童貞

灯守 透

童貞

日が沈みきった街には、まだ冬の気配が残っていた。

風はぬるさを帯びる前の冷たさで、アスファルトの匂いを少しだけ湿らせている。

季節の境目は、こうして曖昧にやってくる。こたつが仕舞われる気配もなく、薄手のジャケットだけでは少し心もとない。

玄関の鏡で髪型を確認する。

床屋で教わった整髪料のつけ方をなぞりながら、つくり込んだ前髪を指先で整える。

MA-1を羽織り、黒スキニーに白スニーカー。服はそこそこいいブランドで揃えた。

自分で言うのもなんだが、今日も“悪くない”と思う。


家を出ると、路地に車が一台停まっていた。

グレーメタリックのカローラツーリング。乗っているのは安斎だ。

助手席側のドアを開けようとした瞬間、後部座席から木村が顔を出す。

「久しぶり〜。三木、相変わらずかっこいいね〜」

木村は軽薄な笑みを浮かべている。染めた髪に、ピアス。相変わらずチャラい。

でも、どこか憎めない。そういう奴だ。

「ありがとう」

そう返して助手席に乗り込む。安斎は何も言わず、ミラーを微調整していた。

無駄のない動作。スカしているけど、車にはやたら詳しい。


「いつものバー、行くか」

安斎が低くつぶやくように言って、車が静かに発進する。

行き先は決まっている。

二十歳の頃から通っているバー。

駅近のビルの地下にあって、看板も控えめ。

いつもジャズが流れていて、三十代のマスターが淡々とグラスを磨いている。

酒が飲めない安斎は、いつも決まって“ホットマンデリン”。

僕と木村はその日の気分でウイスキーやカクテルを頼む。

大学も、仕事も、趣味も違う。でも、ここだけはずっと変わらない。

三人で話して、笑って、時々黙って──

そんな夜が、これまで何度あっただろう。


信号をふたつ越えたあたりで、木村が声を上げた。

「で、ふたりは最近どうなん? 仕事とかさー」

「来年度からまた仕事増えるんだよ。誰もできないから、ってさ。結局、できる奴に全部押しつけられるパターン。まあ、ありがちだけどね」

「おぉ〜さすが三木さん!やっぱ頼りにされてんじゃん!」

木村はおどけた調子で言いながら、ちらりと運転席を見た。

「で、安斎は? 最近どうよ」

「ぼちぼち」

「出たよ、“ぼちぼち”。そういうのいっちゃん気になるんだって。仕事は? 女は?」

「どっちも順調。お前は?」

木村は肩をすくめた。

「んー、仕事は嫌い! 辞めたい!SEとか向いてないし。楽しいのが好きなんだよね〜。彼女とは、まぁ“そろそろ結婚かな”なんて話はしてるけど……正直、まだ遊びてぇっていうかさ」

「お前、もう遊ぶ歳でもねぇだろ。少しは落ち着けって」

「そう言うなよ〜。今夜、バー着いたら無限に話せそう。安斎くん、君のこと色々聞きたいぞ〜」

助手席の僕は、二人の会話に相槌を打つふりをしながら、視線を窓の外へ向けた。

──この感じ。ずっと変わらない。

二十五歳になっても、彼らの話題の中心はいつだって“女”だ。

女の話をすれば、自分が満たされているような気になれるのかもしれない。

まるで、自分の“豊かさ”をそこにしか見出せないみたいに。

僕は思う。

二十五歳には二十五歳なりの会話があるんじゃないか。

将来のこととか、社会の歪みとか、自分の孤独のこととか。

でも彼らは、いつも表層で泳ぎ続けている。深みに潜ろうとはしない。

まるで、何かを隠すかのように。

安斎もそうだ。静かに構えているが、女の話を掘ればいくらでも出てくる。

過去も今も、あいつはずっとそういうやつだ。


車は、会話の終わりを察したように減速していった。

見慣れたレンガ壁のビル。その一角にあるバーのネオンが、夜にじんわり滲んでいる。

──いつもの駐車場に、そっと滑り込んだ。

扉を開けると、乾いた鈴の音が鳴った。

バーは縦に細長く、席はカウンターだけ。

照明は控えめで、壁際にはランプがいくつか灯っていた。

奥からジャズが流れている。音は静かだが、よく聴けば古い録音のノイズまで聞き取れる。

ここは安斎の紹介だった。

彼が「落ち着く」と言った店は、だいたいこういう雰囲気だ。

客が増えるのは、終電も途切れた深夜の時間帯。

僕らのように一軒目からここに来る人間は、珍しい。

いつもそうだ。安斎は“人の多い時間”を避けたがる。無駄な会話を嫌う。静かに飲みたいらしい。


「ビル・エヴァンスですか。いいですね」

安斎がマスターに向かって言う。

マスターは笑って、グラスを磨きながらうなずいた。

「いらっしゃい。安斎くんはいつものでいい? 二人は?」

「ジャックダニエル、ロックで」

木村が元気よく答える。

「僕も同じので」

と、僕。

マスターはうなずいて、手際よく氷を砕き、グラスに注ぎ始めた。

安斎は無言のまま、ポケットからピースライトを取り出すと、火をつけた。

「……タバコ、やめなよ〜。三木はもう吸ってないんだから。ほんと、病気になるって」

木村が眉をしかめて言う。

「病気になるために吸ってんのさ、長生きなんてする意味あるか?四十も過ぎりゃ、できることなんてたかが知れてるだろ」

安斎は、口の端で笑った。

またそれだ。

“達観した風”の言い回し。

木村は一度もタバコを吸ったことがない。

僕と安斎は高校のとき、背伸びするように一緒に吸い始めた。

大人になったつもりで、コンビニの裏でピースを分け合ってた。あの頃はそれが“かっこよかった”。

「そういえばさ、なんで三木、やめたんだっけ?」

木村が思い出したように言う。

けれど、僕はすぐに答えられなかった。

「付き合えそうだった女がタバコ嫌いだったんだと」

安斎が横から言った。

……やっぱりこいつは、そういうことを平気で言う。

誰もが喉の奥に引っかけて呑み込んでしまうようなことを、あっさりと言葉にしてしまう。

ためらいも遠慮もなく、まるでそれが当然であるかのように。


「あー、そーだそーだ。七海ちゃんだっけ? いたね、あの子。可愛かったじゃん」

木村が懐かしむように笑う。

「お前はいつまで引きずってんだよ。もう二十五だぞ。さすがに切り替えろって。

童貞守ったって価値が上がるわけじゃないし、時間だけが過ぎてくぞ。

別に焦る必要はないけどさ、後ろ向いてても何も始まんねぇだろ」


……分かってない。

ほんとに、何も分かってない。

お前らみたいに女と遊んでれば偉いのか?

童貞だったら“人間未満”なのか?

こっちは別に困ってなんかいない。ただ、暇じゃないだけだ。

付き合ってどうにかなるほど、僕は器用じゃないんだよ。


グラスがテーブルに置かれた。

琥珀色の液体が、氷の隙間で小さく揺れている。

僕は黙ってそれを口に含んだ。

ピートの香りが鼻を抜ける。喉の奥が、じんと熱を帯びる。

──七海ちゃん。

笑うとちょっとだけ八重歯が見えて。

寒い夜でもアイスコーヒーを頼むような、ちょっと変な子だった。

思い出そうとしたわけじゃないのに、顔が浮かんで、離れなかった。

僕は、国立大学の工学部に通っていた。実家から通える距離にあり、学費も安い。

「堅実」と言えば聞こえはいいが、ようは“安全策”だった。

サークルには入らなかった。

あんなの、遊んでばかりの馬鹿が行く場所だと思っていたから。

僕は安斎や木村とは違う高校に進んだ。

彼らが地元の進学校に通う一方で、僕は工業高校に進んだ。

実質、男子校みたいなものだった。

女の子と話す機会なんて、三年間で数えるほどしかなかった。

だから、大学に入ってからも気の合う高校の仲間と、毎晩のようにオンラインゲームをしていた。

画面越しの会話は楽だった。気を使わないし、何も残らない。

バイトは大学近くのファミレス。

近いし、楽そうだったから。それだけの理由だった。

でも、もしかすると──ゲームをしている時より、ずっと楽しかった気がする。

ある日、休憩室のドアを開けると、彼女がいた。

明るめのブラウンの髪。

わたあめみたいに白くてやわらかそうな肌。

少し高めの、笑うと弾ける声。

そして、笑顔の端にのぞく、きれいな八重歯。

「またゲーム、夜遅くまでやってたでしょ〜。目がとろ〜んとしてるもん」

「ちょー眠い」

「今日ホール二人なんだから、ちゃんと働いてよね」

「悪い、途中で寝てたらごめん」

「は!? 殺すぞ!」

そんな調子だった。

気づけば、シフトが重なることが多くなっていた。

読む小説も同じだった。

彼女が『夜は短し歩けよ乙女』を読んでいて、僕も真似して手に取った。

自然と話すようになって、笑い合って、肩がぶつかる距離が当たり前になっていた。

「今度さ、駅前にクレープ屋できたの。付き合ってよ」

「え〜、めんどくさい。ゲームしてたい」

「暇じゃん!」

「暇じゃねーよ、僕は忙しいんだよ」

──なんだかんだ言いながら、僕はついて行った。

クレープ屋。映画。夜の水族館。

とくに夜のイルカショーは、少しだけ手が触れた。

その頃、安斎や木村にも得意げに話していた。

「七海ちゃんって子と何回か遊んでてさ、マジでいい子なんだよ」

「うわ、いいじゃん。めっちゃ可愛いんでしょ? 友達も可愛い子多そう? 紹介お願い〜」

と、木村。

「何回もデートしてんだろ。告白しとけって。

奥手すぎると“脈ナシなのかな”って思われるぞ」

と、安斎。

「いやいや、お前らじゃ落とせないタイプなんだよ。

七海ちゃんは、誠実な男が好きなんだよ。お前らみたいなヤリチンとは違うからな」

──あの頃は、心の底からそう思っていた。

それに、“彼女”は僕のことを気に入ってくれてるって、信じて疑わなかった。

ある日のバイト終わり、彼女が言った。

「ねぇ、友達がさ、彼氏に浮気されて別れちゃって。新しい出会いもないって凄い落ち込んでるの。

だから、三木が話してた安斎くんと木村くん呼んで、みんなで飲みに行こうよ!

私も会ってみたいし!」

──そうして、僕らは“六人”で飲みに行くことになった。

飲み会の記憶は、正直あまり残っていない。

ただ、笑っていた気がする。

少なくとも、楽しかった……はずだった。

翌朝はひどい二日酔いだった。

寝不足と頭痛にぐちゃぐちゃの胃。

顔もむくんでいて、鏡を見るのが嫌だった。

バイト先の休憩室。

ドアを開けた瞬間、七海ちゃんが勢いよく詰め寄ってきた。

「ねぇ! 安斎くん、めちゃくちゃかっこよくない? あんな雰囲気のある人、初めて会った!」

声が弾んでいた。

昨日の酒なんて、まだ抜けていないはずなのに、彼女の目は澄んでいた。

「他の子たちはね、木村くんがいいって言っててさ。美幸なんてもう……木村くんと寝たらしいよ、ふふっ」

一瞬、言葉を失った。

それでもなんとか口を動かして、僕は言った。

「……安斎? やめときなよ。あいつ、すごい遊んでるから。

この前なんて、“彼女がメンヘラで面倒だから”って捨てたばかりだよ」

「──じゃあ、今フリーなんだ!」

七海は声を上げて笑った。

「そっかぁ……まぁ、メンヘラはさすがに疲れるもんね。仕方ないよ」

──そんなはずないだろ。

七海ちゃんは、そういう子じゃなかったはずだ。

誰が誰と寝たとか、そんな話を笑いながらできる子じゃなかった。

初対面の男に気軽に心を許して股を開きたがる、そんな軽い子じゃ──

それ以来、七海ちゃんが僕を誘うことは一度もなかった。

LINEも、ぱったり途絶えた。

僕から送ったメッセージにも、既読すらつかなくなった。

数週間後、バイト先で彼女を見かけた。

休憩室のソファに座って、うつむいたまま。

肩が小刻みに震えていた。

今にも泣き出しそうだった。

気づけば僕は、声をかけていた。

「……どうしたの? なにかあった?」

七海は顔を上げなかったまま、ぽつりと聞いてきた。

「ねぇ、三木。……私のこと、好きだったの?」

一瞬、時が止まった。

その問いに、なんて返せばいいか分からなかった。

「誰が言ってたの? 安斎? 木村? ……連絡取ってるの?」

「うん」

彼女はゆっくりと頷いた。

「グループLINEから、安斎くんを追加して。ずっと連絡取ってた。

でもね、なかなか2人では会ってくれなくて──それでも頑張ってたの。

そしたらさ、昨日言われたの。“友達の好きな女に手出す趣味はねーから”って」

彼女の声が震えた。

「“え、三木のこと?”って聞いたら、“あいつまだ言ってないの?”って……。

だから、安斎くんが悪いわけじゃないの。

悪気があったわけじゃないと思うの。

三木、お願い。……私、安斎くんのこと、ちゃんと知りたいの。

だから、応援してほしいの。ほら……三木、安斎くんと仲良いでしょ?」

その夜、僕は安斎にLINEを送った。

──七海? なんかめっちゃ遊んでるっぽいわ。もう俺、興味なくなったし。

あいつのこと、遊びでいいんじゃない?

既読はすぐについた。

でも、安斎からの返信はなかった。

翌週、七海はバイトを辞めた。

理由は聞かされなかった。

僕も、何も言わなかった。

***

「──おーい、三木。聞いてんのか?」

木村の声で、我に返った。

いつの間にかグラスの氷はほとんど溶けて、

琥珀色の液体は薄まっていた。

「……あ、うん。なんだっけ?」

答えながら、グラスを持ち上げる。

水のようにぬるくなった酒が、妙に苦かった。

安斎が煙をゆっくりと吐き出しながら言った。

「女ってさ、みんなタバコやめろって言うよな。“体に悪い”とか言って」

僕は、グラスを傾けながら答えた。

「七海ちゃんは、匂いがダメだって。タバコ吸ってる人とはキスも無理って言ってた」

煙の向こうから、安斎がこちらを横目で見た。

「……それ、本当に?」

「嘘なんかつかねーし」

「ふぅん」

その言葉の温度は、火のついていないフィルターのように薄かった。

「ていうかさ!」

木村がテーブルに肘をついて、声を弾ませた。

「お前の話、まだ聞いてねーぞ安斎! 最近なんか隠してんだろ?」

安斎は短く鼻を鳴らして、言った。

「──結婚するんだよ、俺」

「……はあ!? マジで?!」

「マジだ」

「うわーおめでとう! ちょっと泣きそう!」

「おめでとう」

僕もつられて言った。言葉の温度が、自分でも分からなかった。

「てか誰とだよ。彼女いたのか、お前?」

「ちょっと前に付き合い出した子。綺麗で、真面目で、頭もいい。品があるっていうか……まあ、落ち着く子なんだよ」

「ベタ惚れじゃねーか!」

木村が笑う。

「タバコは?」

僕が聞いた。

「“俺の気持ちが落ち着くならそれでいい”ってさ。でも、ちょっとだけ禁煙考えてる。──この子、悲しませたくないし」

「お前、やめる時はスパッとやめそうだもんなぁ」

と木村。

「いや、こいつはやめないよ。……てかさ、その彼女、本当に“いい子”なの? お前が可愛いって思ってるだけで、客観的に見たら大したことないんじゃね?」

僕の声は、思っていたより冷たかった。

安斎は笑わなかった。ただ静かに、言い返した。

「俺が可愛いと思ってんなら、それで充分だろ。もし“そうでもない”って言うやつがいたら──そいつの歴代の彼女、全部見せてみろって話だ。人の恋人悪く言うやつの相手なんて、たかが知れてる。履歴書に空欄しかないなら、それはそれで哀れんでやるよ」

「……空気わっる。三木が噛み付くからさ〜。もっと楽しい話しよ」

木村が軽く笑って、話題を変えようとする。

けれど、僕は引き下がらなかった。

「お前らさ、ほんっと女の話ばっかりじゃん。他に話すことないの? 結局、自分が付き合ってきた“つまんない女”の話でマウント取ってるだけじゃん。そうでもしないと保てないくらい、心が貧しいんじゃないの?」

木村が少し黙ってから、ふわっと笑った。

「──でも、そういうのこそコンプレックスって言うんじゃないの、三木?」

安斎が、灰皿に煙草を押しつけながら言う。

「それにさ。俺たち、別に女の話しかしてないわけじゃない。趣味の話もするし、仕事の話もする。女の話がその一部にあるだけだ。……お前がその“ひとつ”すら持ってないから、余計に刺さるんじゃないのか」

「いや、お前らの“女の話”は多すぎるんだよ。……僕の周りは、そんな話、してこない」

「……お前の周りって、誰? 俺ら以外に友達いないだろ。職場の人間か? 誰が“浮いた話ゼロ”の二十五歳の同僚に、恋愛の話なんかすんだよ」

「やめろやめろ!」

木村が慌てて割って入った。

「安斎、言いすぎだって! 空気が腐る!……な? 話、変えようぜ」

──そのとき。

店の扉が開いた。

冷たい風が店内に流れ込む。その向こうに、綺麗な女性が二人、立っていた。

マスターに軽く会釈を返しながら、ふたりの女性が店内へと入ってきた。

黒髪のロングを揺らして静かに歩く女性と、肩にかかるブラウンヘアが印象的な、よく笑う女性。

マスターはカウンターの左端を指し示し、彼女たちはそこへ並んで腰かけた。

「何を飲まれますか?」

「カシスオレンジで」

「私はジントニックお願いします」

注文のやりとりのあいだにも、甘い香水の香りがふわりと広がり、場の空気がどこか柔らかくほどけていく。

やがて届いたドリンクのグラスがカウンターに並ぶと、明るい声が隣から聞こえた。

「それ、何を飲まれてるんですか?」

視線の先には、安斎の前に置かれた白い陶器のカップ。

「コーヒーです。俺、お酒あまり好きじゃないんですよ」

「えっ、そうなんですか? 意外!」

安斎は少しだけ目線を横に流してから言った。

「“意外”ってのは、よく知ってる相手に使うもんですよ」

「ごめんなさい、そうですよね」

女性は少し照れくさそうに笑いながら、カシスオレンジにストローを差し込んで、くるくると静かに混ぜた。

すると、隣でその様子を見ていた木村が、相変わらずの調子で口を開いた。

「お姉さんたち、めちゃくちゃ綺麗だね!お名前、なんて言うの?仲良くなりたいな〜」

茶色い髪の女性が楽しげに笑いながら応える。

「私たち、左から舞と香里奈です!」

「おお、こっちは左から安斎、木村、三木って感じだよ!」

木村がやや大袈裟に両手を広げて、三人を指し示す。


舞──黒髪の女性は、言葉こそ少ないが、所作のすべてに静かな品が宿っている。

一方の香里奈は、まばたきの合間にも笑顔を挟んでくるようなタイプだ。

「みなさん、おいくつなんですか〜?」

「俺らは二十五。お姉さんたちは?」

「私たち二十三です! ええ、若い〜! 大人っぽくて落ち着いてるからもっと上かと思ってました!」

「それ、安斎に言ってるんでしょ?」

木村が茶化すと、安斎は苦笑いを浮かべた。

「それって、褒められてんのかな」

舞は恥ずかしそうに視線を落としながらも、香里奈の背後から話を聞いていた。

目が合ったような気がしたのは、気のせいではないだろう。

「皆さんはお仕事、何されてるんですか〜? なんか頭良さそう! ね?」

香里奈がそう言って、隣の舞に目を向ける。舞は少し恥ずかしそうに頷いた。

「それも安斎のこと言ってんだろ」

木村がにやけながら言う。

「これは褒めてるな」

安斎もまんざらじゃなさそうだった。


「僕は大手メーカーで働いてるよ。この二人は、どっちもエンジニア」

と僕が答えた。

「すごーい! やっぱり頭良いんだ!」

香里奈が素直に驚いてくれる。

「二人は?」

木村が尋ねると、香里奈が嬉しそうに答えた。

「私は美容師で、舞は介護士。高校の同級生なんです!」

「ぽい! なんかそんな感じするわ〜」

木村のテンションが上がる。

「休みの日はよく飲みに行ったりするの?」

安斎が軽く尋ねた。

「私は結構行くよ。舞はあんまり飲めないけど。あとね、ジム行ってる! ずっとテニスやってたから運動得意なの」

香里奈はそう言って、得意げに胸を張った。

「テニス! 僕もやってたよ。今度勝負しよ? 県大会まで行ったことあるからね」

木村も負けじと自慢をぶつける。

「舞ちゃんは?」

安斎がやさしく聞くと、舞は少し照れたように目を伏せた。

「私は……お散歩とか、一人で映画観に行ったりするのが好きです」

その言い方がどこか可愛らしくて、なんとなく惹かれた。香里奈とは対照的だ。美容師で、飲みが好きで、テニスもやってて、話し方も軽い。きっと、そういう場に慣れてるタイプなんだろう。

……まぁ、僕には香里奈は無いな。ちょっと騒がしすぎるし、頭が軽そうに見える。逆に舞ちゃんは──その控えめな感じがすごくいい。綺麗で、品があって、一人の時間を大切にしてる。こっちのほうが、ずっと素敵だ。


「ええ、可愛い。舞ちゃん」

木村が素直に漏らすと、

「うちは? 可愛いでしょ!」

香里奈が拗ねたように口を尖らせた。

「笑顔が可愛いよ。一緒にいたら楽しそうだよね」

安斎が柔らかく返すと、

「え、きゅん……」

香里奈は頬を赤らめた。

「皆さんは趣味とかあるんですか?」

舞ちゃんが話題を変えるように聞いた。

「喫茶店で読書したり、映画観たり。舞ちゃんとちょっと似てるかも」

僕がそう言うと、舞ちゃんが恥ずかしそうに会釈を返してくれた。

「僕は旅行好き! 死ぬまでに全部経験しときたいんだよね」

木村が胸を張ると、

「いいね、アクティブだね!」

香里奈がすかさず反応する。

「素敵だと思います」

舞ちゃんも少し遅れて反応した。

「安斎くんは?」

香里奈が振ると、安斎は肩をすくめた。

「美味しいコーヒー屋とか、古着屋巡ったりかな。昔は車好きだったけど、通勤で乗ってると金かかるからさ。最近はバイクにハマってる」

そう言いながら、ポケットからピースを取り出して火をつけた。

「えっ、めっちゃかっこいい。タバコ似合いますね」

香里奈が目を輝かせて言った。

「ありがとう」

安斎は少し照れたように笑って、煙をゆっくり吐いた。

「お前、何照れてんだよ」

木村が突っ込むと、

「うっせ」

安斎は短く返して、もう一度煙を吐いた。

楽しい夜の時間は、いつもそうだ。気づけば、終電が近づいていた。

「香里奈、そろそろ電車」

舞がそっと声をかける。

「え、もうそんな時間!?」

香里奈がスマホを見て目を丸くする。

「ええ、寂しいな〜。まだ一緒にいたかったのに!」

木村が名残惜しそうに言うと、

「もしよかったら、インスタ交換しません? また飲みに行きたいなって……ね?」

香里奈がそう言って、舞のほうをちらりと見る。

舞は、ほんの少しだけ頷いた。

「また飲もうね! 絶対だよ!」

木村が勢いよく手を差し出す。

僕ら五人全員でインスタを交換した。名前の知らない他人から、ほんの少しだけ知っている人に変わる。画面の中で繋がっても、それが何かになるとは限らないけれど。

「舞ちゃんの分は、僕が払うよ」

伝票を取って立ち上がった僕に、舞が慌てたように首を振る。

「えっ、申し訳ないです。大丈夫ですよ」

「え、私は?」

香里奈が冗談交じりに口を挟む。

──ほんと、品がない。君にはきっと、いくらでも奢ってくれる男が周りにいるだろうに。

「僕が出すよ、楽しかったし」

木村が笑いながら言えば、

「俺も出すよ」

安斎が軽く財布を取り出す。

「大丈夫ですって。木村くんに出してもらいます!」

香里奈が明るく言い放つ。

「なんで俺だけ!?」

木村が大げさに嘆いてみせる。

「ほんとに、私、大丈夫です」

舞は最後まで控えめだった。

「いいって、気にしないで」

僕がそう言うと、彼女はすこしだけ申し訳なさそうに微笑んでくれた。

香里奈は満足げに、舞は少しだけうつむきながら店を出て行った。

「ねえ、絶対舞ちゃん、僕のこと好きだったよね? あれは確定でしょ」

「んー……俺には、木村と気が合ってたように見えたけど」

安斎の返しは、案の定だった。そうやって、必ず否定から入る。僕の幸せが、どこかで気に入らないんだ。いつもヤリマンにしか好かれなかった反動だろう。

「まあまあ、なんでもいいじゃん! また飲もうね!」

木村が間を取り持つように笑った。

僕らはもう一杯だけ飲んで、それから店を出て、それぞれの家に帰った。

家に帰って、MA-1を椅子に放り投げるなりスマホを開いた。

躊躇いもなく、舞にDMを送った。

「今日はありがとう!とっても楽しかった!お会計のことは気にしないでね!」

すぐに返信が来た。

「ご馳走様でした、申し訳ないです」

「良いよ!今度ご馳走してくれれば!」

ほどなくして、返ってきたのはスタンプだけだった。

少し間を置いて、続けてみた。

「今度良かったらさ、二人で会わない? あの三人のノリ、正直キツくなかった? 僕ら二人の方が気も合いそうだし、楽しいと思うんだよね」

返ってきたのは、思っていたのとは違う言葉だった。

「私、木村君みたいな明るくてアクティブな、私とは正反対なタイプの人に惹かれるんです」

一瞬、画面を見つめたまま動けなかった。

心がざわついた。だけど、それを悟られたくなくて、落ち着いたふりをしてこう返した。

「木村、普段はああじゃないよ? あれ、酔っ払ってただけ。それに、あいつ、けっこう遊んでるしさ」

それっきり、通知は鳴らなかった。


結局舞みたいな処女は木村みたいな分かりやすいクズ男に惹かれるのか、男はクズばっかりって言うけど、クズを選んでるのはお前らだろ。

女って軽率な馬鹿ばっかりだ。


数週間後、インスタのストーリーであの夜の続きのような光景を見かけた。

安斎と木村、香里奈と舞が、別の店で笑っていた。

舞と木村の肩は、そっと触れていた。


僕はそのまま、人生で初めてシティヘブンを開いた。




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童貞 灯守 透 @t4518964

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