Ⅱ(1)
*
会計を済ませて店を出た。卓巳と均は心地よく酔っているようだ。足許をふら付かせながら、駅までの道程を歩いていく。途中、橋の欄干にもたれて、下の暗い川の流れを見ていた。
五月の宵は過ごし好い。駅に着くと、そこに待っているタクシーに乗り込み、村の名前を告げて出発してもらうことにした。
タクシーは夜の光景の中を進んでいく。ふだん、早くに家に帰る慎也にとっては、夜の光景を見るのは珍しいことだった。村に近づくにつれてネオンの数も減少し、民家から洩れる光も微少なものになっていった。
「さっきの話だけど」と均が声を出した。
慎也は、どうした、と訊ねる。
「ほら、蓮華寺の話――」
「ああ」
「思うんだけど、俺もちょっと気になるかな。今度暇なときに行ってみるよ。そんなに酷いんだったら、俺も村の人間としてひと肌脱ぐくらいの覚悟があってもいいかなって思いはじめてね」
まさか均がそんなことをいってくれるとは、慎也は思わなかった。そんなことをいい出すのは、均よりも卓巳のほうだと思っていたから、そのギャップが逆に嬉しかった。しかし残念なのは卓巳だった。そういうことには積極的になるたちのはずだった――高校時代は少なくともそうだった――卓巳が、今回の話に消極的になっているのはどこか普通でない気がした。いったいどうしたのだろう……。はじめから、卓巳は様子がおかしかった。なにか心が目の前のことに集中されていないようでいて、些細なことで腹を立てるあたり、均と性格が交換されたようにすら思えてくる。
均は高校卒業後、大阪の調理師学校に進学し、そこで料理の勉強をしてから、地元に戻って来て和食の店に就職した。近くの駅前にある割烹の店だった。名前は『銀斗』。ビジネスマンの接待利用がその客層の殆どだったらしいけど、働き甲斐はあったという。しかし均の生来の性格が禍いして、他の従業員とトラブルになり、喧嘩して退店することになった。
幼いころから、性格破綻者に近かった均は、就職してもその性格を矯めることはできず、結局、いまはまったく仕事につかずに、日々ぶらぶらしているわけだった。その均が蓮華寺のことに真剣になってくれることが、自分には嬉しいことだ、と慎也は考えた。
「蓮華寺のこと、ほんと大切なんだ」卓巳がいないかのようにして、慎也は均に自分の思いを語った。「庵主さまと話をしていたころの、あの隔てのない優しい表情に俺は魅せられてたんだなって思う。澄み切った心をもって自分と接してくれる、あの当時、他にかけがえの無かった人だったんだよ」
「ヘンな感情は無く?」均は驚くようなことを口にした。
「まさか」慎也は呆れたように笑った。
「でも、確かに、宗教にある人は、普通の人間にはない透明さがある気がするな」
「そうだろう。俺の家、熱心にお供え物とか持っていってたから、俺も子供のころから蓮華寺にはよく行ってたし、その折々に、庵主さまからいろんな言葉を頂いていたからさ……、いまでも時折、思い出すんだ。そのときに教わった言葉なんかをね」
「どんなのがあった?」均は興味を惹かれたのか、そう訊ねてきた。
「〈盲亀浮木〉の話とかね」
「もうきふぼく?」
「ありがたい教えに出会うのは得難いことだっていうお話。仏教の挿話のひとつだよ」
「そうなのか」均は感心するようにいった。
そのときタクシーの運転手がいった。「そろそろ着きますので」
「おう」と均がいった。タクシーを降りるとき、卓巳はすでに助手席で眠りこんでいた。起こすと寝ぼけて、んー、と伸びをしたので、均と慎也は二人で笑いあった。
*
二人と別れて家に着くと、リビングでは珍しく父と兄が晩酌をしていた。この二人の取り合わせに、慎也は奇妙な物を感じた。兄が孤独な部屋を抜けだし、こうして家族と関係を持っていること自体、ここ最近なかったことだった。しかし、慎也も二人に混ざることを勧められ、コップをもってソファに座ると、兄は、今日、長く掛かって書いていたある小説を書き終えることができたんだと嬉しそうにいった。
ずっと兄は、家族と絶縁することを旨としているように慎也には感じられてきたが、どうやらそれは間違いだったらしい。
「今日は誰と飲んでたんだ?」と崇は訊ねてきた。
崇の姿を目の前にしていると、今日のさくらとの会話の内容が思い出されてきた。
高校の頃、この兄がさくらに対してストーカー行為をしていたことについて。もしかしたら、兄が小野家に入って、さくらの部屋を荒らしたかもしれないということについて。しかしストーカー云々は確かにそうだったかもしれないけれど、盗みに関しては、兄は白だという確信が慎也にはあった。感情が表に現れることがなく、それが裏に籠って燻ることはあっても、計画的で、犯罪的で、扇情的な方向には兄はいかないという確信があったからだった。
それは非常に微妙な処で、また、いまの崇を見ていると周りから誤解されるところかもしれないけれど、プライドの高さを持ちあわせている兄だからこそ、その方向にだけは進まないだろうと思えた。
慎也は、友人二人と飲んできたことを口にした。しかし、その前にさくらと出会ったことについては口を噤んでいた。そんなことをいっても何にもならないし、兄に余計な感情を与えることは避けたかった。
「卓巳と均か……」
「お前ら、仲いいな」と父の政史はふっと笑った。
「腐れ縁ってやつかもしれないけど、でも、あいつらが居てくれるから、俺は毎日張り合いがあるのかもしれない……」慎也はしみじみといった。
「そうだ、壮さんがいわれてたぜ」
そのとき崇が口にした。「壮さんがなにを?」
「うん、かなでちゃんの勉強を見てやってほしいってな」
崇はかなでの父親である相葉壮を親炙していた。というのもこの村の中で人格者というか、それなりに高等教育を専門的に受けたのは、現大学教授の相葉壮くらいだったからだった。崇は自分でも大学を出たあと、作家になって、その上でまだ学問における探究心を棄ててはいなかったので、ことあるごとに相葉家へ行って、壮氏にさまざまなことを助言してもらっているのだった。
きっとその折に、かなでの家庭教師のことを依頼されたのだろう。
「兄貴には声が掛からなかったの?」と慎也は問いかけた。
「俺はかなでちゃんとの相性の問題もあるし、執筆もあるし、いろいろと無理なんだ。その点、慎也は適任だろう。かなでちゃんも懐いてるし、壮さんもお前のことはすごく認めてるんだからさ」
「そうなのか」慎也は自分が必要とされていることが嬉しかった。
かなでから家庭教師の話を聞いたときは、一時の気まぐれでそんなことを彼女がいい出したような気がしていたけれど、改まって父親の壮氏からいわれたのであるなら、それは格別のことであるように受け止められた。
「その話、受けようかな」
慎也がいうと、崇はそうか、といって喜んだ。
慎也は自分のコップに注がれている酒を口にした。地酒の吟醸酒だった。
「この酒、どうしたの?」と慎也はいう。
ふだん安酒ばかり飲んでいるこの家族にしては珍しいことだった。
「職場の同僚が出張で新潟に行っていてな。戻って来るときに土産で買ってきてくれたんだ。豪勢だろう? なかなか飲めない逸品だよ」
政史はにっと笑みを浮かべた。
「そうか、道理で家では買わないような酒だと思った」と慎也。
「まあな」父はまた笑った。
父と兄は打ち解けていた。それをキッチンから見る妙子も、普段に比べて機嫌がよく、作りたての小鉢の料理を出して二人の機嫌を取っていた。
*
微醺を帯びて部屋に引っ込むと、満たされた気持ちになった。今日購入した『銀の匙』を袋から出し、本棚に並べる。ボロボロになった方の『銀の匙』の文庫本を手にしてベッドに横になる。冒頭から一章目だけをじっくり読んでみる。もっと読みたくなったけれど、まずは大学の課題を済ませることにした。
課題をこなしていると、部屋がノックされた。扉の向こうから掛かる声は姉のものだった。
慎也は返事をして、優子に部屋へ入ってもらうことにした。
「いま、いい?」と優子は不安そうに訊ねた。
「もちろん」と慎也は返答する。
優子はベッドの上に腰を卸した。一度、溜息をつくと、それから訥々と話しはじめた。「崇の作品を少し読んでたの」
「珍しいね」
「そうなの。それでね、小説を読んだんだけど、なんか崇の性格っておかしくないかな、と思ってね」
「おかしい?」
慎也は姉の言葉に引っ掛かった。
「どうおかしいのかな?」
「それなんだけど」優子は続けた。「崇の作品って、語り手が多彩というか、その作品によってまったく個性の異なるものを描いているように思うんだけど、実際、読みこんでみると、そのどれもが、崇の個性を反映しているように思えなくて、すべてが作り物という気がしてならないの」
「それが兄貴の持ち味じゃないのかな?」
慎也は反駁した。しかし優子は彼の反応を意に介さないようだった。
「でも、どれも張りぼてみたいで気持ち悪くない?」
「そんな風に考えたことはないな」慎也は困ったように声を洩らした。
優子は、自分がおかしいのかな、と反省してみせた。
「俺も兄貴の作品、いろいろ読んだけど、しっかり書けてるっていう印象が強いかな。基本が出来てるから、結構なんでも器用にこなせるのかなと思ってる。作品に著者の個性というかその個人が出ているものに価値を見いだす評論家もあるだろうけど、小説として見たときに、個人が出ているか出ていないかなんていうのはそれほど重要な要素じゃないと俺は思うかな」
「難しいね」
優子はそれだけいうと押し黙った。
「なんだか、怖いのよ」優子は懸念を口にする。「崇の書く小説の主人公はどれも偏ってて、ちょうどいい主人公がいないのよ。もちろん、崇がそういう傾向を持っているわけじゃないのはわかってる。ひとつひとつの作品の主人公がそれぞれに異なる性向を持ってるから、崇がひとつのタイプに執着しているわけじゃないとはわかるんだ。でも、やっぱり私は怖いかな」
慎也は返答した。
「作品のなかで見せる顔っていうのは、兄貴のなかの個性の一部であって、全部が出ていないから価値がないって思うのもまた当たらない気がするかな――」
慎也は最前と言葉を変えながら、しかし同じ意味の言葉を口にした。
優子は一応、その言葉を受け入れたようだった。
「ヘンな話、しちゃったな。そろそろ戻るね」
優子はそういうとベッドから立ち上がった。
「また何でも話そうよ」と慎也は立ち去る姉の背中に向かって声を掛けた。
優子は振り返って、そうね、といってそれから微笑みを残して去って行った。
また一人になった。一人になると、急にさくらのことが愛おしく感じられてきた。今日あんな風にしてデパートで出会えたことが嬉しかった。やっぱりさくらと自分とは縁で結ばれているんだと思うと、幸せな気分になる。もちろんそんなものは幻想とか妄想なのかもしれない。しかしいまこのときは幻想でも妄想でも、気持ちよく居られるなら、それだけで満足していたいという気持ちが強かった。
慎也は課題に戻った。
課題はレポートだった。耽美派の作家についてまとめるもので、慎也はこれまでに読んだ本を思い浮かべながら、実際に本棚から数冊の書籍を取り出し、それに当たりながら、レポートを纏めていった。
廃寺のある風景 そうげん @sougen01
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