Ⅰ(5)

   *


 慎也はさくらに、時間ぎりぎりまで蓮華寺の清掃の計画について細かく話した。さくらは、それは素晴らしい考えだと同意してくれる。慎也は気を良くした。計画実行の暁には、ぜひ参加させてもらうとさくらは約束した。

 デパートの外で別れた。さくらはこれから家に連絡して、母親に車で迎えに来てもらうらしい。

 彼は待ち合わせ場所に急いだ。着いてみると、そこにはすでに、卓巳の姿があった。さくらの弟の卓巳は、さくらに似ず、男らしい精悍な顔つきをした青年だった。しかしどことなく内に籠るような性分も持ちあわせる人物である。黙っていると、どこかに不満がありそうに見えるのも、その特徴のひとつだった。

「よお」と慎也は友人に声を掛けた。

「おう」と卓巳も短く返す。

 二人は笑顔を交わし合う。

「今日はどこに行くんだ?」と卓巳は問いかけてきた。

「一駅南に行って、飲み屋街で飲まないか?」

「川原横丁か」

「そうそう」

 慎也は卓巳に自分の考えを話した。川原横丁はこの辺りでは歴史のある通りで、昔からやっている老舗の飲み屋がたくさん集まっている、ビジネスマン御用達の、夜の社交場といった趣のある地区だった。

「二次会とかいって、風俗に行くようなことはないよな?」

 卓巳は妙な気の遣い方をする。

「ないよ、そんなのは」慎也は真っ向から否定した。

 それを聞いた卓巳はほっとした表情を見せたが、そこにはある種の落胆も纏いついているように慎也には思えた。

「均、遅いな」と慎也はいった。

「まあ、あいつはいつも定刻にはこないから」

「そうだな、少し待ってようか」

 慎也と卓巳はもうひとりの待ち合わせの相手である砂原均の到着を待った。この三人に相葉優を加えた四人が、地元の、幼稚園から一緒だった同年の幼馴染の全員だった。

「優と連絡取ってるか?」と慎也は卓巳に問いかけた。

「ぜんぜん」と卓巳は答えた。

「どうしてるだろうな」慎也はしみじみとした口調で、そう告げた。「そういえば、今度、夏休みに帰ってくるらしいよ、こっちに」

「そうなのか」卓巳はあまり喜んでいる風にも見えなかった。ただその事実をそのままに受け入れて、何の感興もないように見えた。「優の顔は、また見てみたいな」

「ああ」慎也は肯った。

 そのとき通りの向こうから一人の青年が二人に向かって手を振りながらやってきた。

 見ると、それは均だった。

「すまんな、遅くなった」と均は苦笑した。

「いつも通りだよな」と卓巳。

「ひょっとして信用喪ってる?」

 均はショックを受けたのか、落ち込んだふうな口調でいった。

「さあ、揃ったことだし、店行くか」

 時刻は五時四十分を少し過ぎていた。三人は駅の構内に入って切符を購入した。JRで一駅南に下り、駅前に出ると、横町へ向かって歩き出した。

 途中雑貨屋があり、卓巳はそこにディスプレイされている小物に関心を惹かれたのか、立ち止まって品物を眺めていた。気付いた慎也は足を停め、卓巳に問いかけた。「どうしたんだ?」

「いや、姉貴が今度誕生日なんだ」

「さくらさんが?」

 卓巳は「そう」といいながら、未練を残す風に視線を切って、また歩きだした。


   *


 川原横丁は、その名の通り辰尾川の土手を挟んだ裏手にある飲み屋街だった。規模の小さな店舗がひしめき合って、限られた客を取り合っている。小さな街特有の、洗練しきっているわけでもなく、野暮ったいわけでもなく、べろべろに酔った客がいるわけでもなければ、犯罪の横行するような社会の暗部の露出もないそんな場所だった。

 慎也は明確に、この店で、と心当たりがあるわけではなかった。ただ、ここへ来ればどこかにいい店が見つかるだろうとの思いがあったから、決めただけのことだった。辰尾川に架かる橋を抜け、暫らく土手を歩いて、通りの入口に到着する。辺りは暗くなってきていた。

 いくつかの店の前を抜けたところで、均が声をあげた。「ここどうかな?」

 見ると、そこは創作料理の店だった。〈地酒アリ〼〉という看板を出している。慎也は悪くないと感じ、卓巳にどうするか訊ねた。卓巳も同意した。

 三人は店に入り、テーブル席で飲むことにした。四席あるテーブル席のうち二席はすでに埋まっていた。慎也たちは入口に一番近いテーブル席に案内され、そこに腰を卸した。

 ビールを註文して、それからおのおの、二、三品ずつ料理を註文した。やがてビールが運ばれてくる。乾杯をして、飲み始める。

「こうやって飲める日が来るってのも嬉しいもんだな」と均はしみじみいった。

「そうだな」と慎也はいったが、卓巳は表情を翳らせて何もいわなかった。「どうしたんだ、卓巳?」と慎也は問いかけた。

 卓巳は小さく頷くだけで何も口にしない。

 均が話頭を転換するようにいった。「そういえば、お姉さん、大変だったな。村中、騒がれてるぜ。お姉さんの部屋を荒らしたのはいったいどこのどいつだ、ってね」

 卓巳はかっとしたようにいった。「そんな話、するな!」

 場はしーんと白けた。

 均は卓巳の癇癪に戸惑っていた。「どうしたんだよ、急にそんなに声を荒らげて……」

「そんな話、するなよ……」卓巳の言葉には恨み節に近いようなものが混じっていた。

「わかった、悪かった、もうしないよ」と均は謝る。

 慎也は意味が分からなかった。どうして卓巳がそんなに苛立ったのか。均の話の持っていき方に性急なものがあったかもしれない。しかし、そんなに怒るほどのものではないだろう。もしかすると、卓巳自身、今回の事件に蟠りを持っているのかもしれない。姉の誕生日に何かを贈ろうと思って、雑貨屋のディスプレイを見るくらいに姉想いなんだから……。

 卓巳は運ばれてきた料理に箸をつけた。均も機嫌を直して、料理の論評などを始める。この酢の物は米酢でなく、リンゴ酢を使っている、とか、煮物に対して、あらかじめしっかり炒めてあるから、味がしっかり入っている、とか、さすが、元調理師だけあって、ここぞとばかりに蘊蓄が飛び出す。

「そうそう、実はひとつ思ってることがあるんだ」

 慎也は話を切りだした。

「思ってること? なんだ」均はきょろっと視線を慎也の顔に向けた。

「うん、蓮華寺のいまの状況知ってるか?」

「蓮華寺な……それがどうかしたのか?」と均。

 卓巳は黙っている。

「庵主さまが亡くなられたのは知ってるよな?」

「ああ」

「それ以来、あの敷地を世話する人がいなくって、いろいろと荒れ放題になってるんだ。それで、よかったら、この村の人に声を掛けて、一緒に清掃活動をしてもらおうと思ってて……」

 慎也が説明すると、卓巳と均はあまり気乗りしない態度を見せた。

「そんなことして何になるんだ?」

 醒めた反応が返ってくる。

 慎也は一筋縄ではいかないことを予感した。「ダメかな?」

 いま、店の中は、他の人の話し声がみっちりと覆っていた。


   *


 二人は清掃にあまり関心がないのか、会話はそれきり滞ってしまった。そのときモッツァレラチーズのサラダと、ボンゴレのパスタが運ばれてきた。持ってきたのは胸の処に〈井上琴美〉と書かれたネームプレートを付けた女の子だった。

「おまたせしました」とハキハキした声でいって料理をテーブルに置いた。

 彼女は茶色の長い髪を後ろで一つに括っている。大人しすぎる風でもなく、異性と遊びなれている風でもなく、適度に明るく、愛嬌があって、微笑むと人を魅了するようなところのある女の子だった。声も調子が整っていて、不快感を与えるということがまるでない。

 彼女が去ったあと、かわいい子だな、と均は他の二人にいった。

「そうだな」と慎也はその話に乗ったけれど、卓巳は相変わらず、むっつりしている。いったいどうしてそんなに空気を重くするのか、意味が分からなかった。

 二杯のビールの後、料理に合うお酒として勧められたのが白ワインだった。プロヴァンスの白である。店側の説明によると、プロヴァンスというのは、フランスでも南に位置する地中海沿岸の地域だという。どことなく明るい雰囲気のある、華やかな飲み口のワインだった。

 途中、琴美が通るたびに、均は彼女を品定めするみたいにじっと見た。

「そんなに見るなって」と慎也がいっても効果は無かった。

「まったく」とそのとき卓巳が声をあげた。

「卓巳からもなんかいってやってくれよ」慎也は助けを求めるようにそう口にした。

「そういうのは自由だから」と卓巳はいう。

 そのとき通りかかった別のサービス係に均は訊ねかけた。

「あの琴美ちゃんって、彼氏いるの?」

「そうですね……はい」佐々木というネームプレートを付けた男はそういった。

「そうか。なんだ、残念だな……」均は声だけ聞くと残念そうだったけれど、実際には、そう感じているとは思えないような、ただちょっと気に入らないという表情をしていた。

「彼氏いるのか……」均は自分の目の前のグラスの中身を飲み干し、テーブルの横に置かれている壜を手にとって、手酌でおかわりを注いだ。

「あ、さっき、さくらさんに会ったよ」

 卓巳がぴくりと反応した。

「何かしゃべったのか?」と卓巳はいう。

「昔の事とか少し――」

 慎也がいうと、今度は卓巳の食い付きが良く、彼はもっと話を訊きたがった。

「昔のことって?」

「ああ、うちの兄貴のこととか、いろいろね」

「崇さん、うちの姉貴と同級生だもんな。そうか、いろいろか。どんなんだろうな……」

 家に帰ってから訊けばいいじゃないか、と思ったけれど、そこには訊けない事情があるのかもしれない。慎也は搔い摘んで、卓巳に今日さくらに話したことを説明した。とりあえず、慎也が昔、さくらのことを好きだといったことは伏せておいた。

 話をし終わると、また卓巳はぐっと黙り込んでしまった。

「ほら、もっといろいろ話そうよ」と慎也は水を向ける。

 中学時代に一緒だった同級生のその後について話をしたり、最近凝っているものはなにかという披露のようなものをやったり、誰と誰が付き合っているという下世話な話をしたり、そんな話をしていると、昔が懐かしくなってきた。過去の経験や達成やその過程で生み出された果実のようなものを味わう心地がして、とても楽しかった。慎也は酒を飲み、料理を食べた。

 そんな話をしていると、突っ張ったような、いまはそれほど褒められた生活をしていない均も、じっと黙って何を考えているのかわからなかった卓巳も、そして、気のいい、あの幼いころから何も変わることなく身体だけが成長したような慎也でさえ、ひとつの会話で盛り上がり、懐かしさを味わいながら、うまい酒を飲むのだった。白ワインのあとに、芋焼酎をハーフボトルで頼み、それを水割りでちびりちびりと飲み始めた。

 追加で焼酎に合いそうな濃い味付けの料理を何品か頼み、それを肴に、余燼をくすぶらせるように互いに頭の中に浮かぶことをぽつぽつと他の二人に披露するということが続いた。盛り上がっているわけではないけれど、言葉が無くても伝わるという具合に親密な雰囲気が醸成されていた。

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