池人魚を探して

跡部佐知

池人魚を探して

 僕の住む東北の片田舎の神社には池があって、澄み渡る池の水の下、べっこう飴みたいに黄色い鯉が何匹も住んでいる。そして、県外からもたくさんの参拝客が来る。

 東北の辺鄙な神社まで、人々がわざわざ参拝する理由は、黄色い鯉が金運をもたらすという言い伝えがあるからだ。

 その由緒こそ不確かだけれど、ご利益の謂れだけが先行して人々はここへ来る。なぜ黄色い鯉が住んでいるのかも知らずに。

 その神社は鯉に餌をやっている老人、しょぼい遊具に集う子供など、地元の人たちの憩いの場になっている。僕も小学生の頃は、上級生に占有されていないことを祈りながらよく足を運んだ。

 高校一年生の僕が神社に通う理由は、憩うためではない。

 中学三年生の頃、僕は受験の不安から、息抜きに合格祈願でもしようと思い神社へ行った。そのとき、黄色い鯉に餌をあげている池の主みたいなおじさんが話しかけてきたのだ。

「お参りかい?信心深いねえ。若ぇのにいいことだべ」

「そうです、ありがとうございます」

「話し方もしゃきりとして気概がいいねえ。こういう若いのは珍しい。気に入った。誰にも言ってない噂教えてやるべ」

 全体的にうっすらと汚れているように見える作業着のようなこなれたきった装いなのに、嫌悪感は全くなく、むしろ清々しさのようなものを覚えた。

 人柄がいいんだと思った。だから、その後に話されたことも、嘘ではないのだと思えた。

「あんた、池人魚って知っとるか?」

「池人魚?知りません」

「だべなあ。まあ知らんべ。興味はあるか?」

 池人魚という言葉。人魚は海にいるはずだ。それなのに淡水でしかも神社の池だ。半径五メートルくらいの小さな池に人魚がいついているのかと純な好奇心が湧いた。

「あります。池人魚ってなんですか?」

「池人魚ってのはなあ、文字通り池の人魚さ。この神社の池に住んでいるらしい。俺もちっせえころに江戸生まれのおじいちゃんから一度聴いたっきりで、嘘か誠かもわからねえけどよ」

 未確認生物や都市伝説が好きだった僕は、池に人魚がいるのならば見てみたいと思った。

「たしかに、いるかもしれませんね。池人魚」

 おじさんは目を丸くした。

「おっ、信じるかあ」

 朗らかに笑うおじさんは、七福神みたいだ。

「でも、どうすれば池人魚を見られるんですか?」

 黄色い鯉たちが、水面に何匹も集まっている。大きいのから中くらいのまで軽く数十匹はいるだろう。顔を懸命に寄せ合って口をぱくぱくさせているのが、雅やかでありながらも、どこか下品で滑稽だった。

「それは分からんな。ただ??」

 おじさんは黄色い鯉に優しいまなじりでパンくずを投げた。

「信じていれば、見られるんでねえの」

 水面に浮かぶパンくずがなくなっても、黄色い鯉はまだ口をぱくぱくさせている。何かを訴えかけるように、ずっと口を動かしていた。その訴えに呼応して、水面は激しく波立っていた。

「そんなに餌が欲しいかあ、今日はこれっきり。また明日だべ」

 ああ、おじさんはきっと信じていないのだろう。池人魚なんておとぎ話の範疇だと思っているのだろう。

 この目で確かめてみたいと思った僕は、受験が終わって高校生になったら、毎日この神社に通おうと胸に誓った。

 参拝したあの日から、僕は受験に向けていっそう邁進した。

 努力の甲斐あって無事志望校へ入学することが叶い、春に初めて登校した日から、毎日欠かさずお参りを続けた。高校生活は忙しかったけれど、幸いなことに通学路で付近を歩くから、家に帰る前に神社へ立ち寄ることができた。

 からからとした暑さがやってきた七月の初旬、お参りを始めてからもう百日くらい経ちそうなことに気づいた。

 入学式の帰り道、百円玉を全て一円玉に両替してもらうために銀行へ行った。銀行員にその用途を問われたが、百日参りのためと言ったら、手数料もなしに快く引き受けてくれた。だから、一円玉の枚数を数えれば百日までの日数が分かった。

 ポケットに手を入れる。一円玉は今日で残り二枚だ。いつものようにからんからんと鈴を鳴らし、手を合わせ祈った。

 このとき、祈るのはいつも池人魚のこと。どんな姿なのだろうと想像を巡らせて、ぎっしり祈りを詰め込む。会えますように、見えますように。そう願うと相対が叶う気がした。

 祈りを終え、目を開けて足元に視線を動かすと、親指の爪くらいの大きさの鱗が落ちていた。

 水色の透き通ったそれは、魚のものとは目に見える質感が、手触りがまるで違う。

 池人魚の噂は本当だったのだと直感して、僕はその鱗を両の手で優しく包んだ。

 駆け足で家に着くと、机の上にティッシュを敷いた。その上に鱗をそっと載せてみた。デスクライトが鱗を照らし、光の筋がまっすぐ浮かんで綺麗だった。触れれば、しなやかさと共に、硬度を感じられた。

 鱗の水色の透き通る感じは、今までに見たことのないものだった。純度の高い琥珀のように透明で、触れて目を瞑れば自然と神社の池が浮かんだ。

 また、人の手が加わったような乱れ気を一縷も感じることがなかった。それは、人の踏み入れたことのない原生林のような自然の気迫を纏っていた。

 鱗は、観察の後に机の引き出しに閉まった。

 その晩、ふわふわとした浮遊感があった。プールで毛伸びをしながら体を浮かしているときのような、浮体している感覚がじんわりと全身を包む。布団の中にいるのに、まるで水の中にいるかのような心地だった。

 水色の鱗でできたくねりが見えた。尻尾の先端は黄色く、胴も鰭も鯉のようにずんぐりとしていた。池人魚だった。

 尾鰭はリュウグウノツカイのようにひらひらとしているものかと思っていたが、鯉のように不格好だった。

 池人魚の顔は、夢の中の解像度の低さからはっきりと視認することは叶わず、おぼろげなままだった。

「鱗を返してほしいのです」

 勝手に拾ったものだったけれど、夢枕にまで出てこられるとは想定もしていなかった。

 声がうまく出なかった。あぶくのような軽い振動だけが滞留していた。音なき声が水中に融けていくみたいに、瞬間だけをさっと掠めていった。

 どうやって返せばいいのだろうという疑念と、申し訳なさが心内に同居していた。

「明日の夜の日の落ちた頃、神社までお越しください。お礼とともにお目にかかります。鱗を置き忘れました私にも非がありますゆえ、どうか、いらしてくださりますと嬉しいです」

 水色の胴の下、黄色い尻鰭がくるんと翻り目が覚めた。見慣れた自分の部屋だった。寝ぼけ眼の先にある勉強机の引き出しが開いていた。

 その日の晩、夕ご飯を食べ月が出るのを持ってから、神社まで急いだ。

 田んぼが反射する街灯は直に見るよりも美しい。粒のような光たちがゆらゆら横に過ぎ去っていくのと一緒に走り抜けた。半袖から露出した肌を撫でる夜風が心地良いのに、不思議に汗をかいていた。

 お辞儀をせず神社の鳥居をくぐり、手水も忘れて池の前に立った。常闇の池の全貌を俯瞰しつつも肩で息をしていた。

 落ち着きのない派手色の鯉も、夜には静かなるもので、青い水面の深くに、奥ゆかしい姿で沈殿しているのだろうが、暗く確かめる術はなかった。池の水は透明度が高く、深いのか浅いのかよくわからない。日中は鯉がいるから深度を見失わないでいられたが、その鯉の標も当てにならない今、底知れない深さと、打ち鳴らす木々のざわめき、草木同士で擦れ合う音が身震いさせる。夜の深くなっていくのが全身でわかる。

 池人魚に会えるかもしれないという好奇心から胸が高揚した。その高揚感と、夜の神社の生む恐怖心で足がすくんだ。怖気づいて鼓動が早かった。混じった二つの思いは初恋のざわめきに似ていた。

 呼吸が整ってきても、池人魚は出て来なかった。池を見渡せども、尾っぽの一つも見当たらない。

 ふと、お参りをしていなかったことを思い出し、駆け出した。一円玉をお賽銭箱に投げ入れ手を合わせた。

 池の方角から、風呂の湯をかき混ぜたときのようなせせらぎとも似つかぬ音がした。振り向けば人型の影が水上に見えた。暗い池の水面からも、下半身がきらきらと光っているのがわかる。魚の群れを川の上から覗いたきに一瞬目に入るような、瞬間の煌めきを僕は捉えた。

 神社の石段を降りておそるおそる池の方に近づいた。

 一四〇センチくらいはあるであろう人魚がいた。池の水位はあれども僕よりは小さいくらいだ。

 朝露のように輝く、うるうるとした黒目に飲まれそうだった。ぽってりした唇と、すあまのように火照った、甘い張りのあるほっぺたに触れてみたくなる。胸元まで伸びた黒い、波のようにうねった髪の束が綺麗だった。その髪の束は胸部に覆い被さっていた。髪の隙間から覗く小麦色の濡れた肌と、へその下から連なった、てかてかとした鱗が色っぽかった。呆然とその姿を見るのに手一杯だった。

 決して美人とは言えないのに釘付けになっていた。目を離せなかった。

 鱗をポケットから取り出して、池の上に手を差し出した。彼女は腕がなく、人間でいう腰のところ、つまりは胴体と鱗の境目の部分に手のひらみたいな黄色の鰭がちょこんと生えているだけだった。

 水の音と飛沫が生まれるのを確かめた途端、僕の目前に移動していたそれは、確かに人魚だった。彼女は僕の方に尾鰭を見せた。

 夜の神社に透き通っていた昼間の池の面影はなく、真っ暗で何も受け付けない。池人魚に引っ張られたら僕はきっと溺れて死んでしまうだろう。

 手が届けば彼女の頭に触れることのできるくらいの距離。つまりは、僕も引きずり込まれてしまうくらいの距離で、焦点が合ったのは彼女だけだった。

 彼女は僕の方に頭を垂れて、鼠径部の先端についている鰭をぱたぱたさせた。鱗を返してほしいという意思表示だと僕は受け取った。

 その鰭では鱗を持つことはできなさそうなので、僕は頭の上に鱗を乗せた。

 小刻みに身体が揺れている。表情はうまく見えないが、甘い息遣いが聴こえる。

 ふふ、ふふふ、という弾けるような短い吐息がいくつか静寂に運ばれていった。月光以外の明かりが一つ見えた。

 池人魚は、鱗を乗せたまま僕の方を上目遣いで見てきた。どきりと高鳴る胸の温度は、彼女のせいか、神社のせいか。

 黒目の大きい真ん丸な瞳に、垂れた目尻が妖艶だった。濡れた小麦色の地肌も、ぬらっとしていてその感触を確かめたくなる衝動に駆られた。

 水面から上半身だけを露わにしている池人魚は、尾鰭を左右に揺らした。同時に腰のあたりの鰭もぱたぱたと前後させた。

 どことなく喜んでいるのが分かった。

 笑うと乱杭歯が散見できたけれど、それも素朴なかわいさがあって、子供みたいに愛らしかった。

 急に姿が見えなくなったと思えば、飛沫もなく、波紋だけが彼女がいなくなったことを表していた。今度は音も聴こえなかった。

 彼女がいなくなったあとも、その波紋をじっと見つめていた。水面が凪いだあとも、ずっと目を離さなかった。池を眺めていた。鯉さえも顔を出すことはしなかった。

 どれくらい経っただろうか。腕時計を確認した僕は、はっとなってすぐ神社を後にした。もう家を出て二時間になるところだった。

 ドアを開けると母が心配そうな顔をして待っていた。

 その日は急いでお風呂に入り、浮ついた気持ちで眠りについた。明日は学校だというのに、課題のことも思い返さなかった。目を瞑っても、瞼の裏に彼女の笑顔や、滴る感じが残り続けていた。

 ふんわりとした意識の中で、池人魚の姿が浮かんだ。

「今日はありがとう。返してくれて嬉しいです」

 丸い小顔に並んだ歯を見せながら、目を細めて笑ったあと、彼女は軽くお辞儀をした。昨日の夢とは違って、今日の夢は表情まで鮮明にわかった。

「いえ、こちらこそ勝手に拾ってすみません」

 池人魚は、どうして僕には姿を見せてくれたのだろう。

「あなた、信心深いのですね。若いのに」

「え?」

「最近はあなたみたいな、若い人はお参りには来ませんもの」

「でも、あの神社は金運のご利益で有名なはずでは……」

「それはその通りですけれど、毎日継続して参拝してくる人なんてまずいませんわ。それに最近じゃ池人魚の噂を知っている人だってめっきりいなくなりましたもの。いつも鯉に餌をあげているあのおじさんと、神主さん以外もう誰も知らないのですよ」

 僕は首を傾げた。

「僕にはなぜ見えたのですか」

「簡単です。あなたが池人魚を信じたからです。おじさんは池人魚なんて信じていませんわ。もちろん神主さんも。でもあなたは子供ながらの純粋な心情で人魚のことを信じたのです。だから私が現れる力を持って、姿をお見せすることができたのです」

 池人魚は、少しそわそわしている。

「あなたは今日で何日目ですか?」

「お参りのことですか?九十九日目です」

「そうよね。そうですよね。それくらいなはず」

 彼女はうんうん、とうなずいた。

「百日もお参りするとね、見えてしまうのです。そして--」

 彼女は少し間を置いて息を吸った。

「見えてしまって、それ以上に進むともう従来の運命は送れなくなります」

「どういうことですか」

「どういうことも何も、そのままです。あなたの運命は変わるのです。明日お参りをしたら、あなたの来世はあの池の鯉になると決まるのです」

 流し目で彼女は呟いた。悲哀に満ちた切なげな眼差しは、虚ろでありながらも魚にはない温もりを帯びていた。

「あなたが私に恋をしているのも、姿を見てしまったのも、信心深いのもそうですね。要件が重なり合って、あなたの来世はあそこの鯉になってしまうのです」

 何を言っているのかがわからなかった。彼女は体をU字型にくねらせて、尾鰭をひらひらさせて、視線は遠くの方を向いていた。

「人間って不思議ですよね。池に住む鯉が黄色いという理由だけで、金運と結び付けて。取ってつけたようなご利益を掲げて。もう当時のことを知る人はいないのに」

 彼女の横顔が綺麗だった。物憂げな表情に対して同情するでも共感するでもなく、美しさを感じていた。

「こんな田舎の神社の池にどうして人魚がいるのかをご存知ですか?」

 僕は首を横に振った。

「それは、人間が池人魚を封印したからです。この土地の開発を推し進めるべく、近くにあった沼を干拓したのです。どんな湖沼にも必ず主がいて、この池の場合はそれが私です。私は、黄色い鯉をはじめに、池の生き物の住処を守るべく、人間たちの干拓を妨害しました」

 潤んだ瞳が鱗にも負けないくらい輝いていた。彼女は今にも泣き出しそうだ。

「無論、所詮は魚に過ぎませんから、人間の干拓を阻止することはできませんでした。そして、人間に捕らえられた私は、神社に封印されることになりました。表向きの神社の歴史では、池人魚ではなく、巨大な暴れ鯉を鎮めたということになっています。池人魚を仕留め、封印したのがこの神社の謂れです。今残っている池は、干拓した沼の成れの果てです」

 今まで神社の由来なぞ考えてこなかった。彼女のことを思って、やるせない気持ちになった。僕の家は多分、干拓した土地の上にある。

「黄色い鯉の秘密も伝えましょう」

 不安そうな僕を見て、池人魚はことこと笑った。

「鯉は魚の中でもすごく寿命が長い。それは、人間の生まれ変わりだからです。表向きの歴史では、黄色い鯉は暴れ鯉の末裔となっていますが」

「そして、鯉が人間に向かって水面で物乞いをするのは、人間であることを主張しているからなのです。だからあんなに必死そうに水面の水を飲み込みながら口を動かすのです」

 どうやら、明日参拝してしまうと僕の来世は鯉になるらしかった。それが本当かどうかは別として、彼女と共に暮らせるのであれば、それはどういう形であれども、例え使役されるような関係性であろうとも楽しそうだと思った。

 人間の魂を借りた形があの鯉なのだろう。

 だからあんなに必死に、何かを訴えかけるように鯉は口を動かすのだ。池の魚に過ぎないのに、ケダモノのようなどす黒さを覚えた。その異質さと違和感が気持ち悪かった。

 不思議と池人魚を恨むような気持ちはなかった。

 言葉にできない気持ちが蓄積していた。

 明日で百日目を迎えるが、もし行けば、来世はあの池の黄色い鯉になる。

「あの、これから先も--」

「百日目を過ぎても会ってくれますか」

「え?私ですか」

「もちろんです」

「構いませんよ。でも--」

「これくらいで留めておくのが身のためです。きっと」

「どうしてですか?」

「あなたがこれ以上私に近づいたり、私への気持ちをどういう形であれ膨らませたりすることは、現世から、厭世から、遠く遠く離れることになります。それはすなわち、あなたの命が偏っていくことでもあるし、それに--」


「あなたを引きずり込むことになります。池の底なんかよりもずっと遠くて深いところへ」


 首筋の冷たさで目が覚めた。

 布団がぐっしょりと濡れている。背中から首筋にかけて大粒の汗をかいていたらしい。

 その日の放課後、僕は最後の一枚の一円玉をポケットに入れたまま、いつものように神社へ向かった。

 おじさんがいたけれど、なんとなく自分の中だけの秘密にしたかったために彼女のことを話すつもりはなかった。

「こんにちは」

「お、こんにちは。もう何ヶ月も通ってるよなあ。どうだい、池人魚は見られたかい?」

「どうなんですかねえ、いないと思います」

「そうかそうか。噂半分だしなあ。ただ、若いのに信心深いのはいいこったが、踏み入るのもほどほどにな」

「そうですね。本当に」

 おじさんは手慣れた仕草で鯉に餌を撒いた。

 黄色い鯉たちの口が一斉に開くさまを見て、蜘蛛の糸を空から垂らした神様は、きっと地獄の人間たちをこういう風にむさ苦しく感じていたのだと思った。

 僕には、黄色い鯉たちの訴えは読み取れない。

 でも僕だけが、彼らの秘密を知っている。今日鳥居をくぐった以上、これから先に待ち受けていることも知っている。

 池の底に、大きな大きな、ひと際目立つ主のような鯉を見た。もう何年生きているのかもわからない。六十年は堅いだろう。

「餌をあげてみるかい?」

 会釈して、ありがたくいただいた。

 餌をまくと一斉に鯉たちが群がってきて、ぎょっとした。

 僕も将来こういう風になるのだと思った。

「池人魚の噂、俺は信じてないけどよお。でもなあ、あんまり深入りしすぎないほうがいいぞ。教えた身が言うのもなんだが、本当にまずい噂っていうのは、伝承が途絶えていくものなんじゃないか。ここら近辺でもうこの噂を知っているのは俺だけだ。それくらいに忘れられたおとぎ話さ」

 僕は彼女のことを知らない。好きな色も形も。

 最後に残った一円玉を握りしめ、賽銭箱へ向かった。お参りを済ませた後に池の水がちゃぷんと鳴った。わっとして振り返ると、一瞬だけ、黄色い尾鰭がくるりと水面を穿つのが見えた。

 池には、派手色の鯉はなく、やはり波紋だけが広がっていた。

 おじさんは、鳥居の方に後ろ姿があるだけだった。

 黄色い尾っぽが左右に揺れているように見えて、僕はそれが嬉しかった。

 彼女のとろりとした瞳、なまめかしい鱗、艶っぽい素肌、どれを切り取っても忘れられそうになかった。不確かなどぎまぎとした気持ちを覚えた。

 明日も、そのまた明日にも、またここに来ようと思った。今日で百日来てしまったのだから。

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