死ぬかと思った

ポチョムキン卿

便座の上で死にかけた話

 死ぬかと思った。いや、正確に言えば、死にかけたのかもしれない。


 そんなこと、今日の朝まではまるで想像していなかった。

 むしろ平凡すぎる朝だったのだ。

 目を覚まして、ゴミを出し、ちょっとした用事を片付けてから、トイレに向かった。おしっこを我慢していたので、慌ててズボンを下ろし、便座に腰を下ろした。


 私は男だが、小用でも座ってする派である。

 落ち着いてできるし、床が汚れないというのもあるけれど、なによりその時間を「自分だけの時間」として過ごせるのが好きなのだ。

 いつも、本を読んだり、滑舌の練習をしたりしている。外郎売の台詞を暗唱するのが最近のマイブームで、この日もその一節を口に出していた。


 「拙者、親方と申すは……」


 その瞬間だった。


 胸がキュン、と内側からつままれたような感覚があった。いや、恋とかそんな甘いもんじゃない。

 明らかに違う。

 嫌な感じ。

 不安を煮詰めて水にしたような感触が、胸の内側を染み渡る。

 あれ? なんかおかしいぞ――そう思った次の瞬間、意識がブラックアウトした。


 ほんの数秒だったと思う。

 気がつくと、私は便座から体を思い切り前屈し、前の壁に後頭部を擦り付ける体勢で気を失っていた。ズボンは膝まで下がったまま、お尻はむき出しで、頭が壁にあたっている。うなじのあたりに冷たい感触があった。

 痛みは、なかった。

 いや、痛いとかそういう問題ではなかった。

 ただただ、自分が「戻ってきた」感じがした。

 これがパソコンで言うところの再起動ってやつだ。

 それと同じ感覚。


 でも、戻ったと言っても、完全に現実を把握できたわけではなかった。

 まだ夢の続きを見ているような、靄のかかった意識の中で、私はとにかく「ここから抜け出さなきゃ」と思っていた。

 ここがどこかも理解していなかったのに。

 無意識に、壁に頭を預けたまま肩をゆすり、腕をバタバタと動かしていた。もがいていた。まるで、水中で溺れた直後のような、理屈も理性もない行動だった。


 ふと、何かがスッと晴れたように、頭の霧が引いていった。


 そこでようやく、「自分が今どこにいるのか」「何をしていたのか」を思い出した。トイレだ。

 そうだ、用を足していたんだった。

 自分の格好を見ると、お尻を出したまま、後頭部を前に壁につけてもがいているんだ。何やってんだ、俺……と、ようやく苦笑いが出てきた。


 それから、ゆっくり便座に戻って座り直し、改めて事態を整理し始めた。

 あの胸のキュン、もしかして不整脈か何かだったのかもしれない。

 とにかく、あれが原因で私は意識を数秒失い、壁に倒れ込んでいた。そして、もしもそれがトイレの中じゃなかったら――と考えると、ぞっとした。


 もし、立っていた時だったら?


 もし、自転車に乗っていた時だったら?


 もし、車を運転していた時だったら?


 今ごろ、私は死んでいたかもしれない。

 事故を起こして誰かを巻き込んでいたかもしれない。


 それを考えたら、まだズボンを下げたままの尻をむき出しにしてでも、トイレで倒れていた方が、まだましだったのかもしれない。

 いや、それでも死んでいたらイヤだけど。

 発見される時の姿が哀しすぎる。

 いやらしい意味ではなく、人として、なんというか、みっともない。死ぬにしても、せめてもう少し格好をつけたいじゃないか。


 心配になって、その場で自分の身体をチェックした。

 両手を見て、指を一本ずつ折り曲げて数を数えてみる。

 大丈夫、ちゃんと数えられる。

 指も10本ある。


動きにも問題はない。顔を鏡で見てみたけど、歪みもなし。ろれつも回るし、意識もしっかりしてきた。

  脳卒中を疑ったけど顕著な脳障害とかではなさそうだ。

少なくとも、今のところは。


 とはいえ、あの一瞬で私は明確に「自分がいなかった」感覚を味わった。

 意識のブラックアウト。

 それがどういうものなのか、身をもって知った。

 そして、倒れるときって人間は前のめりになるんだということも。


 今後また、あんな胸のキュンを感じたら、即しゃがもうと思う。

 どこでもいい、地面でもいい。

 倒れるよりはマシだ。

 車の運転中だったら……もう、それは運に任せるしかない。


 ふと、「これは神様からの警告かもしれないな」と思った。

 今すぐ病院に行こう。

 診てもらおう。

 自分では大丈夫だと思っていても、体のどこかが壊れかけているのかもしれない。


 死ぬのは構わない。

 でも、こんな形では死にたくない。

 飯島愛ちゃんみたいに、気づかれずにひっそりと亡くなるなんて、なんだか切ない。今日はずっと、そんな不安が頭の中をグルグルと回っていた。


 聞くところによると、机にうつ伏せたまま亡くなっていた人もいるらしい。だとすれば、自分は便座の上から前の壁に倒れ込んで、尻を出したまま死んでいたかもしれないのだ。そう考えると、死に場所というのも意識しなきゃならないのかと、思わず笑ってしまう。


 いや、笑えない。

 死に場所が選べるなら苦労はないわ。


 でも、ひとつだけ言えるのは、死ぬまでは死ぬ気はない、ということだ。


 それだけは、今朝、本当に強く思った。

 だが、人は、死ぬ気はなくても、たいてい不意に亡くなるのだ。

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死ぬかと思った ポチョムキン卿 @shizukichi

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