に、持ってきた故郷の酒を注ぎ、慰霊塔にそなえた。その時、

「にゃーーん」

 聞き覚えのある甘ったるい鳴き声が耳に届いた。

 慰霊塔の裏をのぞくと、少し先で猫が日向ぼっこをしている。俺はふらふらとその猫に近づいた。

 慰霊塔のある開けた場所の、いちばん隅。木立の隙間から海を見渡せる場所に、人が悠々と腰かけられるぐらいの大きさの岩がひとつある。その岩のはしっこに、不自然に身を縮ませるようにして、猫が座っていた。まるで、窓際のポジションを羽田野と争っていたあの猫のように。

 あの日の光景に思い至り、俺はあらためてまじまじと、周りを見渡した。石畳が敷かれた慰霊塔のまわり。眼下には松の木の木立が広がり、ふもとの町と、その先の海が見渡せる。多くのものがあるが、そのすべてが静けさと穏やかさに包まれており、ひとつの心地よい秩序をまとっているようだった。

 まるで羽田野がここで暮らしているみたいだ、と感じた。

「にゃーーん」

 猫は背中に陽光を浴び、じっと目を細めている。

 俺はそっと猫のとなりに腰を下ろした。

「すまない、来るのが遅くなったな」

そっと猫の背中をなでる。俺はあたりに広がる穏やかな秩序に、羽田野の気配に、いつまでも身を委ねていた。

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