――小さな革命を――

  朝、目が覚めた。不思議と、怖くなかった。

窓のカーテン越しに差し込む光が、優しくまぶたを撫でる。


心鳥は静かに布団を抜け出し、制服に袖を通す。

鏡の前の自分は、ほんの少しだけ違って見えた。


髪を整えながら、小さく息を吸い込む。胸の奥がまだ痛む。

でも、その奥に、何かが灯っているような気もした。


リビングに降りると、母が台所で朝食を準備していた。

いつもと変わらない光景。だけど今日は、その匂いに、ふっと心がほぐれた。


「おはよう」と言ってみる。

母は少し驚いたように振り返り、すぐに笑った。

「おはよう。ごはん、できてるよ」

小さな会話。それだけで十分だった。


パンの焼いた香ばしい匂いと、湯気の立つスープ。

何気ない時間の中に、ほんの少し、温かさを感じる。


今日は土曜日。少し遅めの朝も、怒られずに済んだ。


心鳥は鞄を手に取った。靴を履いて、玄関の扉を開ける。

朝の光がまぶしくて、少しだけ目を細めた。


冷たい空気の中に、どこか新しい風が混ざっている気がする。

今日が、少しだけ違う「はじまり」に思えた。



 体育館に着いた。トレーニング器具が並ぶその中央に、筋肉の塊がいた。

武蔵だ。


今日はタンクトップ姿で、既にトレーニングをしていたようだ。

一生懸命なその姿は輝いていた。


「来たな、心鳥!」 武蔵はそう言うと、心底嬉しそうに笑った。


「……別に、来るって言ったわけじゃない」

「だが来た。お前の足で」


そう言われて、心鳥はほんの少しだけ頬を赤らめ、視線を逸らした。 


武蔵は器具のひとつを指差すと、当然のように言った。 

「じゃあまず今日は、スクワット200回だ」


「…………殺す気ですか」 

「違う、生かす気だッ!!!」


叫ぶようなその声に、なぜか心鳥は笑ってしまった。 

その瞬間、たしかに笑ったのだ。

何カ月ぶりだろうか。心の底から、くすぐられるような、そんな自然な笑いがこぼれたのは。


「武蔵さん、なんでスクワットなんですか?」


なんとなく心鳥は聞いてみる。


武蔵はニヤッと笑うと、「入るだろ?気合い」

何を言ってるんだこの人は……心鳥はつい心の声が漏れそうだった。


「じゃあ早速始めようか、

トレーニング。初めてだからウェイトは使わないでおこう」

心鳥は少し緊張しながら、武蔵の前に立った。


「まずは足の幅。肩くらいに開いて、つま先はちょっと外に向ける」


言われたとおりに立ってみる。


「よし。次は、しゃがむ。お尻を後ろに突き出すようにして、できるところまででいい」


心鳥はそろそろとしゃがみ込む。


「おしい……しっかりケツを突き出すんだ。それから背中が丸くならないように、胸を張ってみろ。」


「はい……こう、ですか?」

「おう、いい感じだ」


武蔵も心鳥の正面にしゃがんで、目線を合わせた。


「スクワットってな、ただの運動に見えるかもしれないけど、奥が深いんだ」

なんだか武蔵は語り始めそうな雰囲気だ。


「深くしゃがめるやつほど、深く考えられる。スクワットの深さってのは、人間性の深さなんだ」


「人間性……?」

唐突な迷言に困惑して、語尾に”はてな”がついてしまった。


「そうだ!人間性だ!

自分の底まで下りて、そこから立ち上がる。スクワットってのは、そういう動きだ」


心鳥はもう一度、ゆっくりしゃがんでみた。さっきよりも、少しだけ深く。

足はぷるぷると震え、さっきと比べものにならないくらいキツイ。


「いいぞ。その調子だ。最初は10回だけでいい。本気で自分の弱さと向き合う……人はそれだけで変われるんだ」


武蔵の熱い掛け声が響く。

心鳥はうなずいて、呼吸を整えると、もう一度、深くしゃがみこんだ。


10回、20回、30回──。

そのたびに足の震えは増し、呼吸が乱れていく。


途中で何度も休憩を挟んだが、武蔵はそばで声をかけ、時には姿勢を直してくれた。100回を越える頃には、もう自分の足が自分のものとは思えないほど言うことを聞かない。


それでも、なんとか180回目まで終えた。そして、ラスト20回。

「武蔵さん……もう無理です。僕にしては、よく頑張った方ですよ……」

汗まみれの顔でそう言うと、武蔵は少し黙って心鳥を見つめた後、低く言った。


「心鳥……200回という目標をやり遂げた自分と、途中で諦めた自分。お前は、どっちになりたい?」つまりは、「やれ」と。


心鳥は一瞬、目を閉じた。頭の中で、いくつもの言い訳が浮かび、そして消えていく。もう充分頑張った、誰も責めたりしない、これ以上やって何になるのか。

そんな言葉がぐるぐると頭の中を巡った。


けれど……………………


やってみたい──そんな気持ちが確かにあった。


「……ッ。やります!!!」


立ち上がる足は震えていた。

でも、決して弱音は吐かない.....そんな決意が顔に現れていた。


「残り20回。いきます!!」


武蔵は静かにうなずいた。「いい目だ。いけ」


心鳥はゆっくりと、またしゃがみこんだ。1回、2回──汗が床にぽたりと落ちるたびに、足の痛みが増していく。それでも、心の奥に灯った小さな火は消えなかった。


そして、最後の1回を終えたとき──。


「……っ、終ったー!!」


心鳥はその場にへたりこんだ。痛みが叫んでいるのに、心は静かに笑っていた。


その時ふと、気づいた。

昨日まで、生きるのがつらくて仕方なかったはずなのに


──今は、そのことを忘れていた。


ただの筋トレのはずだった。ただ立って、しゃがんで、それを繰り返すだけ。


でも──その筋トレの間だけは、生きるのがつらいと思っていたことすら、忘れていた。昨日まであんなに苦しかったのに。何もかも終わらせたくて仕方がなかったのに。ふと気づいた時には、心の中の重たさが、軽くなっていた。


足の痛み、汗、武蔵の声。

ひたすらそれらを追いかけるうちに、いつのまにか、胸の奥にこびりついていた暗い感情が、少しずつ溶けていたのだ。


何も変わっていない。世界は昨日のまま。


でも、自分の中の何かが、ほんの少しだけ、でも確かに、変わっていた。

胸の奥が、じんわり熱くなる。


気づけば、こらえていたものが溶け出すように頬を伝っていた。

あきらめ、自己否定、寂しさ、怒り。

全部、誰にも言えなかった。

ずっと一人で抱えていた。

「生きている意味なんて、ない」と思っていた。

「自分なんていても、どうしようもない」と、本気で信じていた。


でも今、自分の足で立っている。


震えながらでも、自分の力で最後までやりきった。


そして、そのそばには武蔵がいた。

黙って見守り、時に声をかけて、支え続けてくれた。


その全部が、心の奥に積もって、溢れた。


涙は、痛みじゃなかった。それはきっと、生きる喜びを思い出した証だった。


武蔵は床にへたり込んだ心鳥を、しばらく黙って見つめていた。「……よくやったな」静かに、けれど確かに響く声だった。


心鳥は涙を拭いながら、上を向いて笑った。

「死ぬかと思いましたよ……」


「正しくやれば死ぬことはねえ。筋トレってのは強く生きるためにやるんだ。」

武蔵はタオルを差し出した。


「そうですね」そう答える心鳥の顔は笑っていた。  

 



 校門の前まで武蔵は見送ってくれた。


「じゃあ、今日はここまでだ。無理すると明日、歩けなくなるからな」

「……もう手遅れな気がしますけど」


そんな心鳥の弱音に、武蔵はおかしそうに笑った。


「筋肉痛は、努力の勲章だ。明日は堂々と脚をひきずれ」

「それ、褒めてるんですか……?」


苦笑しながら背を向ける心鳥の肩を、武蔵は軽く叩いた。


「じゃあな、心鳥。また来いよ。お前なら、必ず変われる」


心鳥は一瞬だけ立ち止まり、振り返る。「……また、来てもいいですか?」


「次は腹筋200回だ」武蔵はニヤリと笑った。


「じゃあ、また」軽く手を振って、心鳥は学校を出た。


校門を出ると、夕焼けが街を染めていた。

橙色の光が、歩道に落ちる影を長く伸ばしている。


風が静かに吹いて、汗ばんだ頬を撫でた。今日はなんだか風が気持ちよく感じた。

いつもの帰り道なのに、今日は少しだけ違って見える。

空が広くて、風が優しくて。心鳥は、ゆっくりと歩いた。


重たい気持ちを背負っていたはずなのに、今はなんとなく──軽い。不思議だった。

でも理由は分かっている。


少しだけ、自分のことを信じてみようと思えたからだ。


昨日までの自分なら、今日のスクワットを途中で投げ出していた。

立ち止まって、うつむいて、誰かに助けてほしいと願っていた。


でも今日は、自分の足で立ち上がった。

途中諦めかけたけど、最後までやりきった。

その事実が、心のどこかで小さく光っている。


「変わるんだ」心の奥で、静かにそうつぶやいた。


誰に向けたものでもない。ただ、自分自身に誓うように。

風が、歩くたびに背中を押してくるようだった。


明日からもきっと、うまくいかないことのほうが多い。

胸の痛みも、まだ全部は消えていない。


けれど、それでもいいと思えた。ひとつひとつ、自分の手で積み重ねていけばいい。 言葉に出さなくても、その決意は確かにあった。


今日この日から、少しずつでいい、自分を変えていく。

今ここに、心鳥は誓った。――――――


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マッスルレボリューション 輝く表情筋 @shini2ng5muscle2

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