スマートフォンの背に触れて

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

私達が互いの背を包めるようになるまで

 夏の盛り。窓の外には青空が広がり、開け放たれた窓から熱風が流れ込んだ。

 煽られるかのように、私たちもベッドの上で昼のさかりを終えていた。

 滴るすべてがシーツを濡らしていて、こもった熱気を熱波が押し流していく。


「なにか飲む?」

「うん、なんでもいい」


 彼がベッドから離れて、長い髪を私が束ね終えた頃に、キッチンの方よりカランと涼しげな音が鳴った。


「はい、お水」

「ありがと」


 差し込んできた陽の光、ティアドロップの形をしたすべての物を照らして、宝玉の輝きを与える。

 まばゆいほどの煌めきに思わず目が眩んだ。


「眩しい?」

「うん、とっても」

「僕には君の方が眩しいよ」

「馬鹿、なにいってんだか」


 歯が浮くような言葉に満足な苛立ちを混ぜてから、近くのタオルケットを纏ってみるけれど、暑さには敵わず諦めるしかない。

 眺めていた彼が笑い、輝くガラスコップをうやうやしくさしだした。


「姫、どうぞ」

「くるしゅうない、いや、飲ませてみよ」

「仰せのままに」


 隣に座った彼が口元へとコップをつけて傾ける。やがて口へそっと含むと、ゆっくりと手を回して私を引き寄せる。


「ちょっと、ふざけ過ぎ」


 唇に人差し指で牽制してやると、やがて、こくんと喉を鳴らす音がした。


「次やったら叩くから」

 

 彼の乳房を叩き、手にあるガラスコップを奪い取った。全く油断も隙もあったもんじゃないと不機嫌を装うと見抜かれたように彼が笑った。


「潔癖すぎ」

「わかった、酔っ払った時にしてあげる、吐く直前なら嬉しいかしら?」

「ごめん、本当にすみません」

「分かればいいのよ、分かれば」


 しょげた可愛さに満足し一気に飲み干してゆく、刃の冷水が食道を切りつけながら、爽快感を齎して、溜まったものを全て胃へと流し落した。


「この後はどうする?」

「昼からの講義はあるの?」

「ない、仕事は?」

「あるわけないじゃない、あったらこんなことしてないし」

「それもそうだ」

「あ、車で買い物いかない」

「ララポ?」

「うん、高速飛ばせば一時間くらいだし」

「いいよ、いこうか」


 頷きあって私は勢いよく立ち上がる。

 足腰のふらつきは自業自得だから仕方がない、求められた私が考えなしだったのだから、彼を責めることなんてできない。


「シャワー先に浴びるから」

「うん、あっ……」

「入ってきたらブチギレるからね」

「う、うん」


 借りてきた猫みたいによそよそしい顔で誤魔化した彼の額を軽く人差し指で弾いてやる。

 危なかった、釘を刺さなければヤられるところだったと安堵して私は浴室へと向かった。

 後ろでシュボッとライターの音が聞こえてきて、やがて嗅ぎ慣れたシガレットの香りが漂ったのだった。


 私は車の鍵を彼に投げつけて運転する様を助手席からじっくりと眺めていた。

 おっかなびっくりにハンドルを握り、車を走らせる様にちょっとした嗜虐心を満足させながら、先程のイタズラの報復を済ませた。

 これは不可避なことだ、自らの言動によってブチギレさせたのだから仕方がない。


「駐車場、屋上でいいよね」

「運転手さんにお任せ」

「はいはい」

「ハンドル、でかいので回しそこねないでよ」

「なら、変わればいいのに」

「やだ、疲れてるから」


 5メートル超え、ワインレッドの高級セダンは慣れなければ難しい、でも、彼の運転センスはなかなかだから、私は一向に心配はしていない。

 たとえそれが、昨日納車されたばかりで、自宅に届けてもらったので、運転席に一回も座ったことがなくてもだ。


「見晴らしがいいね」

「うん、馬鹿だからこうでないとね」

「馬鹿ね」

「馬鹿じゃなきゃ、炎天下の屋根なし駐車場なんか選ばないわよ」

「確かに」


 スマートな車庫入れで収まった車から降りると全身より汗が吹き出すかと思ったけれど、ワンピースを揺らす風は涼しいと思えた。


「お、富士山が遠くに見えてる」

「あ、ほんとだ」


 遠くの富士山を見つめる彼に寄り添い、日傘を彼が差してくれて、陽時雨のような日差しを避けながら、しばらくぼんやりと眺めた。


「あれから一年なんだ」

「うん」


 ここで私達は出会った。

 忘れることのない、ありありと思い出せる大切な記憶の宿る場所。

 あの夜は、雲に覆われていてぬるま湯のような雨が静かに降っていた。

 フロントガラスにまとわりつく水滴を、必死にワイパーが払い続けていたけれど、視界は曇るばかりだった。


「危ない!」


 車の前に飛び出してきた人影に急ブレーキを踏みこんだ。幸いにも接触せずに済ますことができたが、その代わりにボンネットを叩く衝撃があった。

 見つめれば制服姿の大人びた猫のように鋭い目が二つ、こちらを睨みつけていた。


「なにしてるんだ!」

「ブレーキなんか踏むなよ!」

「なにいって」

「踏まずに跳ね飛ばしてくれたらよかったのに……」


 傘も刺さずに外へと飛び出るとそんな調子だ。制服姿は悔しそうにボンネットを叩き続けてゆくのを呆然と見つめていた。

 雨は止むことなく互いを濡らして、言葉の悔しさを代弁しているようでもあった。

 若く性に沿ったラインだが、髪は短く、ショートよりも刈り込んでいる印象がある。

 ボーイッシュとは違う印象を抱いたのは間違いではなかった。


「あのさ、こういうことかい?」


 そばに駆け寄るとその拳にそっと手を添えた。拒絶の動きが始まりかけたものの、寸前でぴたりと止まり雨を浴びたままとなる。


「綺麗……」

「でしょ?さっきしてもらってきたの」


 指先のネイルは先程まで行きつけのベテランが施してくれたものだ。雨の中でも照らすライトで星のように輝いている。


「まあ、よければ乗りなよ」

「うん」


 猫の目が少しだけ解かれた。

 そしてずぶ濡れの二人を乗せて私の家へとたどり着いたのだ。移動中、互いに口を聞くことはなかったが、言葉などいらないと温かな沈黙があったことだけは確かだった。


 家に着いてすぐに先にシャワーを浴びなさいと伝えると、制服姿はこくりと頷いた。私の表と裏の服を用意してから、これらが嫌なら着なくていいし、着たければきていいと伝える。

 自室でスーツを脱ぎランドリーバッグに押し込んだ。そこまでではなかったが、あの神聖な出会いを穢すような気がしたのだ。

 室内着としているクローゼットから、ワンピースを取り出して纏う、デパートのメイク教室で習った化粧を施して、お気に入りのイヤリングとネックレスをつけて、姿見で細部までを見つめてからリビングへと向かった。


 満足な姿は身も心も軽やかにさせてくれることを、私はよく知っているから。


 温かな紅茶を入れ終わる頃、彼が姿を現した。私の表側で使うカジュアルシャツにデニムジーンズ、選んだとは言え、なかなかなメンズコーデにミスマッチはない。普段から着慣れているかのように馴染んでいる。

 まるで着替えとして持ってきたかのように、


「落ち着いた?」

「うん」

「ならよかった。ソファーに座って、紅茶を入れたから」

「はい……」


 紅茶の味は格別なものとなった。

 辿々しい会話が流れるようになれば、やがては、互いのことを悟るまでに長い時は必要ない。お互いの輪郭が正しい焦点に定まってゆくように重なっていく。

 自然体な流れが、自然体のままにであるようにだ。


「また、行ってもいい?」

「いつでも来たらいいよ」


 翌日、学校近くまで送っている途中で、そう制服姿がほつりと呟くように口にした。

 室内とは違う、窮屈そうな制服姿が痛々しくて堪らない、私の首を絞めるネクタイが鉛のように重たくて仕方がないのと同じなのだ。


「スマートフォンの背を撫でたことはある?」

「え?スマホの背?」


 黒一色のケースに覆われたスマートフォンを制服姿が見つめて私へと向く、それに小さく首を振って否定した。


「ケースじゃない、スマートフォンの本体背面だよ」

「えっと……ない」

「だろうね、私もほとんどない。それが私達なんだ」

「え?」

「表は誰でも触れることができて変わらない、けれど、背を出して歩けるほど、世の中は変わってない」

「うん」

「スマートフォンの背はね、やさしい作りなんだ、手に包まれるようにできてる」

 制服姿はゆっくりとケースを外し、スマートフォンの背に指を這わせる、瞬間、ふっと表情がほどけてゆく。驚きと、少しの安堵が混じったような、なんとも表せぬ雰囲気を見せた。

「私達は一緒、互いに背を見せずに生きてきた。けど、今日からは背を見せながらいかない?」

「でも、いまは、まだ…」

「慌てないの、二人だけで、それをゆっくりと始めてゆくのよ。スマートフォンを落とさないよう気をつけるようにね」

「わかりにくいけど、わかるかも」

「うん、そのうちケースもいらなくなるわ、そうなるようにしてみない?」

「してみたい、昨日みたいに、ゆったりと心地よく過ごしたい……」

「なら、これからもよろしくね」

「うん、お願いします」


 二人で見つめ合い、強固な頷きをする。やがて吹き出して笑い合って、盟約は結ばれたのだ。

 それは今だに反故にされることなく、結び目は日を重ねるごとに強くなっている。

 互いの背を手にして包むことができるくらいに。


「暑くなってきた、そろそろ、行こ」

「うん、あ、私、新作見たいから時間かかるからね」

「うわ、まじで?」

「なに?不満な訳?選ばせてあげてもいいのよ」

「あ、それなら行く」

「はいはい」


 少しだけ独占欲の強いところは困りものだけれど、ずっと共にするパートナーとしては申し分ない。


「私もあなたの選ぶから」

「えぇ……、変なのになるじゃん」

「ならないわよ、まあ、見てなさいって」

「仕方ないなぁ」


 連れ立ってたわいもない会話をしながら歩く、時おり気がつくものだけが視線を投げる、けれど気にはしない。

 二人で歩く日々には日常なのだから。


 今日もまた素晴らしい時間を過ごしてゆくために。

 

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スマートフォンの背に触れて 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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