わたしを呼ぶ声

数年後。図書館の地下資料室で、一人の少女が古びた手帳を手に取った。表紙には、手書きでこう書かれていた。


 「記録のための物語」


 中をめくると、最初のページにだけ名があった。


 「著:クレア(または、それ以外)」


 少女は静かにページを読み始める。名を失った者たちの記録。名前を与えられなかった少年リス。名前を拒んだ存在、匿名意思。名を返してほしいと願った、世界の声。そのひとつひとつの物語に、少女の心が少しずつ震えていく。やがて、最終ページにたどり着く。


 「これを読むあなたへ。

あなたが今、どんな名前を持っていても――あるいは持っていなくても、それはあなたがここにいる証です。

 どうか、いつか、あなた自身の声で、自分を呼んであげてください」


 少女は、ページを閉じた。そして、その場で、ポツリと名を呟いた。


 「……イヴ」


 その瞬間、空気がわずかに震えた。まるで、その音を誰かが聞いたかのように。遠く、森の奥。小さな風が立ち上がる。誰かが、かすかに、呼び返す。


 「イヴ……」


 それは知らない声。でも、確かに「名が届いた」ことを示す音だった。クレアの物語は、終わったのではない。名が語り継がれた瞬間、また誰かの声になった。そして、ページの最後にだけ、こう記されていた。


 「終わりではない。始まりと呼ばれたことの記録」

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あの音を聞いた日 長谷川 優 @soshita

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