3. 兄貴の優しさ

 兄貴は病院の広い駐車場の隅っこでやっと歩みを止めた。そうしてくるりとこちらを向き、ゆっくりと話し始めた。

「あのな、颯太は頑張りすぎなんだ。力抜けって」

「るせえ、俺はこれでいいんだよ。悪いのは嘘ついた兄貴だからな」

「嘘ついたのは悪かった。なあ、俺は力抜いてるよ。知ってるだろ? こんなんでいいんだよ、こんなんで」

 へらへら笑う兄貴に苛ついた俺は、また左手で掴みかかろうとした。が、パシッという音とともに、兄貴の右手で遮られてしまった。

「颯太はよくやってくれてるよ、本当に」

「んなの当たり前だろ!」

「当たり前じゃない。おまえはまだ高校生なんだ。本当はバイト三昧なんてしないで適当に部活でもして、友だち作って、遊びにいって、たまには女の子とデートもして……」

 兄貴は俺の目を見て、優しく諭すように話す。言いたいことはよくわかる。わかるんだ。でも、兄貴だって高校入ってすぐバイト始めて、就職先でいじめられてもギリギリまで何も言わなかったじゃないか。腹が立つ。なんだか無性に腹が立つ。

「……俺はっ、俺は、あいつらがかわいいからっ……、親父も兄貴も、情けないか、ら……、か、母さんを楽にっ……」

 俺の言葉は、どうしてだか出てきてしまう涙にどんどん負けていく。怒っていたんじゃないのか、俺は。腹が立って仕方ないはずだろう。

「わかってるよ。でもな、高校生ってそういうもんじゃないだろ、普通」

「……何だよ……普通、って」

 クソ兄貴は「普通の男子高校生をやってほしかった」なんてしんみり言っている。

「俺の、俺の普通は、裕太たちを風呂に入れて、あいつらの、顔を思い出しながら……、バイト、してっ……」

 もう顔はぐちゃぐちゃに濡れている。きっと俺、格好悪い。

 本当は、本当に俺が腹を立てていたのは、きっと自分なんだ。何も見ようとせず、何にも気付かず、いつものようにバイトして弟たちの面倒を見ていればいいと思っていた自分に。それが格好悪くて情けなくて、涙として外に出てきてしまう。よけいに格好悪くなるというのに。

 兄貴のことは、さっきからずっと殴りたくて仕方ない。俺に嘘ついてたんだ、一発くらいはいいだろう。でも、体に力が入らない。兄貴の手に包まれている左手も。

「……うん、そうだよな。颯太に普通の高校生を押し付けようとした俺が悪かった」

「は? 兄貴は悪くねえ」

「おい、さっきと言ってること違うぞ」

 あはは、と笑う兄貴の声が、俺の中にしみてくる。

「颯太はさ、裕太も龍太も翔太も紗季もかわいいと思うだろ?」

「……んなの、当たり前……」

「俺も、颯太がかわいい。本当は甘やかしたいんだぞ。でもほら、俺こんなんだし、颯太は颯太で意地っ張りだからさ。つい嘘ついちゃったんだ」

「バッカじゃねえの、クソ兄貴っ……!」

「……ごめんな。でも、バカかクソかどっちかにしてくれよ」

「併用で……、いいだろ」

「併用かぁ。ま、しょーがねえな」

 兄貴はまた、ははは、と明るく笑った。


 ◇


「……俺、先に帰る。あいつら心配だし」

「おう、気を付けてな」

 シャツの袖口で涙を拭いてから、ちょっと心配そうに俺を見る兄貴を残してのろのろと駐輪場まで歩く。さっきまで握られていた左手が、まだ温かい。

 原付のシートの下からヘルメットを出してかぶったところで、俺は気付いた。ヘルメットが新しいものになっていることに。そして、鍵穴からぶら下がっている魔導戦艦ピカルンの美少女精霊ぬいぐるみキーホルダーは、昔、俺が親にねだって買ってもらえなかったものだということに。

「……これ、あのとき欲しかった、やつだ……」

 魔導戦艦ピカルンは兄貴と俺がハマっていたアニメだった。戦艦が格好良くて、美少女精霊のピカルンはかわいくて、母さんは俺たちによく録画したピカルンを見せていた。

 そんなとき、親父とショッピングセンターに行ったんだ。まだ四歳だった紗季に、親父はかわいい犬のキャラのキーホルダーを買ってやっていた。兄貴と俺は、兄ちゃんだろって我慢させられて。きっと俺はそのとき、悲しそうな顔をしていたのだろう。帰り道で兄貴は、俺の手を取って歩き始めた。「颯太ぁ、兄ちゃんがそのうちいいものやるから、待ってろよ」なんて言って。そんなこと、日々の忙しさですっかり忘れていた。久しぶりに兄貴の手の温かさを感じて、記憶が鮮明に蘇ってきた。

「クソ兄貴っ……こんなことばっか覚えていやがって……」

 また涙が出てきた。泣かされてばかりで悔しい。いや、嘘だ。本当はうれしい。うれしいんだ、俺は。でも……

「何か言えっつーの!」

 誰もいない駐輪場で、俺の声は夕闇に溶けていった。


 ◇


「ただいまー」

 俺は玄関で靴を脱ぎ、少し大きくなったスニーカーを踏みながら実家に帰った。たくさんの「おかえり」が聞こえてくるのは、家を出る前と変わらない。

「おー、颯太ぁ、お疲れー」

「あれ、兄貴、バイト行かなくていいのか? もう九時半だぞ?」

「俺なぁ、工事現場の作業員やめたんだ」

「……は?」

「今度は本当に駅前の本屋。そして何と、社員としての勤務!」

「うぉっ、マジか! やったじゃん、すげえ兄貴!」

 母さんが台所から出てきて「あらぁ、颯太、大人になったわね」なんて言っている。

「ほんとだよなー、あんなに泣いてたのに。やっぱ機械系の高専って厳しいんだなー」

「……相変わらずバカだな、クソ兄貴……」

「バカかクソかどっちかにしてくれって」

「併用だよ、併用!」

 俺が県立の高専に編入できたのは、突貫の勉強をがんばった自分もすごいと思うが、ほとんどが兄貴のおかげだ。格安とはいえ、寮の費用も兄貴が負担してくれている。親父の稼ぐ給料は家族の食費やら何やらに消えてしまうから、本当にありがたい。ありがたいと、思ってはいるんだ。でも……

「颯太だって相変わらずじゃねえか。なあ、紗季?」

「ほんと、颯太兄ちゃん帰ってくるとおもしろくて。康太兄ちゃんとのやり取りが特に」

「別におもしろかねえだろ。俺はいつだって真面目に……」

「なあ、ヌードメーカーってアプリ出たの知ってるか?」

 紗季や母さんに聞こえないように、兄貴が俺の耳元まで来て囁いた。

「……知らねえよ」

「むふふな画像を作れるって評判でさ。とうとう俺待望の……」

「嘘つけ、そんなアプリにAppleが許可出すわけねえだろ」

「えっ、許可? Appleの許可いるの?」

「たりめーだ、許可制じゃなきゃ今頃スマホ界隈カオスだぞ」

「マジか……じゃあこれ何だよ。俺、インストールしちゃったよ」

「今すぐ削除しとけ。ったく、兄貴は……」

 俺は兄貴のスマホが差し出されるのを待った。きっと「どうやるんだよ」と言ってくるだろうと思ったからだ。

「……って、いねえ! 話しかけておいてこれかよ!」

「えっ、康太兄ちゃんなら脱衣所行ったよ? あ、一緒にお風呂入ってきたら?」

「入らねえよ! ったく、クソ兄貴っ……!」

「おもしろいなぁ。康太兄ちゃんと颯太兄ちゃんのコンビ最高。ね、お母さん」

 紗季はそんなおかしなことを言って、ふふんと誇らしげに笑う。

「ほんとにねぇ。我ながらいい兄弟を産んだものだわ」

「康太兄ちゃんはムードメーカーのボケで、颯太兄ちゃんはキレのいいツッコミだもんね」

「俺、ツッコミ役かよ」

「そうだ、ハンバーグあるけど食べる?」

「おっ、ありがたく食うよ。腹減ってるし」

「豆腐でかさ増しだけど」

「おう」と答える俺の横には、魔導戦艦ピカルンのクッション。カバンの中には、魔導戦艦ピカルンの美少女精霊ぬいぐるみキーホルダー。

「……よし、やっぱ俺、食う前に風呂入るわ。兄貴の全身ピカピカにしてやる」

 くだらねえクソコラ見てたら笑ってやろう。そう決めて俺は脱衣所へと急ぐ。でも……

「きっと兄貴には、一生敵わないんだろうな」

 俺の小さなつぶやきは、弟たちがはしゃぐ声と風呂場から聞こえるシャワーの音に消されていった。

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ムードメーカー 祐里 @yukie_miumiu

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