2. 兄貴の嘘
この間始めたと言っていた仕事はどうやら深夜勤務のようで、ここ二ヶ月間、兄貴は毎晩出かけては朝帰るという日々を送っている。
「本屋の裏方って夜に忙しくなるのか。まあ、入荷も早朝だったりするもんな」
「そうだな」
学校の授業が午前だけの日とバイト先のスーパーの棚卸しの日が重なり、俺は暇をもてあましている。
弟たち三人は外に遊びに出かけていて、室内は静かだ。魔法少女ピカルンのクッションに頭を置いて眠そうにしている兄貴に視線をやり、俺はふと気付いた。
「あれ? 兄貴、なんか腹引っ込んでね?」
「お、マジぃ?」
「人一倍食ってるくせに何でだよ」
「さぁなぁ? あ、電話だ」
スマホを耳に当てて立ち上がり、兄貴は玄関の方へ行ってしまった。「その日は……、はい、ちょっと遠いけど……」という声が聞こえてくる。俺は台所にいる母さんの方が気になってきた。確かさっき、米やら料理酒やらの重いものを買ってきていたはずだ。
「母さーん、重いもの手伝おうかー?」
「あ、颯太……ありが……」
俺の大声に答えた母さんの声が途切れた。同時にドサッと何かが倒れる音。慌てて台所に行くと、エプロンを手にした母さんがシンクの手前で横たわっていた。
「母さん……!?」
「……なん、でも、ないから……」
「そんなわけないだろ! 母さん……、母さん!」
血の気が引いたような青い顔の母さんにビビる俺がいる。まさか、母さんはこのまま……なんて、よくないことを考える。
「颯太、何を大声で……どうした?」
「あ、兄貴、母さんが! 母さんがっ……!」
「だいじょ、ぶ、だか……」
「ああ、母さん……そろそろ病院に行かないとって言っておいたのに。颯太、悪いけど母さんを車に」
兄貴はうろたえる俺を尻目に、てきぱきと保険証や財布、診察券なんかを用意してハイエースの鍵を手に取った。
「あ、颯太が運転していくか?」
「……え、俺は……」
乗ったことのある車は、教習所のセダンだけだ。ハイエースのようなワンボックスにはこれから慣れていけばいいと思っていた俺は、答えに詰まってしまった。
「うーん、まあいいか、今日はちょっと時間がないから俺が運転しよう。おまえはこの診察券の番号に電話……」
「康太、私なら大丈夫、だから……、ちょっと寝ていれば……」
「母さん、病院代なら気にするなよ。俺、最近稼いでるからさ」
「なっ?」と明るい声で付け足すと、兄貴は玄関を出てハイエースに乗り込んだ。俺は渋る母さんに肩を貸してあとを付いていく。何だよこれ。一体何が起きているんだ。この頼りがいのある背中は、いつもバカなことばかり言っているクソ兄貴と同一人物なんだろうか。
「じゃ、颯太、電話で『これから救急外来に行きます』って」
うるさいエンジン音に、朗らかな声が混じる。俺は母さんをハイエースの後部座席に座らせると、病院の電話番号をスマホに入力した。
「おまえは裕太たちが帰ってきてから、原付で来ればいいよ」
「あれ? 康太兄ちゃん、どこか行くの?」
「あ、紗季、ちょうどいいところに」
帰宅したばかりの紗季もハイエースに乗せて、兄貴は駐車場を出ていった。
◇
俺が原付で病院に着いたときにはもう、母さんは受診済みだった。点滴の針を刺されてベッドで寝ている母さんが少し痩せて見えて痛々しい。
「じゃあ母さん、点滴終わる頃に来るから」
「康太、いつもありがとうね。颯太も紗季も、来てくれてありがとう」
「……んなのいいって。無理すんなよ」
「そうだよー。みんなのご飯は私が作ってあげるからね」
母さんに声をかけてから、三人で病室を出て待合室の椅子に座る。
「更年期障害と過労による貧血と目眩、か……」
「颯太兄ちゃんもいるときでよかった」
「おう、颯太がいると安心感あるもんな」
ははっ、なんて兄貴は笑う。紗季も「ねー」なんて笑っている。
「……んなことねえよ」
俺はただ兄貴の言うとおりにしていただけだった。もし兄貴がいなかったら、きっと母さんを病院に連れてくるなんてことはできなかっただろう。
「っと、また電話入った。ちょっと話してくる」
「行ってらっしゃーい」
紗季が大げさに手を振るのを見ながら、兄貴は病院の入口付近まで歩いていった。
「……俺、母さんが具合悪いなんて知らなかった」
「あんまり言いたくなかったみたいだよ。そういうとこ、康太兄ちゃんと似てるよね」
「おまえは知ってたのか?」
「うん、目眩がするっていうのは聞いてた。お母さん、女同士じゃないと言えないって思ってたんじゃないかな」
紗季の表情が大人っぽく見える。まだ中学生なのに。ああ、そういえば女の子は早く大人になると聞いたことがある。そういうことなのか。
「でも兄貴は……」
「康太兄ちゃん、昼間に家にいるじゃない? だから知ったみたい。前にも一緒に救急外来行ったって」
「……何で、紗季も兄貴も知ってるのに俺だけ……。知ってたら、俺だって……」
悔し紛れ。わかっている。けれど、つい口から出てしまった。すると紗季はそれまで浮かべていたゆるい笑みを引っ込め、真面目な顔で俺を見た。
「心配するから。颯太兄ちゃんは」
「……心配するのなんか、当たり前だろ?」
「心配して心配して、そんで、もっともっと頑張っちゃうから。って、康太兄ちゃんが」
「……んだよ、それ。頑張るのも当たり前だっつーの」
俺にとっては当たり前なんだ。親父は出張が多くて、家にいたところで飲んだくれてて、兄貴はバカで、弟たちはまだ手がかかる年なんだ。母さんと紗季はもう精一杯やっている。俺が頑張らないといけないんだ。
「んー、颯太兄ちゃんはさ、いつもいつも家族のためにって遊びにも行かないじゃない。バイトばかりして、教習所のお金以外全部家に入れて、自分は学校行くにもお弁当と麦茶入れたデカい水筒持っていくだけで。コンビニにも行かないでしょ」
「そんなの……」
「康太兄ちゃんが最近始めたバイトね、深夜の工事現場の作業員なんだって。一番稼げるから、颯太が楽になるから、って」
「……は? 駅前の本屋じゃないのか」
「それ、嘘。颯太兄ちゃんに原付譲りたくて嘘ついたの。『遠い現場だって自転車で行けるしな。でも颯太には言うなよ。颯太は頑張ってるんだ、俺の原付くらいくれてやる』って」
紗季の、兄貴の口真似に腹が立つ。……いや、違う。俺が本当に腹を立てているのは――
「あ、康太兄ちゃん、電話終わった? お母さんの点滴……」
「……クソ兄貴! んだよ、何で黙ってたんだよ!」
飄々と軽い足取りで戻ってきた兄貴の胸ぐらを、俺は両手でがしっと掴んだ。
「うぉっ、颯太キレてんだけど……紗季……おまえまさか」
「ごめーん。康太兄ちゃんが嘘ついてたの、言っちゃった」
「嘘ついて、俺だけのけ者にしてっ……、んだよそれ!」
紗季がぺろっと舌を出すのを横目に、俺は兄貴に向かって怒鳴り散らす。
「颯太のこと、のけ者になんてしてないよ」
「俺にばっか嘘つきやがって! んで、だよっ……! このクソ兄貴!」
「はい、そこまでー。兄弟喧嘩は外でやってくださーい」
俺の顔と兄貴の顔の、十センチの間に白いクリアファイルが降ってきた。
「あっ……、すみません、外出ますんで」
俺は無造作に兄貴の胸ぐらから手を離した。兄貴は看護師の女性にぺこぺこ謝りながらまた病院入口へと向かって歩く。
「はい、颯太兄ちゃんも行った行った。思う存分殴ってきたら? ここ病院だから、手当くらいしてもらえるでしょ」
「おう、絶対殴ってやる」
紗季の言葉に背中を押され、俺は兄貴を追って走り出した。
「こら、そこ、走らなーい」
「……すみません……」
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