【短編】おもどりのさいチケットが必要になります

櫻 恭史郎

おもどりのさいチケットが必要になります

「モモ、元気ないね。疲れちゃった?」


 そう言って心配そうにするエリカのまぶたが、下から上にあがった。マスカラをたっぷり塗った長いまつげが彼女の目を下から支えている。


 先週、動物園で見たイグアナを思い出した。まどろむイグアナの、下から上へあがる奇妙なまぶたの動きが、エリカの顔にあった。



     *



 モモは、ポケットのなかを何度もまさぐった。


「おもどりのさいチケットが必要になりますので捨てずにお持ちください」


 人のよさそうなおじさんが入園チケットを切りながら説明してくれたのに、何度ポケットに手をつっこんでもない。


 エリカが、あんまり心配してなさそうな顔で言う。


「けっこう色々まわったから、どこで落としちゃったか分かんないね。あとで落とし物届いてないか聞いてみよっか」


 たぶん大丈夫だよ、と言われてソワソワした気分がいくらか落ち着く。


「これ乗り終わったら案内所行こ」


 エリカがそう言ったとき、列が動いた。


 先に並んでいた人たちがコーヒーカップに乗り込んでいく。入り口に「右回転でお楽しみください」の文字がちらっと見えた。


 モモは、体力があまっていそうなエリカにハンドルをまかせてカップに沈み込んだ。ブザーが鳴るとカップが回転し始める。エリカがハンドルをまわすたび、顔をかすめる風が少しずつ強くなる。回転が強くなると体が左に傾いた。


 逆だ。


 左回転している。


 気づいた時にはもう、勢いづいた左回転で体をまっすぐに保てないほどだった。



 モモは、体が左に傾いたまま、停止したカップからよろめきおりる。頭をあげて歩けないほど体の重心が左に傾いたままだった。

 腕をつかんで支えてくれているエリカに、回転が逆方向だったと伝えたが、特に気にする様子はない。


「だめなら止めてくれてたはずだから、だいじょーぶだいじょーぶ」


 エリカの明るい声。

 いつも通りの能天気さに気が和らぐ。


 エリカが地図を見ながら案内所を探している間、彼女の腕をたよりになんとか立って足先を見つめていた。


 小さな男の子が通りすがりにこちらの顔を見上げた。


 違和感があった。


「案内所すぐそこみたい。歩けそ?」


 はっとしてエリカを見る。

 胸のあたりが冷たくなった。


 まぶたがない。


 いや、ある。


 エリカが瞬きをするたびに、目の下にあるくっきりとした二重の肉がゆっくりと動いた。ゆっくりと、下から、上へ、布団を口もとに持ってくるときみたいに、引き上げられる。


 何も言わなくなった私に「疲れちゃった?」と聞くエリカの顔が近づく。


 ゆっくりと息を吐いてみる。

 細くて震えた、冷たい息がでた。


 かろうじて「大丈夫」と返す。


 案内所へ向かう間、通り過ぎる人たちの中に、正常なまぶたの人がいないか探す。


 一人残らずイグアナの目をしていた。


「案内所あった!」


 エリカの指さす先の看板を見て足を止める。


 見慣れた文字。

 読めるには読めたが、天地が逆さまだった。


 エリカを見てもその看板に特に反応する様子はない。


 もどらないと。


 漠然とその考えが浮かんだ。


 そうだ、もどらないと。今すぐに。


「ごめん、わたしもどらないと」


 モモはそう言って、振り返りざまに全力で走った。


 小さなつぶやきはエリカに届かなかったのか「え?」という声が背後に聞こえた気がした。


 いそげ。

 いそいで、もどらないと。


 モモは、いくつもの奇妙なまぶたを追い越して、コーヒーカップまでもどる。


 もどると、ちょうど入れ替えのタイミングだった。

 適当なカップに滑り込んで銀色のハンドルを握りしめる。手のひらの汗でハンドルが滑った。ブザーが鳴ると同時に渾身の力でまわす。



 モモは、傾いた体を引きずってカップから出た。エリカがやった以上に、勢いよく回したからか、天地が揺れて、視界が狭い。まわりの音が遠くに聞こえた。

 まわる視界をなんとか持ち上げて、出口はこちらの看板を見る。


 文字が正しい向きで書かれていた。


「あ、モモ!」


 エリカがこちらに向かって歩きながら手を振っていた。


 いつもの、エリカの顔があった。


 すれ違う人の顔を確認する。

 まぶたが上にある。

 違和感のない人の顔だった。


 大きな息が口から出た。肩の力が抜ける。


 そのとき、となりの男性が大きな声を出して手を振った。


「いーお! ちっこちっこ!」


 男性の視線の先で、メリーゴーランドの一角獣に乗った男の子が手をふっていた。


 肩をたたかれる。

 エリカの顔が間近にあった。


「るえかろそろそ?」


 近くに来てそう言ったエリカの肩先で、一角獣がゆっくりと、優雅になびく尻尾のほうへと回転し始めた。


 モモは、冷えた息を吐き出しながら言った。


「といならども」


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