さようなら、今日

さえき あかり

もう明日は要らないよ。

大阪の曇り空は、いつだって私の心を映し出す。鉛色の雲が分厚く垂れ込め、わずかな光さえも遮る。今日もまた、ベッドから体を起こす気力がない。重い瞼をこじ開ければ、そこにあるのはただ、慣れ親しんだ天井の染みだけ。生きている証のような、あるいは死んでいく過程を刻むシミ。もうどちらでもいい。


両親は、私が生まれたその日から、私を彼らの理想通りに育てようとした。彼らの言う「幸せ」のレールの上を歩ませようと、必死だった。私はそれに反発するでもなく、ただ漠然と従ってきた。そうすることが、きっと正しいのだろうと、幼いなりに考えていた。


幼い頃から、私は物語を紡ぐのが好きだった。真っ白なノートに、インクの染みが広がるたび、世界が鮮やかに色づくような気がした。ショートショートばかり書いていた。短い物語の中に、無限の可能性が詰まっていると感じていたから。登場人物たちの運命を、私の手のひらで自由に転がすことができる。そんな全能感が、孤独な私にとって唯一の救いだった。


中学の終わり頃、HTMLを独学し、自作のホームページを開設した。当時はまだ珍しかったインターネットの世界で、私はようやく居場所を見つけた。掲示板には、私の書いたショートショートを読んでくれる人たちがいた。彼らは、私の作品に惜しみない賛辞を贈ってくれた。画面越しの交流は、現実世界の孤独を忘れさせるには十分だった。彼らは私の「変わり者」な部分を、個性として受け入れてくれた。顔も知らない仲間たちとの繋がりが、私の創作意欲を掻き立てた。泉のようにアイデアが湧き出て、ハイペースで作品を量産した。あの頃は、ただひたすらに書くことが、私のすべてだった。


高校生になり、英語特化クラスに進んだ。語学への関心はあったものの、創作活動への熱意には及ばなかった。授業を放棄して図書室に籠もり、物語の世界に没頭した。周囲の視線は、もはや気にならなかった。私は私の世界で生きている。それで十分だった。


高校の終わりごろ、偶然、短編小説の募集を目にした。この分量なら書ける。そう直感した私は、迷わず応募した。数ヶ月後、結果が届いた。「次点」。惜しくも受賞には至らなかったが、東京へ出て作家を志す人が通うスクールに通う資格を得る、というものだった。胸が高鳴った。ようやく、私の夢が現実になるかもしれない。そう思った。


しかし、両親の反応は違った。

「作家なんて、不安定な仕事だ。そんなものに金を使うくらいなら、堅実な道を選びなさい。」

彼らは、私の夢を一蹴した。100万以上あった私名義の通帳のお金は両親に言われるがままに、車の免許、医療事務の資格、マイクロソフトオフィススペシャリスト(通称MOS)の受講と受験費用に消えていった。車の免許はうつ病の診断が下りてからすぐに返納して、手元に残ったのは経歴書のみ。MOSはのちに印刷会社の仕事を勝ち取るのに役には立ったものの、今となっては過去の栄光に過ぎない。東京のスクールの話は、並べられた親の御託の前では霞んでしまい、なかったことになった。私の心にぽっかりと穴が空いたような気がした。それでも、私は諦めきれなかった。作家になる夢を抱えたまま、私は母親の実家近くの女子大学に進学した。国文科、近代文学専攻。せめて、文学の世界に身を置くことで、夢を繋ぎたかった。


大学に入学し、父親が勧めた日当たりの悪いアパートで一人暮らしを始めた。窓から差し込む光はわずかで、部屋は常に薄暗かった。その薄暗さが、まるで私の心を反映しているかのようだった。孤独な生活の中で、私は太宰治の『人間失格』や芥川龍之介の『歯車』といった作品に深く傾倒していった。彼らの描く「狂気」や「絶望」は、私の心に深く響いた。


そしてそれまで湧き出ていたはずのアイデアは、課されたテーマでレポートが書けなくなったのを機にピタリと枯渇した。何かが栓を閉じるように何も書けなくなった。書けない日々は、私をさらに追い詰めた。昼夜逆転の生活になり、学校生活もままならない。それでも、「書きたい」という欲求だけは、心の奥底で細々と燃え続けていた。その火を消すまいと、私はブログを書き始めた。短い文章を連ねることで、かろうじて自己を保っていた。


ある日、ふと悟った。作家になるのは、今ではないのだろう。そう思って、かつて私の居場所だったホームページを閉鎖した。孤独は増したけれど、まるで幻聴のように響いていた心をガリガリと削るように書いてきた小説たちを無理に書かなくてもよくなったことにどこかホッとした気持ちもあった。


どうにかこうにか持ち直した私は、課題をこなし、ゼミの先生の多大な恩恵もあって、無事、留年することなく大学を卒業できた。あの先生には、本当に感謝しかない。


卒業は決まったものの、就職先はなかなか決まらなかった。毎日、就職活動に明け暮れた。ある生命保険会社の面接で、私は思い切って言った。

「大学では書く勉強をしてきたので、社会に出てからは話すほうに注力していきたいです。」

その言葉が功を奏したのか、私は営業職での採用通知を受け取った。直後、のちにリーマンショックと呼ばれる就職がさらに厳しい世へと変化していく中、この内定は私にとって、ほっと一息つける瞬間でもあった。


いざ入社してみると、営業所3か所合わせて100名ほどの同期がいた。初めは和気あいあいとした雰囲気で、少し安心した。しかし、営業をかけるために必須の試験をパスした後は、地獄のような光景が広がっていた。


パソコンに映し出される番号に、ひたすら電話をかけ続ける。電話、電話、電話、電話、電話。大半は出ない。出たとしても、営業だと分かるとすぐに切られる。中には話を聞いてくれる人もいたけれど、そこから営業に持ち込む隙を見つけるのは至難の業だった。毎日が、精神的に消耗していく戦いだった。そして、何より一番きつかったのが、対面ではないからこその罵詈雑言だった。「どこでこの番号を仕入れたのか」「二度と電話してくるな」「詐欺師」――聞くに堪えない言葉が、鼓膜を劈き、**心を抉る。加えて日々入ってくる同期たちが営業を勝ち取ってきたという報告メールも、その時の私にはただのプレッシャーでしかなかった。それらが相まって、**私の心は、徐々に摩耗していった。


眩暈が常に酷く付きまとい、仕事の日となると、朝、ベッドから立てなくなるほどだった。総合内科へ向かうと、医師は慎重な口調で「精神科」への受診を勧めた。「自律神経失調症の疑いがあります」と。しかし、両親は「精神科」という言葉を毛嫌いしていて、結局、受診は叶わなかった。退職とともに症状の軽減が見られたこともあって、そのまま受診の話自体がなかったものとなった。


その後、私のパソコンの技能が買われ、印刷会社の事務員に採用された。生命保険会社での経験とは打って変わって、事務の仕事は穏やかで、私は再び社会との繋がりを持てたことに安堵した。そして、同時に「書く側ではなく、本を制作する側でもいい。何かの形で本と繋がっていさえすればそれでいい」と思うようになっていた。


同時期に、現在の夫となる6歳年上の男性と知り合うことになった。私が24歳、相手も30歳。年齢的なこともあり、結婚の話はトントン拍子で進んでいった。ようやく親元を離れ、兼業主婦として自立した穏やかな日々が訪れる。そう強く信じていた。


社長へ結婚の報告に行くと、社長は私を労うどころか、開口一番こう言った。

「おめでとう。で、いつ辞める?」

寿退社という言葉が脳裏をよぎったが、男女雇用機会均等法が成立してから何十年と経過していた時代とのギャップに、私の頭はフリーズした。目の前の社長の顔が、怒りに歪んだように見えた。社長はさらにとどめを刺す。

「甲斐性のない男と結婚するわけじゃないだろう?」

カチン、と来た。その言葉は、私だけでなく、これから家族になる夫の尊厳までをも踏みにじるものだった。


私は、密かに反撃の準備を進めた。引き継ぎ途中にも関わらず、私は子を授かった。そして、在籍した2年間もの間に自分が担ってきた仕事の一通りの処理方法を、一冊の冊子に纏めてから、早々と会社を退職した。社長への静かなる抗議。そして、私のプロ意識の表れだった。


退職後、日々酷くなってゆくつわり、眩暈、嗅覚過敏。あらゆる匂いが混ざり合って食べ物すら異臭のように感じるようになっていき、外出することはもはや不可能だった。家に引きこもり、地獄のような日々を送った。そんな日々を支えたのは夫と、レンタルビデオ屋で借りてきた「くまのプーさん」、そして、一着の「自分で買ってきた」50サイズの赤ちゃんの服だった。


のちに、私に発達障害という診断が下されることになった。長年の体調不良や、過去の孤独感が、その特性によるものだったと知った。嗅覚過敏がその一端だっただなんて、その時の私は予想にもしていなかった。すべての点と点が繋がるような感覚だったが、同時に深い絶望も感じた。この特性が、私の人生をここまで歪めてきたのか、と。


夫は、結婚以来、私が発達障害と診断される以前から、非常に献身的に寄り添い続けてくれている。私の体調が優れない時も、外出が困難な時も、彼は文句一つ言わず、私を支えてくれた。そのことが、私をこの世に繋ぎとめる強固な壁となっている。彼がいなければ、私はとっくにあの世への道を辿っていただろう。そして、私たち夫婦の間に生まれた二人の娘たちも、私をこの世に繋ぐ架け橋だ。夫には、ひたすらに感謝の言葉しかない。


けれど、同時に、私の心には深い闇が巣食っている。うつ病が、常に私を蝕み続けている。夫の献身も、娘たちの笑顔も、私にとって「幸せ」であるはずなのに、うつ病はそれを「幸せ」と認識させてくれない。


「子供の道を妨げる親には絶対にならない」。それは、私が両親に抱く不満から生まれた、私自身の強い目標だ。娘たちには、私のようにはなってほしくない。彼女たちの夢を、誰にも、何にも邪魔されたくない。そう願う。


しかし、その目標を掲げれば掲げるほど、私はジレンマに陥る。幸せなのに、幸せを感じることのできない自分。まるで、幸せになれない呪いでも掛けられているかの如く、私の心は日々蝕まれている。


そして、ついに私は、筆を執ることも辞めると決めた。書くことを、完全に諦めたのだ。

自らが幸せになれなければ、幸せな物語は紡げないのだと悟ったから。今の私には、人を幸せにできるような物語を書くことは出来ない。


過去の呪縛を解くには、同じだけの時間を要すると聞く。私がここまで歩んできた時間は、あまりにも長すぎた。呪縛が解けたころには、もうおばあさんになっているだろう。夫との年齢差を鑑みると、夫は私より先に逝って、この世にはもういないかもしれない。それ以前に、今ですらままならない身体を引きずりながら、これから先、何が掴めようか。


絶望感しか残らない人生に、何も見いだせないまま、ただ時が来るのを待つだけ。できれば、早いほうがいい。安楽死の法案が早く通りますようにと祈り、そしてあの世への架け橋を探す旅に出るような心地だ。


さようなら今日。もう明日は要らないよ。

私は毎日、そう言の葉を紡ぎながら、夜ごと、静かに目を閉じる。

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