マッスルレボリューション

輝く表情筋

――また歩き出すために――

 夕焼けが空を茜色に染める頃、一人の少年が屋上の縁に佇んでいた。校舎の影が長くのび、グラウンドにはもう人影もない。


チャイムの音と、生徒たちの賑やかな笑い声は、どこか遠くへ消えていた。


冷たい風が、彼の制服の裾をわずかに揺らす。


彼は目の前の鉄柵に寄りかかり、その向こうに広がる景色を見下ろした。

指先が、錆びついた鉄柵に触れる。ざらついた感触が、肌の中に小さく刺さるようだった。


彼は、その鉄柵を乗り越えた。


背中に夕焼けの温もりを感じながら、そっと目を閉じる。まぶたの裏に浮かんだのは、ただひとつの記憶。あの瞬間。あの言葉。あの沈黙。



――――「……ずっと、君のことが好きだった」


放課後の校舎裏。誰もいないその場所で、少年は想いを告げた。ずっと胸の奥で育ててきた感情。生きる意味すら、それに預けてしまったような恋心。


相手の彼女は、しばらく目を見開いた後、困ったように微笑んで言った。


「ごめんね、心鳥くん。そんな風に見たこと、一度もないから……」


答えは、ただまっすぐな拒絶。でもそれは、単なる失恋ではなかった。


心鳥にとって、彼女の存在は心の支えであり、唯一の救いだった。幼い頃から何でも人並み以上にこなせてきた心鳥は、何かを失敗すれば、自分の価値そのものが消えてしまうような不安に苛まれ、常に誰かの顔色を伺い、「理想の自分」を演じ続けていた。


でも正直、もう全部がどうでもよくなりかけていた。


高校に入ってから、なんとなく気づいていた。みんな、やる気なんてない。夢だの目標だの、口に出すやつは笑われるし、言わなくても誰も本気じゃないのがわかる。


授業中はうつむいたまま、ため息だけが積もる放課後、スマホを眺めて時間を潰す誰か。


適当にやって、適当に流されて――


そうして何となく大人になっていくのが、当たり前みたいになっていた。


心鳥も、最初は違った。


「期待に応えなきゃ」「ちゃんとしなきゃ」って思って、頑張ろうとした。

でも、努力すればするほど浮いていく感じがして、いつの間にか頑張ることが怖くなっていた。


だから気づけば、みんなと同じように、無表情で椅子に座って、何となくで日々を過ごすようになっていた。


理想の自分とのギャップにも目を瞑って.......


――そんな自分が、心底嫌いだった。――


そんな濁った日々の中で、彼女だけは違って見えた。明るいわけじゃない。特別目立つわけでもない。それでも彼女の言葉や仕草には、どこかちゃんと「芯」があって、誰かの目じゃなく、自分の感覚で生きてるように見えた。


その姿が、心鳥にはまぶしかった。無気力で、何もできなくなって、期待に応えることもできない自分を、それでも見捨てず、ただ普通に接してくれた。


だからこそ、その恋心は、生きる理由そのものになっていった。彼女さえいれば大丈夫。そう思い込むことで、自分を保っていた。


彼女の笑顔に触れるたび、自分が「ここにいていい」と感じられた。ただ一人の理解者にすがるような気持ちで、その想いを募らせていた。


それだけに――


拒絶の言葉は、まるで存在そのものを否定されたように響いた。


「そんな風に見たこと、一度もないから」その一言が、彼にとってどれほど致命的だったか。恋心の裏に隠れていた、承認を乞うような依存。その全てを彼女の一言に突き放された。


彼はその場で何も言えず、ただ「わかった」とだけ呟いて背を向けた。


その背を見送る彼女の瞳は、なぜかほんの少し揺れていた。――――


 

 風が、頬をそっと撫でていく。夕焼けの空が、まるで火のように静かに揺れている。少年はしばらく、それをじっと見つめていた。


その瞳に映る夕焼けは、どこか安堵の色を帯びている。もう頑張らなくてもいい。誰の期待にも応えなくていい。そんな声が、心の奥底でささやくようだった。


ゆっくりと、重力に身を任せる。体がふわりと浮くような感覚の中、遠ざかっていく屋上の縁、広がる空。


その瞬間、少年の胸の奥にあったのは、

ほんの少しの静けさと、わずかな解放感だった――――


 

だがその瞬間――激しく地面を蹴る音が響いた!?


次の瞬間、空から落ちる少年の体を、分厚い腕がしっかりと受け止めていた。

仁王立ちする、鍛え上げられた肉体。スーツを着た大男が、衝撃にも動じず少年を抱きとめた。


「なっ……?」


体が揺れ、何が起こったのか分からないまま少年は見上げた。男の腕の中で、命は繋がれていた。


少年は、状況が理解できないといった表情で目を丸くしている。

無理もない。屋上から落下してきた人間を、この大男は受け止めたのだ。


男は混乱している少年をゆっくりと地面に下ろし、「名前は?」と尋ねた。


心鳥ことりです」少年はか細い声で答える。


「そうか、心鳥……今までよく頑張った」

男はそう言うと、心鳥の細い体をそっと抱きしめた。


心鳥は苦しそうな表情を浮かべながら問いかける。


「あなたは?」


男は心鳥から離れると、スーツの乱れを払い、高そうなサングラスをかけ、

ニヤリと笑った。


鍛え上げられた筋肉と焼けた肌、サングラス、そして不敵な笑みが、どこか怪しげな雰囲気を醸し出しているが、その力強い肉体は心鳥に憧憬の念を抱かせた。


しかし、心鳥の瞳に宿った微かな輝きはすぐに消え、彼は再び俯いてしまう。


「僕には無理だ……」そう思っているのだろう。


心配させまいとすぐに顔を上げた心鳥の肩に、男はポンと手を置いた。


「俺は、マッスルレボリューション組織長の、武蔵だッ!」


場違いなほど威勢のいい名乗りだった。

あまりに唐突で、思わず心鳥は唖然とする。


この男、武蔵は空気が読めないらしい。

人が屋上から飛び降りた直後だというのに、意味の分からない自己紹介。


「マッスル……レボリューション?」


「そうだ!筋肉で革命を起こす。腐ったこの国をもう一度、立て直すために」

真顔で語るその姿に、現実味はなかった。


しかし、鍛え上げられた強靭な肉体と真っ直ぐな姿勢から

確かな信念が感じられた。


「……来い。まずはトレーニングだ」そう言って、武蔵は歩き出す。


心鳥は、ためらいながらもその背中を追った。

新たな……何かの始まりを感じて。



体育館に着いた時、心鳥は目を見張った。「え……………?」思わず声を漏らした。

体育館の中一角を、トレーニング器具が陣取っていたのだ。


武蔵はそんな異様な姿をした体育館に、

上機嫌で足を踏み入れると、ベンチを叩いた。「座れ」


戸惑いながら腰を下ろす心鳥に、武蔵はどこまでも穏やかに、

だが確かな意志を込めて語り始めた。


「いいか、心鳥……生きてりゃ、どうしようもなく心がズタズタになることがある。

胸の奥を、誰にも見えないナイフで何度もえぐられるみたいにな。

自分ってやつが、全部バラバラになって、もう終わりだって思うくらいに」


その声は、押しつけがましくなく、それでいてまっすぐだった。

心鳥のまぶたの裏に、あの瞬間がよぎる。

拒絶の言葉。

張り詰めていた心が、一瞬で崩れ落ちた感覚。胸の奥が、またじんと痛んだ。


「……そんな時な、何もする気になれない。朝が来るのが怖い。自分が意味のない存在みたいに思えてくる。生きているのが、ただただ苦しくなる」


心鳥は小さくうなずいた。

言葉に出すことはできなかったが、思い当たる気持ちはいくつもあった。


「だけどな、俺は――そういう瞬間こそが、人間が強くなるきっかけだと思ってる」


在学中何度夢見たものか……自分を変えられる――そんな瞬間を。

とうとう諦らめてしまったというのに..........


なぜか……心鳥は思わず顔を上げてしまった。


「変わる……?」


「そうだ。価値観が壊れて、生き方が見えなくなって、自分がわからなくなる。

そりゃあ地獄だ。だがな、そこまで崩れたからこそ、見える景色がある。また自分を一から作り直せる」


武蔵の瞳が、まっすぐ心鳥を射抜く。


「苦しいままでいい。泣いてもいい。逃げてもいい。でもな、自分だけは、どうか見捨てるな。自分を信じきれなくてもいい。信じようとしてくれ。それで十分だ。」


心鳥の喉がつまる。


武蔵の言葉は、熱いのに、なぜか優しかった。


自分を叱るでもなく、励ますでもなく、

ただ「受け止める」ような温度を帯びていた。


「下を向くなとは言わない。だが背中は丸めるな、心が縮こまっちまうだろ」

武蔵はニコッと笑って見せた。


「また歩み出すために胸を張って拳を握るんだ。どんな絶望の中でも

生きてる限り、人は何度でも強くなれる」


心鳥は気づかないうちに大粒の涙を流していた。沈黙の中、雫が地面に落ちる。

心鳥は、拳を握りしめていた。

心の奥底で、何かが――氷のように凍っていた何かが、わずかにひび割れていた。


「……僕は……」震える声が漏れるが言葉が続かなかった。


だが、武蔵は何も言わず、その傍らに座った。ただ、肩にそっと手を置く。

その温かさに、心鳥は気づく。


あの日の拒絶の言葉に、すべてを委ねてしまっていたことに。

誰か一人に救われようとしていたことに。


でも――この温もりは違った。

ただ「そばにいる」という、筋肉だけでできた信頼の塊のような存在が、確かに今、自分を包んでいた。


夕焼けの光が、体育館の窓から差し込んでいる。まるで、心鳥の中に、ほんの少しの希望を灯すかのように。


帰り際、 

「じゃあ、明日土曜日だけど学校で待ってる。このトレーニングルームでな」

武蔵はあっさりと言った。まるで、心鳥が行くのが当たり前のように。 


「……オレ、行くって言ってない」 

「おう、言ってない。でも、行く顔してた」 


心鳥は、黙って頷いてしまった。

 


 その夜――ベッドの上。

目を閉じても、武蔵の筋肉がちらつく。救いの手。汗の匂い。大きな声と、どこまでも真っ直ぐなまなざし。


「……行かなくても、別にいいんだよな」

呟いて、また目を閉じる。


けれど、心の奥で「明日、会いたい」と思っている自分に気づいてしまっていた。

全てを諦めたはずだった。


なのに……。


あの夕焼けの屋上で、止まっていた何かが、ほんの少しだけ動いた気がした。


傷だらけでも、少しくらい怖くても。


それでも――誰かの手に引かれて、

たった一歩でも前に進めるのなら。――――――


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