冷蔵庫の中で恋が溶けた
宮本ヒロ
第1話 5月 ~たまごサンド~
「え、
――友人である
「ち、ちょっと!しーー!」
私は慌てて栞を制止する。
「ねえ、ほんとに顔、一度も見たことないの?」
ミルクティーのカップを持ち上げたまま、栞がじっと私を見る。
その視線は問いかけというより、もはや呆れに近かった。
「ないよ。玄関も時間ずらしてるし、生活音もほとんど聞こえない」
私はストローでアイスコーヒーの氷をかき回しながら答える。
飲み物の氷が小さく音を立てて、初夏の午後の空気に溶けていった。
「えー……それって逆に気まずくない?」
「そう、それ。それなんだよね」
思わず口に出して、笑ってしまった。
別に栞に相談するつもりで話したわけじゃなかったけど、彼女の反応はいつだって的確だ。
「一応、同じ家に住んでるんだし、“いないフリ”し続けるのも、なんか変じゃない?」
「まあ、契約で顔合わせ禁止ってなってるし、こっちも守ってるけど……なんていうか、同居してる実感もないのに、気は遣うっていうか」
思い返せば、引っ越してからこの一週間、
私は玄関の扉を開ける前に、毎回イヤホンを片耳だけ外して、生活音を探っている。
足音、テレビの音、水の流れる音。
何も聞こえないと、かえって気まずくなって、余計に静かに動いてしまう。
まるで美術館にでも住んでいるような感覚だった。
「うん、普通さすがに挨拶くらいはねー。……そういえばさ、料理とかってどうしてるの?」
「私? 普通に自炊してるよ。コンロも流しも一応共用だから」
「へえ。てことは、向こうとバッティングしないの?」
「それがね、なんか全然。使ってる気配もあんまりないんだよね。洗った形跡もほとんどないし」
言いながら、私自身もそれに不思議さを感じていたことに気づいた。
同じ空間を共有しているのに、まるでゴーストタウンみたいな生活感のなさ。
それがむしろ、奇妙な“気配の薄さ”を際立たせていた。
「じゃあさ、相手が自炊してないんだったら、たまにお料理くらい振る舞ってもよくない?」
「え?」
「“おすそ分けです”って感じで、冷蔵庫に入れとくの。共有なんでしょ、そこ」
「……まあ、うん。でも、いきなりそんなの入ってたら引かないかな……?」
栞はストローを指でくるくる回しながら、いたずらっぽく笑った。
「引かないって。ていうか、誰かがいるのに“誰もいないフリ”してるのって、そっちの方が変だと思うよ。ほら、ちょっとしたメモでもつけてさ。“ご自由にどうぞ”とか、“余ったのでよければ”とか」
「……それ、普通に変じゃない?」
「変かもね。でも、“挨拶しない代わりのおすそ分け”って、ちょっと良くない?」
私はその言葉を反芻した。
料理を振る舞うなんて、大げさなことをするつもりじゃなかった。
ただ、“何もない”ことに少しだけ気まずさを覚えたのは、本当だった。
曖昧にうなずきながら、私はアイスコーヒーのカップを手の中で転がす。ガラス越しに伝わる冷たさが、気持ちの揺れを少しだけ鎮めてくれた。
「顔合わせNGでも、おすそ分けしてメモでも貼ってさ。“冷蔵庫コミュニケーション”ぐらい、いいと思うけどね」
「なにそれ、変なネーミング」
私は笑いながらそう返すけど、栞の言葉は意外と、胸の奥に引っかかっていた。
“おすそ分け”という距離感。
それなら、もしかしたら——。
“おすそ分け”という言葉。
それは思っていたよりも、するりと胸の奥に入り込んできた。
……たしかに、この暮らしには、最初から何かが欠けていた気がする。
安全で、静かで、合理的で──でも、どこか“味気ない”。
そんなことをぼんやり考えながら、私はカップの残りを飲み干した。
***
最初にその物件の話を聞いたのは、二ヶ月ほど前のことだった。
年度末の契約更新が通らず、今の職場を辞めることになって、次の仕事も決まっていなくて、貯金も心もとない。
今のワンルームに住み続けるのは、経済的にかなり厳しかったし、引っ越し先を“選ぶ”ような余裕はなかった。
親にも頼れない状況だった私は、最終手段として、叔母に電話をかけた。
叔母は不動産関係の仕事をしていて、昔から何かと気にかけてくれていた人だ。
「……今、ちょうど空いてる物件があるのよ。ちょっと変わってるけど、よかったらどう?」
そう言って紹介されたのが、今私が住んでいる部屋だった。
一軒の住宅をふたつに分けたような構造で、
玄関は共通だが、生活空間は完全に分離されている。
キッチンと冷蔵庫、洗濯機と風呂だけが“共用”という形になっているが、
それも利用時間をずらすという契約になっていた。
なかでも一番の特徴は、「同居人と顔を合わせないこと」。
プライバシーの完全な確保を前提とした、非接触型のルームシェア契約だった。
「家賃もかなり安いし、期間限定でもいいからどう?」
叔母はそう言って背中を押してくれた。
少しだけ迷ったけれど、選択肢はないも同然だった。
私はその日から、まるで“気配だけがすれ違う暮らし”を始めることになった。
顔も知らない、声も知らない、名前すら知らない相手との同居。
不思議な生活だとは思ったけれど、私はそれをどこかで“楽”だとも感じていた。
深入りしない。干渉されない。気を遣わない。
……はずだった。
だけど、栞の言うとおり。
「誰かがいるのに、いないフリをする」ことには、やっぱりどこかで無理があるのかもしれない。
***
派遣契約を解除され、つなぎとして始めた本屋のアルバイトを終えた私は自宅へ向かっていた。
夜の帰り道は、昼間の雑踏が嘘みたいに静かだった。
電車を降りて、コンビニの明かりを横目に歩きながら、私はふと玄関での所作を思い浮かべていた。
ドアノブを回すとき、音が鳴らないようにそっと力を抜く。
靴を脱ぐとき、床にトン、と落とす音が出ないようにゆっくり動く。
たったそれだけのことに、ずいぶん神経を使うようになった。
玄関前に到着し、シミュレーション通りに静かに鍵を開けて、玄関に入る。
──物音、なし。
それを確認してから、そっとスニーカーを脱いだ。
正面にある階段は上階へ続いていて、相手の部屋はその向こうにある。
何度か上から足音が聞こえたことはあるけれど、それも一日に一度あるかないか。
まるで、どこかの無人施設で暮らしているような感覚になる。
照明のスイッチを押すと、蛍光灯の白さが一斉にキッチンを照らした。
まず目に入るのは、壁際にどっしりと構えた白い冷蔵庫だった。
白……というには少しくすんでいて、
取っ手の部分は使い込まれた家電特有の黄ばみが出ている。
古い機種らしく、いつもブゥゥン……と低いモーター音を鳴らしているのも特徴だった。
この空間で一番自己主張が強いのが、この冷蔵庫かもしれない──そんなことをぼんやり思いながら、私はその横に目をやった。
冷蔵庫の隣には、設備の使用予定を書き込む共用カレンダーが置かれている。
一週間分の枠が鉛筆で埋められていて、今日の欄には「夕食:19:00〜20:00」とだけ記されている。
今はもう21時を過ぎているが、シンクにもまな板にも、使った形跡は見当たらない。
たぶん、何も作らなかったのだろう。
静かなキッチンに一人立っていると、さっきの会話が頭の中で再生された。
——おすそ分けでもしてみたら?
冷蔵庫は、今日も低いモーター音を響かせていた。
いつも通りの音。
でも、なぜかその音だけが、唯一“誰かがいる”ことを証明してくれているような気がした。
エプロンをかけて、キッチンに立つ。
何を作るかは決めていなかったけど、冷蔵庫に余っていた卵と、賞味期限の近い食パンが目に入った。
――鍋に水を張って、卵をそっと沈める。火をつけてしばらくするとぐらぐらとお湯が沸き、そこから7分を目安にタイマーをセットした。コトコトと卵が揺れる。静かな部屋の中に、その音だけが優しく響く。
茹で上がった卵を冷水で冷やし、殻を剥く。
温度が伝わる手触り。つるんと滑るようにむける感触が、なんとなく好きだった。
ボウルの中でフォークを使って、ゆで卵を粗く潰す。
そこにマヨネーズをたっぷり。塩をほんのひとつまみ、黒胡椒を軽く。冷蔵庫の奥に残っていた粒マスタードを、思いつきで小さじ半分だけ加える。
香りをかいで、少しだけ鼻がツンとした。
食パンは、トースターでほんの少しだけ焼く。表面が軽くカリッとしていて、内側はまだふんわり柔らかい程度。
その片面にバターを塗る。焼きたての表面に触れた瞬間、バターはじんわりと溶けて、薄く艶を帯びていく。
見た目だけで、もう美味しそうだった。
焼き上がったパンに、たっぷりのたまごフィリングを乗せて、もう一枚のパンを重ねる。
少し強めに押して、全体をなじませてから、斜めにカットした。
断面からは、黄色と白がほどよく混ざったたまごの色が覗く。
完成したたまごサンドの食欲をそそる香りと、じんわりとした湯気が、鼻をくすぐった。
──これで、ひとまず夕飯。
特に誰かのことを思っていたわけじゃない。
お腹が空いていて、卵が余っていて、それだけだった。
でも、なぜだろう。
ふと気づいたら、私はサンドイッチを6切れ作っていた。
そんなに食べられるわけでもないのに。
……しまった、と思ったときには、もう遅かった。
私は手を止めて、何気なく視線を横に流す。
すると、視界の端に、いつもの場所で冷蔵庫が静かに佇んでいた。
まるで、“気づかないふりをしていた思い”と目が合ったような、そんな感覚だった。
冷蔵庫は、いつも通りブゥゥン……と音を鳴らしている。
それは生活音というより、この部屋に確かに“他人がいる”という証拠のようだった。
「……おすそ分け、ね」
自分でも驚くくらい、小さな声が、ぽつりと漏れた。
私はふと顔をしかめて、自分が食べる三切れだけ皿に移す。
もう三切れ分は、ラップの上に一組ずつ並べて、そのまま丁寧に包んだ。
冷蔵庫を開けると、わずかにひやりとした空気が頬に触れる。
サンドイッチは、扉内の一角、飲み物と調味料のあいだにちょうどいいスペースを見つけて、そっと置いた。
……さて。
扉を閉めようとしたところで、ふと手が止まった。
やっぱり、メモはあった方がいいのか。
でも、名前を書くのはどうなんだろう。そもそも、こんなことして逆に気味悪がられないか……。
迷いながら、キッチンの隅に置いてあるメモパッドに手を伸ばす。
──“よろしければどうぞ”
書き出してみた文字は、なんだかあまりにもそっけなかった。
その下に、もう一言加える。
──“余ったので、お口に合えば嬉しいです”
悩んだ末、最後に小さく自分の名前を書いた。
“碧”だけ。苗字は書かない。
文字を書き終えても、すぐには貼る気になれなかった。
指先が一度ためらう。
……これって、押し付けがましいって思われないかな。
でも、引っ込めるのも何だか変な気がして、
結局私は、そのメモをラップの上にそっと添えた。
もう一度冷蔵庫の扉を閉じる。
低いモーター音が、どこか遠くで続いている。
エプロンを外して、洗濯かごに放り込む。
湯船は張っていなかったから、今日はシャワーで済ませた。
寝る前のスマホ画面には、特に通知もなかった。
だけど、布団に入ってもなぜか、少しだけ落ち着かない気持ちが残っていた。
たったサンドイッチをひとつ置いただけなのに。
それだけのことで、何かが少しだけ、変わってしまったような夜だった。
***
翌朝、私はいつものようにキッチンへ向かった。
玄関を出て階段を降り、部屋の前のドアをそっと開ける。
照明のスイッチを押すと、蛍光灯の白い光が一斉に部屋を照らした。冷蔵庫のブゥゥン……という低い音が、変わらずそこにあった。
私は朝食の準備をしようと、そのまま冷蔵庫の扉を開けた。
昨夜、下段のスペースに入れておいたラップ包みのサンドイッチと、小さなメモ。
そのどちらもなくなっていた。
「……え?」
思わず声が漏れた。
扉を開けたまま、しばらくその空白を見つめる。
他人が使った形跡を感じさせない、いつもと変わらない冷蔵庫の内部。
――食べてくれたんだ。
「……そっか」
私は扉をそっと閉じた。
何か返事があるわけでもない。
けれど、明らかに“誰か”がそこにいたことだけは、感じ取れた。
冷蔵庫は、いつもと同じように低い音を鳴らし続けている。
でも今朝のその音は、少しだけ違って聞こえた。
少しだけ、やわらかくて、温かくて。
私は軽く笑って、キッチンを後にした。
洗面所で顔を洗って、簡単に髪を整え、シャツに着替える。
支度を終えて、再び靴を静かに履くころには、なんとなく心も軽くなっていた。
顔を合わせることも、声をかけることもないけれど、
はじめて誰かと一緒に暮らしている実感がもてたような気がした。
***
「え、ほんとに消えてたの? サンドイッチとメモごと?」
喫茶店の窓際で、栞が声をひそめながら身を乗り出してくる。
「うん。朝、冷蔵庫開けたら、なかった」
私はストローをくるくる回しながら答える。氷の音がグラスに響いた。
「うわー、それ、ちょっと感動するやつじゃん。なんかさ、映画のワンシーンみたいな……」
「大げさすぎ」
思わず笑ってしまったけれど、ほんの少し、心の奥がくすぐったい気もした。
「でも、よかったじゃん。あんた、誰かに何か渡すの、ちょっと勇気いったでしょ?」
「……まあ、うん。ちょっとね」
手元のナプキンを触りながら、私は曖昧にうなずいた。
思えば、サンドイッチを冷蔵庫に置いたときも、メモを書いたときも、ずっと手がそわそわしていた気がする。
「ほら、やっぱり“冷蔵庫コミュニケーション”成功してんじゃん。命名:真鍋栞」
「勝手に命名しないでよ……」
笑いながら言ったけど、まんざらでもない。
「でも、メモとか返事とかはなかったの?」
「ううん。何も。容器ごとなくなってたから……読んではくれたと思うけど」
「無言で受け取るって、逆に信頼してるっぽくない?」
「信頼……かなあ?」
曖昧な言葉のまま、少しだけ沈黙が落ちる。
それでも、今朝のあの冷蔵庫の音が、いつもより柔らかく響いていたことは、確かだった。
「で、どうすんの。これから毎日、おすそ分け生活?」
「それは……ないない。普通に恥ずかしいし」
「ふふん。とか言って、また作りすぎたりするんでしょ。で、また余ったらって、ラップして置いちゃうんじゃない?」
「……うっ」
図星だった。
私はアイスコーヒーに視線を落としながら、唇を尖らせる。
「ねえ、でもさ。名前とか、ちょっと気にならない?」
「……え?」
「顔も知らない、声も知らない、でも料理は食べてくれるって、なんか……知りたくならない?」
言われてみれば、その通りだった。
“誰か”ではなく、“あの人”と呼べるような何かが、少しだけ欲しくなっていた。
「……うん、ちょっとだけ、ね」
私は小さくうなずいた。
「じゃ、また何かあったら報告よろしく〜。あたし、わりと楽しみにしてるから」
「他人事だと思って……」
笑い合ったあと、私は時計を見て立ち上がる。
「そろそろバイト行ってくる」
「いってらっしゃい、冷蔵庫の人!」
「やめてよ……!」
そんなふうにして、昼の会話は終わった。
***
――気づけば、時刻は日付が変わる寸前になっていた。
いつものように在宅で作業していたが、クライアントの要望が立て込み、処理が長引いた。
共用カレンダーには、今朝の自分の字で「夕食:19:00〜20:00」と記しておいたはずだ。
この時間ならルームシェアをしてるもう一人の住人もいないだろうが、今さら台所を使うには、遅すぎる。
──いや、もともと使うつもりすらなかったのかもしれない。
この家に越してきてしばらく経つが、キッチンに立った回数は数えるほどしかない。
生活は整っている。家電も充実しているし、掃除も行き届いている。
でも、“誰かと暮らしている”という感覚は、最初から存在しなかった。
それがこの物件の特徴でもあり、岸本智也にとっては、何よりの救いだった。
誰にも会わず、誰の声も聞かず、干渉されない日々。
それで十分だった。
むしろ、それしかできなかった。
キッチンに足を踏み入れたのは、習慣のようなものだ。
コーヒーでも淹れようか。もしくは、冷たい牛乳でも飲んで、何か食べたような気分だけでも得ようか。
照明をつけると台所には、使われた痕跡があった。
コンロはきれいに拭かれ、シンクには水滴が残っている。
さっきまで誰かが、ここにいた痕跡を見て、自分の中で何かがかすかに動いた。
冷蔵庫の前に立ち、扉を開ける。
──違和感。
中段の棚、ラップで丁寧に包まれた三切れのサンドイッチ。
そしてその上に貼られた小さなメモ用紙。
――よろしければどうぞ。碧
一瞬、何かの冗談かと思った。
が、どう見ても本物だ。丁寧な筆跡、真っ直ぐに置かれた紙。
保存容器のふたが、わずかに浮いている。
ラップ越しにのぞく卵の黄色、パンの焼き目。
……碧さん…。
名前を知らなかったわけじゃない。契約時の書類に記されていた。
でも、それをこうして「人の行動」として受け取るのは、初めてだった。
この冷蔵庫に、自分以外の誰かが「何か」を置いた。
それが自分宛かどうかなんて、本当はどうでもよかった。
ただ、それは確かに“届いていた”。
扉を閉めたあとも、しばらくその場から動けなかった。
何が正解か分からないまま、静かにモーターの音が響いていた。
今、自分はここで何か判断を迫られているのかもしれない。
それがどんな意味を持つのかなんて、分からない。
ただ、「食べる」か「食べない」か──その選択だけが、手のひらの上にぽつんと置かれていた。
どちらが正しいかなんて、誰も教えてくれない。
たぶん、どちらも間違いではない。
けれど、食べたら“関係”になるような気がした。
今まで守ってきた、誰にも踏み込ませない、誰の領域にも踏み込まないという距離感が、
このラップを外すことで、ほんの少し崩れてしまう。
それが怖かった。
けれど、もっと怖かったのは、“なにも変わらないこと”だった。
ラップを少しずつめくると、マスタードの香りがほのかに立ち上がった。
ひと切れを手に取り、口に運ぶ。
パンのしっとりとした歯ごたえ、たまごの甘み、粒マスタードの刺激。
──久しぶりに、“食事”をとった気がした。
ここ最近、自分は何を食べていたっけ?
レトルトのカレー、コンビニのサンドイッチ、冷凍の焼きおにぎり。
たしかに食べてはいた。でも、それらはただ“空腹を埋める行為”だった。
これは、違う。
誰かが、手で作った。自分のためにかはわからない。
けれど、そうだと信じたくなるくらいには、ただ、ひたすらに優しかった。
誰にも見られていないはずなのに、どこかで「見られている」気がして、
でもその視線は、責めるでもなく、ただ受け入れてくれているような気がした。
──もしかしてこれは、「話さないでいい会話」なのかもしれない。
ラップの包み紙だけが、ぽつんと皿の上に残っていた。
そしてそのまま、しばらくキッチンに立ち尽くしていた。
***
日が暮れかけた頃、ようやく一段落ついた仕事の合間に、ふと冷蔵庫のことを思い出した。
──サンドイッチのこと。
自分が食べたラップ包みの三切れ。上に添えられていたメモ。
“よろしければどうぞ。碧”
あの文字と温かさが、ずっと胸のどこかに残っていた。
自分から何かを返すべきなのかどうか、一日中迷っていた。
こういうとき、どうすればいいのか分からない。
直接会うわけでもない。
話すわけでもない。
それでも、何も返さないという選択肢は、なぜか浮かばなかった。
──何か、渡そう。
そう決めたのは、夕方になってからだった。
パーカーのフードをかぶり、財布を持って玄関を出る。外の空気が、頭をすっきりとさせてくれる。
近所のコンビニまでの道を、ゆっくりと歩く。
どんなものを返せばいいのかは、正直分からない
けれど、冷たい甘さなら、押しつけにならずに済む気がした。
ゼリーの棚の前でしばらく迷ってから、半透明のカップに入った柑橘ゼリーをひとつ選んだ。
中に浮かぶみかんとグレープフルーツの果肉が、照明の下で涼しげに光っている。
誰にでも好かれる、やさしい味。
──これなら、きっと。
帰宅してから、キッチンの電気をつける。
袋からゼリーを取り出し、メモパッドを手に取る。
──ありがとう。よかったらどうぞ。
書いた文字を見つめたあと、名前を小さく添える。
“智也”。
ためらいはあった。
名乗らなくても伝わるのかもしれない。
でも、名乗らなければきっと、何も始まらない気がした。
冷蔵庫の扉を開ける。
涼しさが指先に伝わる。
昨夜サンドイッチが置かれていた位置に、ゼリーのカップをそっと置く。
その上に、メモを添える。
静かに扉を閉じると、モーターの音が低く鳴り始めた。
いつも通りの音。
けれど今夜はその音が、ほんの少しだけ柔らかく響いていた。
***
本屋のバイトを終え、夜の道を静かに歩く。
湿気の少ない空気が頬に心地よかった。自販機の明かりを横目に、私は今日の献立のことをぼんやり考える。
扉の鍵を静かに回して玄関を開け、靴を脱ぎながら「とりあえず野菜、なんか使い切らなきゃな」と頭の中で冷蔵庫の在庫を思い出す。
リビングの照明はつけず、そのままキッチンへ向かう。
冷蔵庫の前に立ち、いつも通りの動作で扉を開けた。
──一瞬、手が止まった。
中段の棚に、見覚えのない容器がひとつ置かれている。その横には、二つに折られた小さな紙。
驚きと戸惑いが混じりながら、そっと紙を広げる。
──ありがとう。よかったらどうぞ。 智也
……名前だ。
名前を見た瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。
“誰か”ではなく、“智也”という一人の人間が、そこにいたのだと思える。それが、少しだけうれしかった。
容器のふたを開けると、そこにはきれいに固められたゼリーが並んでいた。
柑橘の果肉が半透明の中に浮かんでいて、冷たく澄んだ見た目が、疲れた体にすっと沁みていくようだった。
スプーンを取り、ひとくちすくって口に運ぶ。
柔らかい舌触りと、ほどよい甘さ。そしてほんの少しの酸味。
味に強い主張はないのに、やさしさだけが舌に残った。
「……ありがとう」
自然に、言葉がこぼれた。
返事はない。声も聞こえない。
それでもこの小さなやりとりが、確かにどこかで交差している気がした。
冷蔵庫は、いつもと変わらない低いモーター音を鳴らしている。
でも今夜、その音はどこか笑っているように感じられた。
***
――たったひとつの冷蔵庫を通して、静かな物語が流れはじめていた。
それはまだ“恋”と呼ぶには遠く、手紙にもならないほどのやりとりだったけれど、確かに、そこには誰かを思う気配があった。
冷蔵庫の中で、差し出されたやさしさと、それを受け取ったぬくもりが、少しずつ、けれど確かに、日々の温度を変えていく。
まだ溶けきらない気持ちが、音もなく、暮らしの隙間に染みていく。
──こうして、“顔の見えないふたり”のささやかな関係は、今日もまた、冷蔵庫の中で静かに紡がれていく。
冷蔵庫の中で恋が溶けた 宮本ヒロ @kikutsugu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。冷蔵庫の中で恋が溶けたの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます