夏の終わりに君を想う

くさかみみ

夏の終わりに君を想う

第一章 蝉の声と偶然の出会い


七月の終わり、東京の空は雲ひとつない青さを見せていた。渋谷区立桜丘高校の校舎から聞こえる蝉の声が、夏休みの始まりを告げている。


「田中、お前も補習か?」


廊下で声をかけられた田中翔太は、振り返って苦笑いを浮かべた。同じクラスの佐藤が、同情するような顔でこちらを見ている。


「数学がヤバくてさ。お前は?」


「英語。マジで単位やばいんだよな」


二人は肩を並べて、夏期講習が行われる教室へ向かった。


普段なら友達と海や山に出かけているはずの時間に、冷房の効いた教室で机に向かわなければならない。それでも翔太は、そんな自分の状況を嘆く気持ちにはなれなかった。


数学の教室に入ると、思ったより多くの生徒が座っていた。翔太は適当な席を見つけて座り、窓の外を眺めた。校庭では野球部が練習をしている。汗まみれになりながらボールを追いかける彼らが、少し羨ましかった。


「あの、隣、座ってもいいですか?」


振り返ると、見覚えのある顔があった。同じ二年生だが、クラスが違う女の子だった。確か名前は...。


「あ、はい。どうぞ」


「ありがとうございます。私、二年C組の山田美月です」


「田中翔太です。二年A組」


美月は小さく会釈して席に座った。翔太は彼女のことを知っていた。学年でも成績優秀で有名な子だった。そんな彼女がなぜ補習に?という疑問が頭をよぎったが、聞くのは失礼な気がして黙っていた。


「静かにしなさい」


厳しい声と共に、数学の森田先生が教室に入ってきた。森田先生は校内でも厳格で知られる教師で、生徒たちは即座に背筋を伸ばした。


「君たちは夏休みを楽しむ前に、まず基礎を固める必要がある。この二週間、しっかりと勉強してもらう」


そうして始まった夏期講習は、翔太の予想以上に濃密だった。森田先生の教え方は厳しいが分かりやすく、普段理解できなかった問題が少しずつ解けるようになっていく。


休憩時間になると、美月が小さな声で話しかけてきた。


「田中くん、さっきの問題、理解できました?」


「ああ、何とか。山田さんは?」


「私も大丈夫です。でも、この問題の別解があるんです。よかったら見てもらえませんか?」


美月が見せてくれたノートには、翔太が思いもつかない解法が丁寧に書かれていた。


「すごいな。こんな方法もあるんだ」


「数学って、一つの答えにたどり着く道がたくさんあるから面白いんです」


美月の目が輝いているのを見て、翔太は少し胸がざわついた。こんなに勉強に情熱を注げる人がいるんだ、と素直に感動した。


「山田さんって、なんで補習に?成績良いのに」


「私、数学だけはどうしても苦手で...。特に図形問題が全然だめなんです」


そう言って困ったような笑顔を見せる美月に、翔太は親近感を覚えた。完璧に見える人にも、苦手なことがあるんだ。


「俺、図形問題は得意なんです。よかったら教えますよ」


「本当ですか?ありがとうございます!」


こうして、二人の距離は少しずつ縮まっていった。



第二章 図書館の午後


補習が始まって一週間が過ぎた。翔太と美月は、授業後に図書館で一緒に勉強するようになった。


「この問題、どこから手をつければいいか分からなくて...」


美月が困った顔で問題集を見つめている。翔太は席を移動して、彼女の隣に座った。


「まず、この図形を単純な形に分解してみるんです。ほら、この部分は三角形、こっちは台形になってるでしょ?」


「あ、そうか!」


美月の表情がぱっと明るくなる。翔太はその変化を見るのが好きだった。分からなかった問題が解けた時の、彼女の嬉しそうな顔。


「田中くんって、教えるの上手ですね」


「そんなことないですよ。山田さんが理解するのが早いんです」


二人の間に、心地よい沈黙が流れる。図書館の窓から差し込む夏の日差しが、美月の横顔を照らしていた。翔太は、彼女がとても美しいことに改めて気づいた。


「あの、田中くん」


「はい?」


「夏祭り、行かれる予定はありますか?」


突然の質問に、翔太の心臓が跳ね上がった。


「夏祭り...?」


「来週の土曜日に、神宮外苑で夏祭りがあるんです。友達に誘われているんですが、数学の勉強も一緒にできたらって思って...」


美月の頬が少し赤くなっているのを見て、翔太は自分の胸が高鳴るのを感じた。


「行きます。ぜひ」


「本当ですか?良かった」


美月の笑顔を見て、翔太は夏祭りが待ち遠しくなった。



第三章 夏祭りの夜


土曜日の夕方、翔太は待ち合わせ場所の神宮外苑駅に向かった。浴衣を着た人々が行き交う中、美月の姿を探す。


「田中くん!」


振り返ると、水色の浴衣を着た美月が手を振っていた。普段の制服姿とは全く違う、大人っぽい彼女に翔太は見とれてしまった。


「似合ってますね、浴衣」


「ありがとうございます。田中くんも素敵です」


二人は自然と並んで歩き始めた。祭りの会場は多くの人で賑わっており、屋台の香ばしい匂いや太鼓の音が夏の夜を彩っている。


「わたあめ、食べませんか?」


「いいですね」


翔太がわたあめを買い、二人で分けて食べた。甘い綿菓子が口の中で溶けていく。


「子供の頃を思い出しますね」


「山田さんも、お祭り好きだったんですか?」


「はい。家族でよく行ってました。でも、高校生になってからは勉強ばかりで...」


美月の表情が少し寂しそうになった。翔太は何と言っていいか分からず、ただ隣を歩いた。


「あ、金魚すくいやりませんか?」


美月の提案で、二人は金魚すくいの店に向かった。翔太はポイを手に取り、慎重に金魚を狙う。


「あ、破れちゃった」


「私もだめでした」


二人とも金魚をすくえずに終わったが、なぜか楽しくて笑いが止まらなかった。


「あの、田中くん」


花火が上がり始めた頃、美月が翔太の袖を軽く引いた。


「はい?」


「私、今日がとても楽しくて...。こんなに楽しい夏は久しぶりです」


美月の言葉に、翔太の胸は熱くなった。彼女も同じ気持ちでいてくれるのだと分かって、嬉しかった。


「俺もです。山田さんと一緒だから」


夜空に咲く花火を見上げながら、二人は静かに立っていた。翔太は美月の手を握りたい衝動に駆られたが、勇気が出なかった。



第四章 告白


夏祭りの次の週、補習も最終日を迎えた。二人の関係は以前より親密になったが、まだ恋人同士というわけではなかった。


「田中くん、補習お疲れさまでした」


「山田さんも。これで数学、大丈夫そうですね」


「田中くんのおかげです。本当にありがとうございました」


補習が終わった後、二人は校舎の屋上に出た。夕日が都市のビル群を染めている。


「夏休みも、もう半分過ぎちゃいましたね」


美月の声に、どこか寂しさが混じっているのを翔太は感じた。


「そうですね...」


「田中くん」


「はい」


「私、今年の夏がこんなに楽しくなるなんて思ってませんでした」


美月が振り返ると、夕日が彼女の瞳を金色に染めていた。


「俺も同じです。山田さんと出会えて良かった」


「私も...」


二人の間に、特別な空気が流れた。翔太は勇気を振り絞って口を開いた。


「山田さん、俺...」


「田中くん」


美月も同時に話し始めて、二人は顔を見合わせて笑った。


「先に言ってください」


「いえ、山田さんから」


「じゃあ、一緒に」


二人は深呼吸して、同時に言った。


「好きです」


その瞬間、時が止まったような感覚があった。お互いの気持ちが同じだったことが分かって、二人は照れながら笑い合った。


「付き合ってください」


翔太の言葉に、美月は頷いた。


「はい、こちらこそお願いします」


夕日が二人を包み込むように輝いていた。



第五章 夏の思い出


それから翔太と美月は恋人同士となり、残りの夏休みを一緒に過ごした。


プールに行ったり、映画を見たり、カフェで勉強したり。何をしても楽しくて、時間が足りないくらいだった。


「田中くん、これ見てください」


美月が撮った写真を見せてくれる。二人で行った水族館での写真だった。


「いい写真ですね」


「夏の思い出として、大切にします」


美月の笑顔を見て、翔太は幸せな気持ちに包まれた。こんなに充実した夏は初めてだった。


八月の終わり、二人は再び神宮外苑を訪れた。夏祭りの時とは違い、静かな夕方だった。


「もうすぐ夏休みも終わりですね」


「そうですね...」


美月の表情が少し曇った。翔太は何か心配なことがあるのかと思ったが、聞くのをためらった。


「田中くん」


「はい?」


「私、実は...」


美月が言いかけた時、翔太の携帯が鳴った。母親からの電話だった。


「ごめん、ちょっと出ますね」


電話を終えて戻ると、美月は黙って夕日を見つめていた。


「何か話があったんでしたっけ?」


「いえ、なんでもありません」


美月は微笑んだが、その笑顔には何か影があるような気がした。



第六章 別れの予感


二学期が始まると、美月の様子が少し変わった。以前ほど頻繁にメッセージを送ってこなくなり、一緒にいる時も上の空のことが多くなった。


「最近、山田の様子おかしくない?」


同じクラスの友人、中村が心配そうに言った。


「そうかな...?」


翔太も薄々気づいていたが、認めたくなかった。


ある日の放課後、翔太は美月を屋上に呼び出した。


「最近、何か悩みがあるんですか?」


「どうして?」


「なんとなく、元気がないような気がして...」


美月は困ったような表情を見せた。


「田中くん、私...」


「何ですか?」


「私、実は来月、転校することになったんです」


翔太の世界が静止した。


「転校...?」


「父の仕事の関係で、大阪に引っ越すことになって...」


美月の目に涙が浮かんでいた。


「いつから決まってたんですか?」


「夏休みの終わり頃に...でも、言い出せなくて」


翔太は何と言っていいか分からなかった。せっかく付き合い始めたのに、もう別れなければならないなんて。


「遠距離恋愛は...」


「難しいと思います。私たち、まだ高校生だし...」


美月の言葉は現実的で、翔太にはそれが余計に辛かった。



第七章 最後の日


美月の転校まで、あと一週間となった。二人は残された時間を大切に過ごそうとしたが、別れが近づくにつれて、会話は少なくなっていった。


最後の土曜日、二人は初めて一緒に勉強した図書館を訪れた。


「ここで初めて話したんでしたね」


「そうですね...」


二人は当時座っていた席に座り、懐かしそうに周りを見回した。


「田中くん、私と付き合ってくれてありがとうございました」


「何で過去形なんですか?」


「だって...」


「まだ別れるって決めたわけじゃないでしょ?」


翔太の言葉に、美月は驚いたような顔をした。


「でも、遠距離は...」


「やってみなきゃ分からないじゃないですか」


「田中くん...」


美月の目に再び涙が浮かんだ。


「俺、山田さんのこと本当に好きなんです。だから、簡単に諦めたくない」


「私も...私も田中くんのことが大好きです」


二人は抱き合った。図書館の静寂の中で、二人だけの時間が流れていた。



第八章 夏の終わりに


美月の転校の日がやってきた。翔太は駅まで見送りに行った。


「元気でいてくださいね」


「山田さんも。勉強、頑張って」


「田中くんも」


美月は小さな包みを翔太に手渡した。


「これ、何ですか?」


「開けてみてください」


中には、夏祭りの写真と手紙が入っていた。手紙にはこう書かれていた。


『田中くんへ

この夏は私の人生で一番素敵な夏でした。

田中くんと過ごした日々は、一生忘れません。

遠く離れても、田中くんのことを想っています。

いつか、また会える日まで。      美月』


「俺も、山田さんのこと忘れません」


「本当に?」


「本当です。いつか、必ずまた会いましょう」


電車が入ってきた。美月は涙を拭いて、翔太に微笑みかけた。


「田中くん、本当にありがとう」


「こちらこそ」


美月が電車に乗り込む。窓越しに手を振る彼女に、翔太も手を振り返した。


電車が去っていくのを見送りながら、翔太は胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。


エピローグ 三年後


大学二年生になった翔太は、久しぶりに母校を訪れた。校舎はあの頃と変わらず、蝉の声が夏の訪れを告げていた。


図書館に入ると、懐かしい光景が広がっていた。あの席に座り、美月との思い出を振り返る。


三年間、二人は手紙やメールで連絡を取り続けていた。美月は大阪の大学に進学し、翔太は東京の大学に通っている。


今でも互いを想っているが、それぞれの生活があり、新しい出会いもあった。でも、あの夏の記憶は色褪せることがない。


翔太は美月からの最新の手紙を取り出した。


『田中くんへ

お元気ですか?私は元気にやっています。

大学での勉強は大変ですが、充実しています。

田中くんとの思い出が、いつも私を支えてくれています。

あの夏がなかったら、今の私はいませんでした。

本当にありがとう。

いつまでも、大切な思い出として心に残っています。    美月』


翔太は手紙を胸に当てて、目を閉じた。夏の日差しが窓から差し込み、あの日のように彼を照らしていた。


初恋は終わったけれど、その温かさは今でも心の中に残っている。美月が教えてくれた恋の素晴らしさは、翔太の人生の宝物だった。


「ありがとう、美月」


翔太は小さくつぶやいて、図書館を後にした。


外では新しい夏が始まろうとしていた。あの夏のような特別な出来事はもうないかもしれない。でも、翔太は知っていた。人生には、いくつもの素敵な夏が待っているということを。


夕日が校舎を染める中、翔太は歩き続けた。心の中で、永遠に終わることのない夏の物語を大切に抱きながら。

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